Propose 


 
  Man proposes,God disposes.

 人は計画し、神はその決着をつける(ことわざ)



 真波には詳細な人生計画など皆無だった。 
だが明確なヴィジョンが無かった訳でもない。
一生、脚が動く限りペダルを漕いでいるであろうこと。
山や坂を駆け上がり続けていくこと。それともう一つ。

 世界一速い、あのこと勝負をして勝つこと。

 それらは至極当然で彼自身を構成する物事だった。
例えば一瞬にして山や世界が消え失せてしまうなんて
この世の終わりでしか有り得ない。つまりそれほどに
”生きる”為の必要不可欠な存在だったのだ、宮原は。

 ” なんで なんでなんでなんで!?”
 ”ウソでしょ?ねえほんと勘弁して!” 


 真波がそれを受け取ったのは海外でのレース後。
郵便事情が日本と比してかなりルーズなお国柄が災いした。 
珍しい『委員長』からのエアメイル。その内容を把握した瞬間
何度も何度も日付を確かめた。呆然とするも数秒、直後に彼は
荷物を掻き集めて空港へとダッシュしていた。

 一睡も出来なかった。なんでこんな大事なことを
電話でもなく電報でもないごく普通の手紙だったのだろうと
彼はそうでなくても遅刻常習犯だったと誰より知ってるはず。
あんまりだ。間に合うどころの話じゃない。真波は焦燥し、
それでも絶望は彼女に会うまでは受け取るまいと唇を噛んだ。

 彼女からの手紙の内容はシンプルだった。

 拝啓 真波山岳様

 ○○○○年○月○日 あのサイクリングセンターで
 待っています。そこであなたの勝負を受けます。 
 
                    宮原○○○
 
 追伸 勝負の後、私はある方と結婚します。



 握り締めてくしゃくしゃの手紙を震える手でまた開く。 
間違いなく懐かしい彼女の字。あのサイクリングセンター。
真波と宮原が初めて一緒にペダルを漕いだ記念すべき場所。
そこで長年持ちかけては断られ続けた勝負をしてくれると
それだけならば真波は万歳するくらい歓んだだろう。それが
最後に添えられた一文で全く違うものとなった。天地が正に
ひっくり返ったようだ。電話をしようかと何度も思ったが
怖くて出来ずにいる。日本の両親や知人にかけて確かめる
という手段もあるが、それも結局怖さに勝てず出来ていない。
ひらすら心の中で宮原の真意を求め、動揺を抑えるだけで
精一杯。どうやって帰ってきたか記憶にない程焦っていた。

 真意は元より、当の日付が数日前に過ぎていたのだ。


 予定より早い帰国のせいと、実家から出て一人暮らしの為
両親は驚いていた。そして荷物を降ろしただけで自宅へは
上がらずにお隣を訪ねたが宮原家は誰も居ないようだった。

 「・・母さん、あのさ、委員長どこにいるか知ってる?」

子供の頃からの呼び名である委員長で母親には通じた。だが
返答を待つ間、真波の内心は揺れに揺れ心臓音が耳に響いた。

 「もうここには居ないでしょ。知らないの?」

知らないと言えず口を結んだ。そういえば大学を卒業後、
就職先の都合で家を出たとか聞いた。確か社員寮に入ったと。
実家からもそう遠くなかった記憶をなんとか手繰り寄せた。
ただ両親もそれ以上のことは何も知らないらしい。

 ”母さんが知らないはずはないよね? 結婚したんなら”

手紙には勝負の後と記してあった。生真面目な宮原のことだ
そこは約束を破ることになるので待ってくれたのかもしれない。
けれど延期がどの程度可能なものか、一般常識に自信はないが
本当に誰かとの結婚を控えているのならば猶予は余りなかろう。
しかし時間は残されているといえる。未だ勝負もついていない。
真波はやっと落ち着きを取り戻し、連絡を取ろうと覚悟した。

ところが事は先へ運ばない。宮原の電話番号は変わっていた。
誰に尋ねてもわからないということは行方不明ということで
真波は頭を抱えた。片っ端から掛けた電話の相手の一人が
心配して飛んできた。高校時代の先輩、東堂だった。一緒にいた
からと他の先輩陣を引き連れてきたので同窓会の呈を奏した。
当然だが彼らから真波はなんだかんだと突っ込まれた。

 「それもこれも全部テメエが放っておいたからだろォが!」
 「そうだなあ・・おめさんちょっと待たせ過ぎたかもな?」
 「勝負を受けたのなら反故にはすまい。彼女は真面目だ。」
 「真波!グズグズしている時間はない!決着の時だ!今こそ!」
 
 その時だった。真波の電話に着信のサインが光る。
 急いで電話に出ると耳元であの懐かしい声がした。

 「委員長!?ごめんっ・オレ今日帰って来たんだ。」
 『それじゃあ手紙を受け取ったのも遅かったのね。』
 「えっ・・ま・まさか・・委員長・・・もう、」

 真波の表情から見守る皆にも緊張が走った。だが

 『・・手紙に書いた通りよ。』
 「待っててくれたんだ!よかった・・」

 勝負は明日に再設定され、真波は電話を切った。
見守りに行きたがった東堂を抑えて彼らはそれぞれに
真波へのエールを送って帰っていった。

 「この神の与えたチャンスを逃すなよ!真波。」

東堂が最後に告げた言葉に頷く。そうだきっとこれが
ただ一度の機会なんだと深く胸に刻む。あとは全身全霊
彼女と勝負をするだけ。そう決意し勢い込んだのだった。

 翌日。生憎と天候は彼らに味方してくれなかった。
低気圧の通過で次第に雨は必至。自転車レースは通常
続行される場合が多いのだが、公式でもなく相手は女性。
それでも真波は約束の地へとバスではなく愛車で向かった。
サイクリングセンターに着くとポツリと雨粒は落ちてきた。

 「遅刻しないなんて驚いたわ。元気そうね。」
 
 その姿を久しぶりに見た真波が駆け寄ると宮原はそう言った。 
目の前で自分に微笑んだのは間違いなく宮原だ。だというのに
何故か真波の胸は騒いだ。何が変わったのかわからず苛立った。
秀でた額から流れる長くて真っ直ぐな髪も、髪型も同じなのに。
そして三角眼鏡で意志の強い瞳と口元も変わってはいなかった。

 「委員長、メガネ変えた?」
 「いいえ。それにもう委員長じゃないわ。」
 「そっか・・なんか前より痩せたみたい。」
 「あんたはまた背が伸びたんじゃないの。」

違和感ははっきりとあった。一線を引かれている。隔たりに
真波が顔を曇らせると、宮原も溜息を吐いた後空を見上げた。

 「雨降ってきちゃったわね・・」
 「今度なんてヤだけど委員長が風邪引いても困るよね。」
 「そうね ”今度”は・・ないわ。」
 「今日オレが勝ったらお願いきいて。」
 「・・私が勝ったら?」
 「オレ負けない。今日は絶対に勝つよ。」
 「勝負に絶対はないっていうけれど・・」
 「委員長?」
 「・・私が負けても 嫌いにならないでいてくれる・・?」

宮原の大きな瞳が揺らいだ。透明な水が見る間に膜を張ってゆく。
そんな様子に背から波を被ったような気がして真波は声を荒らげた。

 「結婚なんてしないで!どこへも行かないで委員長!」

世界一速い宮原がその座を譲っても真波の世界から消えたりしない。
彼女がいなくなるだけはありえない。受け入れられない。それなのに
宮原の瞳には別離の決意が浮かんでいた。真波の声はほとんど悲鳴で
掴まれた肩が大きく揺れ、宮原の目からポロポロと涙が雨と注いだ。

 「お願いって・・それなの?」
 「ちがう・・誰なの委員長。誰と行ってしまうつもりさ。」
 「・・それは勝負してから言うわ。」
 「じゃあ勝負しよ。今すぐ。」

 一際大きな雨音が二人の耳に響いてきた。
まるで世界からそこだけ遮断されてように激しい雨が降っている。
サイクリングセンターは客もなかったせいか閉園の看板が出され
受付の前で宮原と真波は勝負できないまま呆然としていた。

 「・・・結局、勝負できないのね。」
 「・・・次って無いの?こんな場合でも。」

宮原は答えを探しているようだった。横顔は青く儚く見えて
どうにかして引き止めたい真波の焦りを更に強めた。しかし
それらをどうにか押し込め、二人して空を仰いだままでいた。
やがてほんの少し雨足がゆるんだ時、真波は前を向いたまま

 「勝負に勝っても負けてもオレは君が好きだよ、委員長。」

言った言葉から数秒、宮原が驚いた顔で真波を振り返った。
周囲から雨音が消える。宮原が発しようとしている言葉に
全神経を集中したせいかもしれない。口元は震えていた。

 「・・勝たなくても・・?」

怯えるように問う。頼りないそんな顔を真波は初めて目にする。
思わず微笑むと真波はゆっくりと首を縦にして「うん」と頷いた。
信じられないといった宮原の顔に胸が痛む。やっと理解できた。
宮原はずっと勝たなければいけないと思っていて勝負しなかった。
そしてそう思い込ませたのは自分だ。持ち上げて神棚に祀り上げ、
とてもシンプルな真波にとって当然の答えから遠ざけてしまった。

 「勝負しようって言ってたのはね、委員長がほしかったから。」
 「オレが好きなことなんてとっくに知ってると思ってたから。」
 「だから勝負して勝ったらもらうって決めてた。・・勝手だね。」
 「委員長はこわかったんだね。オレやっとわかった。ごめんね。」
 「委員長がオレの前からいなくなるかもしれないって思ったらさ」
 「こわくてこわくて・・震えて焦ってどうしようもなかったよ。」

 「勝負しなくてもいいんだ。そばにいてよ。」
 
 最後の言葉は動かない宮原に正面から向きあって告げた。
その唇が真波の名を必死に紡ごうとしているのがわかった。

 「さ・んがくの・お・おね・・がい・・?」
 「うん・どうかオレと結婚してください。」

堰を切って宮原の涙が滝となり、言葉にならないまま嗚咽となる。 
羽のようにそっと小さな体を包み込むと真波は一つ長い息をした。

 「・・つかまえた。もうだれにもあげない。」

涙が止まらなくて返事もままならない宮原を抱いたまま、
真波は唇で水滴を拭ったが追いつかずに髪に顔を埋めた。
宮原は何も変わってはいなかった。変わろうとしていたのだ。
だから勝負しようとしたんだろう。しがみつく腕や熱い頬が
あの頃と同じ少女だと教えてくれる。真波から再び溜息が溢れた。

 「委員長・・委員長のお願いはなんだったの?」
 「・・わ・私のこと・・忘れて・って・・だって」
 「イヤだよ!ゼッタイきかないからね!」
 「しょうぶ・・する気・ならまだ私が世界一とおもってるって」
 「うん、それはまあ思ってはいたけど。」
 「だから終わりに・・して・私も・・もう・・忘れようって・」
 「だめだから!オレ怒るよっ!」
 「っ・・さんがく・・が?怒るのってみたこと・ないかも・・」
 「そだね。怒られるのは慣れてるけど。」
 「ぷ・っふふ・・ふっ・」
 「やっぱり笑ってるほうがかわいいね。」
 「っば・ばか・・」
 「あっ!それで誰なの結婚する相手!オレそいつぶん殴る!」
 「だっだめよ。その・・それはもしあなたに振られたらって」
 「振られたらそいつに乗り換えるつもりだったのっ!?」
 「ち・ちがうのよ・・あのね・・」


 その夜、真波は電話口で怒っていた。滅多にない後輩の剣幕に
臆するでもなく相手は高らかな笑い声を伴って真波に言い放った。

 『丁度潮時だったのだ!委員長ちゃんが気の毒で見ておれんかったのでな!』
 『振られる気でいたようだがそんなことにはなるまいと信じていた!しかし』
 『万が一お前が委員長ちゃんを振るようなら俺と結婚したまえと言ったのだ』
 『それで思いついたので手紙にはそう書き加えてもらったのだよ!わははは』
 『なに結果はわかっていた。わかってはいたがいや〜目出度いな真波よ!そ』

とどまりそうにない通話をそこで終わらせた。神という称号を持つ男、
東堂に怒っている素振りを見せたものの、傍らの宮原には大丈夫と笑って
少々お節介焼きではあるが愛すべき月下氷人に対し、真波は深く感謝した。