Heated


 
 「はい、あーん。」
 
 眼鏡が無いとつい眉間に皺寄せてしまうのだが
対象が見えにくくて目を凝らしたのではなかった。
相手の途惑いを気取る風もなく匙を差し出す男は
いつも以上ににこやかに小さな口が開くのを微塵も疑わずに
待っている。宮原は覚悟を決めて口を開けるほかなかった。

 寝込むなんて数年ぶりのことで体の調子が狂うと精神にも
支障を来しても仕方がない。つまりネガティブな方向に沈みつつ
一人暮らしの自宅のベッドでうとうとしていた。そこへ訪問者が
ドアフォンを鳴らす。こんな事態だしだるいので無視していると
ドアを開錠する音がした気がして宮原はビクッとして飛び起きた。

 ”泥棒?強盗?変質者?” 頭に悲惨なニュースが駆け巡る。
緊張と熱で震えながらも宮原は何か武器になるものはと探す。
こんなことが自分の身に降りかかるなんてと泣きそうになりながら
全く役に立ちそうにない雑誌を丸めたものを手に身構えた時だった。

 「おじゃましまーす!委員長〜・・ってあれっ!?」
 「さっ・さんがく!あんたなんでっ・」

 ひょっこりと顔を出したのは宮原の幼馴染の真波山岳。
驚き固まった宮原の様子にああ、と彼は片手で鍵を持ち上げた。

 「驚かせたんならごめん。おばさんにこれ借りてきたんだ。」
 「はあ・・あああ?!」

 チェーンもしといたほうがいいよなんて言う侵入者の前に脱力した
宮原はへたり込んだ。チェーンしていたらあんた入れてないでしょうと
弱弱しくも言い返すが、その時は呼んで起こそうと思っていたらしい。
そこらじゅうに響き渡ったかもしれない事態を想像すると寒気が増した。
頭も緊張が解けた途端痛み出す。そんな宮原に真波は言った。

 「寝てないとダメじゃないか。」
 「誰が起こしたと思ってるのよっ!」

きっと睨み付けて文句を言う宮原に構わず、真波はすっと屈みこむと
座っている宮原の脇をひょいと持ち上げ、あっという間に抱き上げた。
あわあわと声の出ないうちにベッドへ運ばれて寝かされ布団を掛けられた。

 「オレが居るから安心して寝てて。用はなんでも言ってね。」
 「看病する気なのはわかったけど、帰りなさい、さんがく。」
 「えっなんで?オレ部活ちゃんとお休みしますって言ってきたよ?」
 「たっただの風邪だし寝てれば治るわ。伝染ったらどうするのよ。」
 「ちゃんと着替えだって持ってきたんだよ、ホラ。」
 「聞いてる?って、・・」 
 「委員長が復活するまでオレが面倒見るからね。」
 「〜〜〜〜〜〜とっ泊まり込むつもりなのっ?!」

 言い出して実行しないという選択肢を真波が知らないことを宮原は
よーく知っていた。もう驚くのも文句を言う気力も削がれてしまった為
宮原は諸々を諦める。誰を恨んでもこうなったらどうしようもないのだ。

 とはいえ、安心して眠るどころではなかった。
長い長い年月を近くで過ごしてきた。普通なら幼馴染という関係は身内に
次いで気の置けない間柄なのかもしれないが、宮原にはそうではない。
眠れなくて布団の中に潜り込みながら悶々としてしまう。髪も顔も洗わず
熱でかさかさの肌。着たままのパジャマ。普段より散らかった部屋などが
宮原の心をじわじわと苛む。どうして放っておいてくれないのかと母親と
真波をうらんでしまい、日頃体調管理をしっかりなんて言っていた自分が
恥ずかしくて情けなく涙も出ない。宮原は耐えるように唇をかみ締めた。

 静かなのでちらっと布団から顔を出してみると真波は居なかった。
ふうと深呼吸した。息を詰めて丸まっていたから体があちこち痛む。
そうだいまのうちに。思った宮原は洗面所へ向かった。用を足して顔を
洗い、髪を梳かした。鏡に映る顔はやつれていてげっそりする。こんな
姿を見られて世話をされるなんてどんな拷問だろう。だって真波山岳は
幼少から小中高、そして大学生になった今でも好きな宮原の特別な人。
そんなことちっとも知らず、きっと今のままを望んでいるに違いない相手。
普通女の子の知り合いが病に臥せったとしても見舞いすら遠慮するものだ。
ある程度回復すればありかもしれないが、一人暮らしに泊り込むなんてことは
おそらく恋人同士以上の特別な関係以外にないはず。つまりそういうことで。

 ”わかってる・・私はお隣さんで幼馴染。恋愛対象外なんだから・・” 

再確認作業を終えてのろのろと自室へ向かうと真波が心配そうに寄ってきた。

 「気持ち悪いの?」
 「ううん、吐いたとかじゃないわ。大丈夫。」
 「寒いでしょ、ベッドに戻ろ。」
 「抱き上げるのはなしで!」

察して先に真波の行動を制すと真波が眉を下げてだめなの?と呟いた。
しょんぼりするほどのことだろうか。宮原はちょっと可哀相になった。
なのでベッドに戻ってから「喉が渇いたんだけど・・」と言ってみる。
するとぱあっと顔を綻ばせた真波はなんでもあるよとラインナップを
宮原に示し始めた。そのうちの一つをチョイスすると喜んで用意しに
台所へ飛んでいった。おちおち寝込んでいられないと思っていたのだが
看病することに使命感を抱いているらしい真波の為に多少病人のままで
いた方がいいのだろうかと思ってしまった。直ぐに戻ってきた真波から
冷たいポカリスを受け取り飲んでいるとしみじみとした声で真波が言う。

 「昔はオレの方がよく世話してもらってたよね。」
 「・・私はそんなに世話してないわ。おば様にでしょ?」
 「委員長はいつも学校のプリントとか持ってきてくれた。」
 「委員長だし、お隣だったからよ。」
 「それにオレのお願いよく叶えてくれたじゃない。」
 「お願い?そうだったかしら・・?」
 「うん、オレ委員長には結構わがまま言った覚えあるよ。ふふ・」

 なんのことだろうと首を傾げる宮原だが真波の記憶は鮮明らしく
さらさらと口元から流れる事柄に宮原の記憶も手繰り寄せられた。
それは紙飛行機を飛ばしたいとか、糸電話で話したいとか子供らしい
些細なお願い事が多かった。すっかり忘れていたこともあったので
真波に釣られて宮原の口元も綻ぶ。共通の思い出は幼馴染の特権だ。
その他にも母親に見つかって宮原が怒られた出来事もあった。
  
 「そうだったわ、私が怒られてしまってね。」
 「委員長はそれでも泣かなくてすごいなあって思ったよ。」
 「あんたが泣くから私は泣くわけにいかなかったのよ・・」
 「だって委員長のこと叱らないでって言ってるのにさあ!」
 「そうそう、あんたは私を叱らないでってよく泣いてた。」
 「委員長はずっと昔からオレのヒーローみたいだったな。」
 「・・喜ぶべきところなのかしら。」
 「かっこいいもん!」

 弛んでいた宮原の口元が固まる。世界一速いとかかっこいいとか
確かにしっかり者だともよく言われる宮原だが、正直嬉しくはない。
特に真波に言われるのは堪えた。ふわふわしてカワイイ子が好きだと
真波の言う理想とは正反対だと毎回毎回思い知らされるからだ。
慣れているとはいえ、体が弱っている時だからか涙腺まで刺激されて
宮原はそっと目元を拭った。真波の笑顔がそれを見てたちどころに曇る。

 「委員長、何か食べたいものない?なんでも作るよ。」
 「私はいいから。お腹空いたのなら何でも食べてて。」
 「委員長といっしょがいい。だから後で何か食べよ?」
 「そうね。ありがとうさんがく。後で何か食べるわ。」

再びベッドに横たわった宮原におやすみと告げると真波は部屋の照明を
落として出て行った。そのことにほっとして宮原は布団の中で泣いた。

 どれくらい経ったのかわからないが眠った後ふっと目覚めた宮原の
視界に見覚えのある髪がぴょこぴょこと揺れていた。真波の頭頂部だ。
部屋は眠った頃より暗くて長いこと眠ったのだと思う。宮原を待って
空腹のまま眠ってしまったらしい真波はベッドに背をもたれた状態で
薄着のまま何も掛けていない。このままでは伝染るまでもなく風邪も
引きかねないし、体勢から不調を来たすこともあるだろうと心配になる。
起き上がって自分に掛けていた毛布をはがすととりあえず掛けてやった。
ところがその拍子に真波の上体がぐらりと揺れた。慌てて支えようとしたが
宮原の思い適わずしがみつくような格好で二人共々床に転がってしまった。

 「ふあっ!?あっあれ?委員長?!」
 「ごめんなさい!頭打った?怪我してない?!」
 「あーちょっとぶつけたけど平気。委員長こそ大丈夫?」
 「あんたのおかげで大丈夫よ。それよりなんでこんな寝方してるの!」
 「いやーいつの間にか寝ちゃってた。」
 「そういえばお布団がなかったのね・・ごめんなさい。」
 「大丈夫だって。委員長ちょっと元気出たみたいだね。」
 「そうね、だからさんがくは帰って寝たほうがいいわ。」 
 「えっやだよ。ご飯いっしょに食べるって言ったじゃない。」
 「でももう遅い時間みたいだし、私は別に食べなくても」
 「食べられそうなら食べないとダメ!ねえ何がいい?!」
 「わ・わかったから。食べるから腕放して。顔近いっ!」

 結局拵えてもらった卵粥をふーふー冷ます真波の前で宮原は構えた。
自分で食べれない程の病人ではないと宮原が断ったのに真波は頑として
オレが食べさせると主張して譲らない。そんなわけで「はい、あーん。」
となった。宮原は恥ずかしいのとどこか腑に落ちない感でもだついた。
食べたのだか機械的に飲み込んだのやらわからぬまま、食事が終了すると
次に真波が提案したことに宮原はまたしても倒れ込みそうになった。 

 「お風呂無理なら体拭いたげよっか?」

倒れそうな背中を必死で保ちつつ丁重にお断りする宮原に真波の攻撃は
続く。毛布一枚貸してもらえれば宮原の横で先程のように寝ると言うのだ。

 「それはだめよ、体に良くない。」
 「絶対大丈夫だから。そうする。」
 「心配で眠れません。本末転倒でしょ?」
 「もー!じゃあいっしょに寝る!」
 「ばっバカ!怒るわよさんがく!」
 「委員長細いしこのベッドならいけるよ、うん。」
 「・・・そこまではうちの母も許可しないとおもうけど?」
 「何もしないよ。それならいいでしょ?」
 「何もって・・いえ聞かなかったことにするわ・・」
 「委員長がして欲しいのならいくらでもするけど?」

 その時ぶちっと宮原の中で何かが切れる音がした。
真波が本気なのがわかる。わかるからこそ当然だろう。
泣きそうなのを必死で堪えていたがとうとう手が出た。

  ぱちん
 
 音は迫力を欠いていたし、威力もほぼ皆無の平手打ち。
それでもそこに込められた想いは重い。宮原の手は震えた。

 「いくらさんがくだからって・・冗談でもやめて。」

宮原の瞳は涙で決壊寸前ではあったがかろうじて耐えていた。
そんな宮原を呆然と見つめる真波の顔にはわからないと書かれていて
それが易々と読み取れる分だけ悲しい。ただただ悲しかった。

 「あんたが親切で色々してくれてるって知ってるわ・・」
 「だけどね、私そんなの望んでない。放っておいてよ。」

宮原の言葉に傷付いたように真波の瞳が揺らいだ。いっそこのまま 
幼馴染を終わらせて永遠にさよならするのもいい機会かもしれない。
宮原は一度大きく息を吸うと、心を固めようと目を閉じた。涙が
零れ落ちるのに構わず、再び目を開いて真波の目を真っ直ぐに捉えた。

 「私ね、さんがく。あん・」

好きだと言いかけた言葉は真波の胸で遮られた。抱き込まれた宮原の
細い体は震えることもできないくらいにぴったりと包まれていた。
動けない宮原に体を通して声が響いた。聞いたことのない声だった。
 
 「・・だ。いやだ。お願いオレのこと嫌わないで。」

弱弱しい声。幼くて病勝ちだった頃でもこんな声は聞かなかった。
宮原を抱いているのではなく、すがっている。逞しくなった体で。

 「・・・私がさんがくを・・きらう?」

呟くとビクッと真波が揺れた。言葉をトレスしたに過ぎないのだが
真波には宮原が「嫌い」だと告げたと思ったのだろうか。一層強く
抱きすくめる腕だけでなく、真波の伏せていた顔が宮原の頭に乗る。

 「嫌わないで。オレがバカでも見捨てないでよ。」

勝手に嫌われたと思い込んでいる真波の背中をぽんぽんと叩いてみる。
そうすることで少し腕の力が弛んで宮原は下から真波の顔を覗き込む。
大きくなってしまって首が痛いなんて思いながら、長い睫が震えるのを
見とめ、抜き出した片手で頬を摩ってやった。泣いてはいないけれど
傷付いて弱っている彼を宮原が見放す理由はどこにもなかった。

 「バカさんがく。私そんなこと言ってないわよ?」
 「えっ・だって・・ごめん。オレの下心のせいなんでしょ。」
 「下心?」
 「委員長が望んでくれたらなってオレの勝手な願望。けどっ」
 「えっと・・あれって本気で言ってたってことなのかしら。」
 「?・・それで怒ったんじゃないの?オレ委員長が嫌なら絶対何も」
 「しないんだ。」
 「??冗談でもそういうのダメなんじゃ・」
 「私が怒ったのはね。私の下心のせいよ。」

わからないと見えて真波の首が傾いだ。宮原はふっと笑ってしまう。
笑顔に引き込まれて見詰めてくる真波だがやっぱりわからないらしい。
なので仕方ないと宮原は諦めた。真波の前ではいつだってそうなのだ。

 「私 好きなの。でも欲しいのは体だけじゃないのよ。全部なの。」

わかりやすく伝えたつもりだが真波はぽかんと口を開いたまま動かず
裸眼を細めてみても真波の表情からは気持ちが読み取れなかった。
なのでもう一度と口を開きかけた途端、真波が顔を真っ赤に染めた。

 「え・ええ!?えっとオレ・・バカだから間違ってないかな!?」
 「たぶん間違ってないわ。悪かったわね、理想と逆の重たい女でっ!」

悔し紛れの宮原の言葉に真波は赤らめた顔ではははと声立てて笑った。

 「なにそれ!オレの理想って・・委員長なのに!おかしいよ!」
 「はあっ!?嘘おっしゃい!あんたはふわふわしたのがすきって」
 「それ委員長のことだもん。委員長もおばかさんなとこあるよね。」
 「なっ!?」
 「オレずーっと片思いだとばっか思ってたや!嬉しくて死にそう。」
 「さっきからどうもあんたも私のこと・・そう聞こえるんだけど。」

 ぷーっと腹を抱えて笑い出した真波にむっとする宮原が叫んだ。

 「ちょっと!なんで笑うのよ!こっちが必死の想いでいるのに!」
 「だっだってだって委員長が可愛過ぎておかしくなっちゃう!!」

 驚いている宮原を笑いながらもう一度真波は抱きしめた。

 「ねえやっぱりいっしょに寝よ!委員長。」
 「はにゃっなな・なん・」
 「なんでってわかってくれるまで言うから。一晩中でも。」
 「えっちょっ・・私いいなんて言ってないわ!」
 「熱上がっちゃったらごめんね?看病続けるよ。」
 「ちゃんとわかるように言いなさい!さんがく!」


 その晩中続いた真波の告白のせいで宮原は眠れなかった。

 「わかったから・・もういいから寝かせて・・・」
 「ほんとにわかった?ねえねえ、好きだよ?いいんちょう!」

 熱に浮かされたその夜は二人には忘れられないほど長かった。