誘惑



「殺生丸さま」りんがまた己を呼んでいる
何度も己の名を呼び、馨しい匂いで誘う
繰り返し波のように打ち寄せる想い
何度応えようと腕をのばしても泡のように消える
またそんな夢をみた




監視の目をくぐり抜けりんはまた愛しいひとの元へやって来た。
匂いですぐに気がつくがりんはわざとらしく隠れてこちらを窺っている。
”お仕事や御用を邪魔しちゃいけないよね”などと殊勝なことを言うが
結局は長続きせずに何度もやって来ては見つかって帰って行くのだ。
まるで隠れ鬼でもしているようで、さっさと捕まえてやりたいのに
りんは見つかってもさほど残念そうでもなくちらと可愛い舌を覗かせて去って行く。
捕まえて欲しいのか、欲しくないのかどっちだ。
子供っぽさにあきれはするが、どこかほっとしている己にも気づく。
私の顔を見ると満足そうに笑って手を振るときもある。
馬鹿馬鹿しいほどりんは私を翻弄する。憎らしさで眩暈がする。



「ただいま」とりんは抜け出した部屋へと戻ってきた。
「りんさま。またですか」少し恐い声が出迎える。
「ごめんなさい、朝香さま」ぺろっと舌を出して悪びれずに微笑むと
りんの世話役の溜息が漏れて「仕方のない方ですね」とお許しを貰うのだった。
「だって、会いに行かないと全然お顔の見れない日だってあるのよ」りんは真面目顔だ。
「ですが、あまりお邪魔ばかりしに行ってるとキツイお叱りがまいりますよ!」
「それでもいいよ。殺生丸さまに叱ってほしい。」
しかし、主がとことんりんに甘いことは周知の事実で有り得ないかと首を振る朝香だった。
「りんさま、お叱りならまだしもお仕置きだってあるかもしれませんよ」
「どんな?」りんはおもしろそうに尋ねてみた。
「そうですね、それはもうコワイお仕置きかもしれませんし」
りんは逆にわくわくした表情で「わあ、コワイ!どんなことしてくれるのかな?」
朝香は自分の敗北を知り、”殺生丸さまもお困りでしょうね、きっと”と心の中で呟いた。



或る日の昼下がり、りんはもうすぐそのひとがそこを通ると予想して中庭の植え込みに隠れていた。
もちろん、殺生丸を驚かすのは不可能であろうがお構いなしに嬉しそうであった。
手持ち無沙汰になって目の前の植木の伸び過ぎた葉っぱをつまんだりして遊んでいた。
するといきなり目の前が真っ暗になって少し慌てたがすぐに落ち着いて
「殺生丸さま!」と勢いよくその名を呼んだ。
「何をしている」そう聞こえたが顔はまだ見えない。
抱きすくめられて口付けされたりんは手がどけられても目を瞑ってしまったからだ。
愛しいそのひとの首に腕をまわしてせがむように身を摺り寄せた。
ますますきつく抱かれて息苦しくなるが離そうとしない腕に喜びを感じる。
長い口付けが終わってうっとりと目を開けるとあの金の瞳に出会い身体の奥がじんと痺れた。
「殺生丸さま」今度の声は先程の子供っぽいものとは比べものにならない。
その声に誘われてりんの白い首筋に唇を這わせる。
「や、くすぐったいよ、殺生丸さま?」りんが逃れようとするのを許さずに
首筋から上って柔らかい耳たぶを甘噛みするとびくっとりんの身体が跳ねた。
「なあに、殺生丸さま、おなか空いてるの?」りんは訊いてみる。
「・・・ああ」とだけ答えるとりんの感じやすいと知れた耳の奥へ舌を這わせた。
その全身を駆け抜けるような感覚にりんは眩暈を覚える。
つい両手で殺生丸の身体を押しもどそうとしてしまった。
「嫌なのか」と耳元で囁かれてさらにびくびくと震える。
「・・・わからない」「でももう嫌」と正直に答えた。
「だって身体の力が抜けちゃう、ふらふらになっちゃうよ」
「これしきでか」殺生丸は嬉しいやら哀しいやら複雑な顔をした。
「お仕置きなの?」とりんは尋ねた。
「あんまりお邪魔ばかりすると怒られてお仕置きされるかもって言われたの」
「そうだ」「まだまだこんなものでは済まんぞ」とおそろしげなことを言われて
「ええ?どうしよう。お仕置きされたいようなされたくないような・・・」
きゅうとまた抱きしめられてりんは目を瞬いた。
「・・・困ったやつだ」殺生丸が溜息まじりに言う。
「りんのこと嫌いになっちゃう?ならもうお邪魔しないから!」哀しげに訴えるりんを
「おまえを嫌う術など知らぬ」りんの髪をわし掴むように指を差し入れ己の顔を埋める。
自分をかき抱く指や確かめるように這わされる唇にまたあわ立つような感覚が蘇る。
必死でしがみつき、溢れて止まらぬ想いを受け止めようとするがりんは煩い心臓の音と
崩れていきそうな身体を持て余し、どうすればいいのか考えようとしては熱さに流された。
どうしようもなくなって切なげに名を呼べばまた口付けられて何もわからなくなった。
「殺生丸さま・・・」身を預けてつぶやくと名残惜しそうに身体が離れた。
「戻らねばな・・・」つらそうなその声に「どうして」と尋ねると
「このままおまえを食い殺してしまいそうだ」と吐き出されるように答えた。
ぞくりと背を上るものを感じながらりんはどう答えてよいかわからずに途方にくれた。
そっと額に口付けて、殺生丸は身を翻して庭を去って行く。
りんは追いかけたいのになぜか身体が言う事を利かず、あせるような眼差しで立ち去る背中を見送った。



”どうしたんだろう、私の身体は”
”思うように動かず震えてばかりで”りんは自問した。
”何を怯えているんだろう、こんなに愛しいのに”
”あんなにつらそうなのにどうして追いかけなかったの”
会いたくて会いたくて何度も思い浮かべる口付けも
なんだか今日は苦いような余韻がしてりんはその小さな顔を曇らせた。
”私がいけないの?殺生丸さま、あなたを嫌うことは私にもできないのに”
りんは自分がとても愚かで浅はかなことをしたような気がした。
嬉しいはずなのにどうかして抱かれているのが怖いと思ってしまった。
そのことが酷くつらく思えてりんは首をぶんぶんと左右に振った。
「こわくなんかない!」声に出して言ってみた。
「殺生丸さまにそう伝えなくちゃ」りんはどきどきと波打つ胸を抑えてそう言った。



殺生丸もまた後悔に似た想いに囚われていた。
りんを引き裂き血の一滴すら飲み込みたいような、
身体の五官全てを奪って鳴かせたい、そんな暗い情熱にりんが気づいたようで。
己の本性を知ってなおおまえが私を怯えぬ証はないか、
欲望を埋めようと舌なめずりする私を嫌わぬ術はあるかと問うてみる。
ほんとうは傷つけ血を流させたいと願う気持ちを知られるのが恐ろしい。
誘うのはおまえだとなすりつけてしまいたい。
無邪気な顔をしてあんな声を聞かせるおまえが悪いと。
拒もうとしても入り込んでくるおまえのすべてに
もう身体の抑えが利かぬ。
今度おまえが私を誘ったら最後だ・・・



何度も見る夢に飽いた
おまえが泣いて叫んでも
壊れて泡と消えても
次こそおまえを抱くだろう
繰り返し私を誘うおまえが
知らぬはずはない私の本性を
おまえは知っていてついて来たのだ
私はどんな目に逢おうとおまえを手に入れる
捕まえたらもう決して離さぬ
そのかわりおまえにくれてやる
己のすべてはおまえのものだ