毒 (前)


   彼は最強と謳われた西国一の大妖を父にもち
   自身もまたその血を受け継ぐ強大な妖怪であった。
   あるいは何もかもを葬り去りたちどころに溶かしてしまう。
   それを知るものは皆彼を怖れ、震え慄き逃がれようとする。
   そんな彼が毒を恐れるはずも無く、ましてや毒に冒されようなど
   此の世の誰一人想像できないであろう。彼自身ですら。
   だが、その美しく強大な妖怪を蝕み、そのすべてを支配し
   五感をも奪うほどの毒をそれと知らず取りこみ、自ら冒されようとは
   いったい何が彼を狂わせたのか。その毒は彼にとって限りなく甘く
   そして他に取り換えるべくもなかった。

   その「毒」は「りん」と言った。





  「ねえ、邪見さま、この実とても美味しそう!」

  「邪見さまも食べよ!ほら。」

  にっこりと微笑むと珍しい木の実を連れの老僕に差し出す。

    話しかけられた老僕はしばしその笑顔に見ほれていた。

  りんと共に旅をするようになって、数年の歳月が経っていた。

  はじめはこ汚い、やせてちいさな子供であったが、最近は急に大人びて

美しい娘になった。中身はともかく外見は昔を知る者なら皆うなずくほど

  女らしく成長し、自分の子か孫のようにも思っている老僕でさえ、

  一瞬みとれてしまうほどだった。

  「人の育つのはほんに早いものだな。」

  「?邪見さま、何言ってるの?」

  「い、いや、なんでもない!それより、りん。それは見馴れぬものじゃ、」

  「口にしてはならん!」

  「駄目?良いにおいだよ。」

  「この物知り妖怪、邪見さまのようしらんものなど危ない。駄目じゃ!」

           主である殺生丸はこの娘を大事に育ててきた。実際面倒なことは邪見であったが

  何がどうしてか主はこの娘の命を救い、その後ずっと傍においてきた。

  りんは幼い頃からこの無口で冷酷な主を慕っていた。

  そして主もまた本人は無自覚そうだがりんを見る眼がこのところ特に深いことに

  気がついていた。いつのまにか老僕もこの娘のことを愛しく思い、愛情を注いできた。

    二人は種族も違いはするが、いまさら離れることはできそうもない。

  行く末を見守っていきたかった。

  ぼんやりとそんなことを考えていた邪見はりんのうめき声に我にかえった。

  気がつくとりんが先ほどの実を口にしたらしく一口かじり取られたその実とともに

  ばったりとその場に横たわっている。老僕は狼狽した。

  「りんっ!りんっ!!しっかりせい、ばかもんがあの実を食いよったのか?!」

  邪見がりんの元へ近寄ろうとしたそのとき、いつのまに帰ってきたのか

  主が現れ、ひざまずいてりんをひきよせた。生死を確かめると振り返り

  「邪見、水を汲んで来い。」と言うとすぐにりんの方へ向き直った。

  大慌てでとんでいった邪見に見向きもせず、りんの顔を引き寄せた。

  毒で変色した唇は顔色よりいっそう蒼かった。

  殺生丸は躊躇せず唇を重ねりんの体内の毒を吸い出そうとした。

  幸いまだ毒は全身に行き渡っていなかったのでりんはすぐに意識を取り戻した。

  だが、おかれている状況に気がつくと反射的に主から逃れようと身をよじった。

  しかしその行動が気に障ったのかりんは引き戻され強く抱きしめられると

  再び唇を奪われた。奪うといっていい乱暴なくちづけだった。

  あまりの激しさにおそろしくなって眼をぎゅっと閉じると涙がにじんできた。

     だが執拗に貪られ身動きすらできず、必死に殺生丸の着物にしがみついた。

  りんの身体が弛緩していき、意識も遠くなった頃、

邪見が息せききって戻ってくる気配とともにゆっくりと唇は解放された。

    殺生丸はりんの様子に自分のしたことを後悔したのか少し顔色を翳らせた。

  「りん、助かったのか?!良かった。良かった。」

  「りん、どうした?まだ苦しいのか?」

  心配する邪見に笑顔を作ってみせ、りんは火照る顔や身体を一生懸命おさえようと

  体を抱くが、少し震えていて、声が思うように出せなかった。

  「・・・じ、邪見さま、ごめんなさい。言いつけをきかずに・・・」

  「大丈夫か?そんなに震えて。良い良い、これで懲りたろう!」

  「さあ、水じゃ。飲みなさい。」「落ち着いたら殺生丸さまによく礼をいうんじゃぞ」

  「・・・はい、邪見さま。」

  元気のないりんの様子を毒のせいと思い、邪見はよしよしと背中をさすってやった。

  やっと震えが治まり、りんが礼をいおうと殺生丸のところへ行こうとすると

  離れて様子をうかがっていた殺生丸は現れたときのように突然舞い上がり

  どこかへ飛んで行ってしまった。

    りんは自分が彼を拒んだと思って怒ってしまったのだろうかと彼の姿が小さくなって

  いくのを不安げに見つめていた。

  そのまま夜になっても殺生丸は戻って来なかった。

  りんは眠れずにずっとその帰りを待ちわびていた。




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