毒 (後)


   彼は最強と謳われた西国一の大妖を父にもち
   自身もまたその血を受け継ぐ強大な妖怪であった。
   あるいは何もかもを葬り去りたちどころに溶かしてしまう。
   それを知るものは皆彼を怖れ、震え慄き逃がれようとする。
   そんな彼が毒を恐れるはずも無く、ましてや毒に冒されようなど
   此の世の誰一人想像できないであろう。彼自身ですら。
   だが、その美しく強大な妖怪を蝕み、そのすべてを支配し
   五感をも奪うほどの毒をそれと知らず取りこみ、自ら冒されようとは
   いったい何が彼を狂わせたのか。その毒は彼にとって限りなく甘く
   そして他に取り換えるべくもなかった。

   その「毒」は「りん」と言った。






   殺生丸は孤独を好む妖怪だった。自分が何かに捕らわれるなど

   ありえない。そんなつもりで命を救ったのではなかった。

   だが気がつくとあの匂いを探している。もう身体中に覚えこんだ。

     先ほども私から逃れようとするなど許せないとこの胸にしまいこもうとした。

   滑稽だ。いったい私はどうしたというのだ。なぜこうもこの匂いが消し去れない。

   すでに私の一部となっている。そう、私のものだ。なのに、なぜ?

   りんを身体ごと自分のものにするなどたやすいことだ。なのに

   りんがほんの少し離れようとしただけで、おびえるようにその身を震わせただけで

   目に涙をにじませただけで、これほど苦しい想いをするとは!

   りんを悲しませるものは許さない。己であっても。

 彼ははっきりと自覚した。己がもうりんから逃れられなくなっていることを。






       あれからずっと眠れずにいたりんはそっと寝床を抜け出し、外へ出た。

   真っ暗な空を仰ぎ、胸で呼び続けているその名をつぶやいた。

   「殺生丸さま・・・」

   どうして、泣いたりしたんだろう。殺生丸さまつらそうだった。

   会いたいよ、なんで、どこへ行ったの?早く帰ってきて。

   りんが目を瞑り、戻ろうとしたとき、ふうわりと風を感じて目を開けた。

   ちょうどりんが仰いだ空の上に月の光がきらめいた。

   ずっと待っていたそのひとがそこに浮かび、こちらを見下ろしていた。

   「殺生丸さまっ」

   あきらめたような、所在ないような表情をして彼はゆっくり降りてきた。

   「・・・なぜ、ここにいる?」

   「早く会いたかったの」

   どうやって自分を落ち着かせたのか、彼はいつものように冷静に見えた。

   だが、りんの顔を見つめたときまたどこかがざわついた。

   そんな彼の想いを知ってか知らずかりんは少し勇気をだすように自分の手を握ると

   「殺生丸さま。りん、まだ毒が残ってるみたいなの」と言い出した。

   そんなはずもなくほんの少し眉をひそめる。そしてりんの顔が月明かりでも

   そうとわかるほど紅いのに気づくとその意味を理解した。

   りんは自分が殺生丸を拒否したのではないと訴える為に、

   もう一度くちづけをせがんだのだ。

   「りん、私はお前を嫌いはしない。怒ってもいない」

   「・・・すまなかった。」

   りんは驚いた。謝られると思わなかったのと、なんと彼がりんに頭を下げたのだ。

   「殺生丸さま、やめて!殺生丸さまが謝る事ないよ、りんが悪かったの!」

   りんは泣きそうだった。「こわかったんじゃないの、殺生丸さまの匂いが・・」

   「? 私の匂い?」

   「りんと混ざってわからなくなって、このまま毒と一緒にふたりとも

    溶けちゃいそうで・・・なのに気持ち良くてこのまま二人とも

    死んじゃうのかな、それでもいいなんて、思って・・・」

   「・・・ごめんなさい。」りんはぼろぼろ泣き出した。

    殺生丸を困らせて謝らせてしまったことに衝撃を受けたらしい。

    だが、毒気を抜かれた顔をして妖怪はあるまじき優しい微笑みを浮かべた。

    ふんわりと優しくりんを抱きよせるとこぼれる涙を唇でぬぐい、

    その濡れたりんの睫にもくちづけた。

      「殺生丸さま、すごい! 涙とまっちゃった。」そう言うりんの顔は紅い

   「・・・ああ」

   ゆっくりと今度は無邪気な唇へ彼のそれが降りてくる。触れ合おうとした

   そのとき、「りーん、どこへいったんじゃあ〜っ!!」「りーん」

   寝床にいないことに気づいた邪見が探している声だった。

   「あっ、邪見さまーあ!ここよー!」

   せっかくの雰囲気は霧のように消え、彼は本来の冷酷な表情を取り戻した。

   「おお、りん、ここだったのかー。あれ?殺生丸さまいつの間にお帰りに?」

   哀れにもなんの事情も知らぬ老僕は主の腹いせのため流星となった。

   「殺生丸さま、邪見さまがかわいそう!」

   あわてて跡を追いかけようとするりんに「ほうっておけ」

   とだけ言うと突然りんを抱き上げて寝床にしている旧家へ向かおうとした。

   「殺生丸さま?」

   「毒が残っているのだろう?!」

   「!!!!」りんはまた真っ赤に染まった。







   その毒は彼にとって限りなく甘く
   そして他に取り換えるべくもなかった。
     その「毒」は「りん」と言った。
   その「毒」を味わえたかどうか、りんを傷つけることのできない妖怪には
   おそらくそう簡単には味わい尽くせないに違いなかった。
   甘い「毒」の誘惑と戦う日々が始まる。