五月の約束


 



 「良い天気だなあ・・」


 晴れ渡った五月の空を仰ぐと自然と感嘆の吐息がこぼれ落ちた。
絶好の登坂日和に心が逸る。だが今日は思うまま山に向かう訳にいかない。
要件を抱えているからだ。それも 一生に一度という最優先任務なのだった。
そして自転車とは関連がないものの、これは彼なりに心逸る事項でもあった。
その証拠に珍しく眠れない夜を過ごした。あれだけ用意した目覚ましの数々も
全て無駄に終わり、実家からの電話で飛び起きた。帰省していれば良かったが
そうできなかったのだから致し方ない。とにもかくにも最善を尽くすのみだ。


 「ごめん委員長・・急ぐから待っててね。」


 幾度も浮かぶ怒り顔と声に心の中で手を合わせながら愛車のペダルを踏んだ。
山と違って街中は交通規制が多く思うように速度は上げられないものの可能な限り
最短コースを計算し選びながら走る。彼は切羽詰まった状況に焦ってはいない。
元々の性質もそうであるし、目的は遅れたところで絶対に果たせると思っている。
そもそも彼が到着しなければ、式は始めることすら出来ないであろうから。


 「楽しみだなあ!綺麗だろうなあ。」


焦るどころか独り呟いたり、ニコニコと笑顔で走っていた彼が信号待ちで止まる。
すると歩道から小さな女の子の声が聞こえたので振り向いた。

 「おムコさんだ。・・おヨメさんは?」

不思議そうに見ている少女は5歳頃だろうか、二つ括りのお下げをしていた。
その姿や様子に少し驚いた顔をして、彼は優しい声で答える。

 「お嫁さんは教会で待ってるんだよ。一番早い乗り物で行くとこなんだ。」

ふーんと頷く少女の横で母親が困ったように頭を下げたのであわせて会釈する。

「可愛いね。俺のお嫁さんもむかし君みたいに可愛かったんだよ。」
 
言われた少女は嬉しそうな顔を浮かべた。そうこうしているうちに信号が変わり、
走り出す彼に少女は「バイバイ!はやくおヨメさんとこいってね!」と叫んだ。
小さな声援に片手を上げて応えると彼は一気に加速して親子達は見えなくなった。

「昔の委員長みたいで可愛いかったなあ・・今も可愛いけどね。」

ホカホカした心持ちになって漕ぐ彼の白いロードバイクは滑るように路を走った。
着替えを背負うのはシワになりそうだったのと、小物を忘れてしまいそうなので
衣裳を着たまま走ることにしたのだが、結構厳しいのは動き難さと暑さだった。
ボタンを外して前を開けて みるも自転車用と違って重く、揺れて邪魔であるし、
一番の難点である汗で中のシャツは既に濡れた状態と変わりないことはかなり拙いと思う。
自転車向きでないのは当然なのだ。白いバイクとお揃いのスーツは少女の指摘通りで、
花婿が身に付けるものなのだから。一応ギアで汚さないよう右脚の裾は捲くりあげた。
汗は上着に隠れて見えないことを願い、衣裳が足りないよりはマシなはずだと諦めた。

「さっ急がなきゃ!そぉお〜れっ!」

街中を過ぎ小高い丘に近づけば後は信号もなく、ラストは彼の得意の坂しかない。 
坂の上にこじんまりと建つ教会まであと少し。彼は極上の笑顔でペダルを回した。




「ほんとにごめんなさい!山岳ったら・・こんな日にまで遅れるなんて!」
「大丈夫ですよ、おばさま。きっと大急ぎで向かってると思いますから。」 

 教会の控え室で花婿の母親が頭を下げ、花嫁がそれをなだめる光景が続いている。
今日参列してくれている花婿の高校時代の自転車競技部の面々も心配してやって来て
哀れにも主役の花嫁が一人で皆を落ち着かせようと奮闘するというそんな構図である。

 「あンのバァカ!携帯も電源入ってねえし、今ドコなンだよ!ったくウ!」
「全く呆れたことだ!学生時代から少しも成長しておらんではないか!?」
「宮原サン、待ってると腹減らないかい?これでも食う?」
「皆で捜索に出ようにも我々は今日ロードではないのだ。・・すまない。」
「福チャンが謝ることねエだろ!?普通こんな格好では乗れねエっての。」
「当人は自転車で向かってると思います。お待たせして申し訳ありません。」

花嫁に頭を下げられて元部活の先輩陣は口々に彼女を労い控え室から退去していった。
親族達にも移動してもらい、花嫁はしばらく一人で待たせてもらうことにして息を吐く。
椅子に腰を下ろすと鏡には疲れた表情の自分がいて、ちょっと落ち込んだ。
せっかくの化粧がこれ以上崩れては悲しいものがあるので、修正することにした。

 「・・・来るわよね?さんがく・・まさか逃げちゃったんじゃないわよね。」

周囲には大丈夫と気丈に言い張ってはいたが一人になるとポロリと弱音が零れた。
フルフルと首を大げさに振って不安を払おうと試みた。多少効果があったかもしれない。

 「私っていつもこんな役回りね。でも・・約束は守るわよね、さんがく。」

化粧直しを済ませて控え室の窓から外を見た。登ってくるなら正面の坂道しかない。
大好きな坂の上にあるここでと決めたのは彼なのだ。嬉しそうな顔が脳裏に浮かぶ。
細々したことは丸投げだった彼の一つだけのリクエスト。否とは言えなかった。
不安だった気持ちが少し収まった。結婚を承諾した時だって彼は本当に嬉しそうだった。
お互いが長いあいだ片思いと信じていた。高校卒業を期に生まれて始めて別れ別れになり
もう想いはアルバムに仕舞われるばかりだと思っていたから驚きは大きかった。
数年だけ離れ離れであったけれど、その期間があったからこそお互いの存在を見つめ直し
必要だと確かめられた。だからのばしてくれた手を今度は離さない。思い出はこれから
二人一緒に重ねていくのだ。そんな彼是を思い出せば不安はすっかり消え去った。
 

「あ。さんがく!やっと来たわ・・・!」

丘を登って笑顔を浮かべて、気のせいか羽までも煌めかせて幼馴染がやってきた。
目に入った瞬間立ち上がっていた。花嫁はドレスの裾をかきあげて彼の元へ走る。
教会の前に飛び出した花嫁に、白いロードは置き去りにして花婿が両手を広げると
駆け寄って高く抱き上げる。それらは扉を開かれた教会の中の参列者たちの目にも届いた。


「いいんちょう!委員長スゴくキレイ!スゴイスゴイ!お嫁さんだ!」
 「っ・///おっ遅いわよバカ!皆待っててくれてるのよ!あんたったら・・」
 「ごめん。心配した?でも来ないわけないでしょ!俺ちゃんと来たよ!?」
 「あたりまえよ、ばか・・」
 「泣かないで。笑って。いいんちょう。」
 「まずは下ろしなさい!ちょっ・きっキスはまだよっ!」

花嫁がそこではっと気付いて「はにゃあああああっ!!?」と叫んだ。
彼らの目の前に今日の式の参列者達が教会前に出てきて見守っていた。
遅れてきた花婿に怒号も混じってはいたが、良かったと到着に拍手する者も多い。
どの顔にも笑顔が浮かび、主役の二人が揃ったことを歓迎してくれている。
恥ずかしさで真っ赤になりながら、抱きついている花婿を剥がそうとする花嫁は
奮闘空しく花婿に抱っこされたまま教会へと進む。神父が中央で両者に向かって

 「デハ、始メマショウカ。」とにこやかに諸手を上げ告げた。



 式はその後厳かに始まった。のであるが、順調に進行したとは言い難い。
主な原因は花婿で、段取りを何一つ覚えていなかった為一々間違ったのだ。
極めつけは指輪の交換をすっとばして誓いの口付けに至ったところであろうか。
しかも軽く触れるだけでいいものを抱き寄せて熱烈に重ねたものであったから
花嫁の羞恥はいかばかりであったか。とうとう大きな声で教会ということも忘れ

 「バカッ!いいかげんにしないと怒るわよっ!!」
 「いてっ!殴んないでよ〜!ごめん。またちがっちゃった?」

などというコントのような場面が展開され、参列者たちの苦笑を誘った。
どうにかこうにか式を終え、教会の外でライスシャワーが行われる頃になる頃には
花嫁は安堵とくたびれた様相が混じっていたが花婿は疲れなど微塵も感じさせなかった。

 「結婚式ってむつかしいんだねえ・・でももう一回してもいいな。」
 「なっ・・あなたもう別れたいっていうつもりなの!?」
 「ちがうよ、委員長可愛くて綺麗だからもっと見てたいなってこと。」
 「なんだ、私はもうゴメンだわ。けど・・アリガト。」

花嫁はその時ようやくほっとしたのか照れくさそうに礼を述べると微笑んだ。
 
 「やっと笑った。うん、やっぱり笑ってる委員長が一番綺麗だよ。」


 せっかくの笑顔も彼の一言で涙が溢れ出てしまったのだが、慌てた花婿が
必死でなだめる。そんな彼らに周囲も祝福の想いを惜しみなく注いでいた。

それは五月のよく晴れた空の下、二人が未来も共に生きる約束をした日のこと。










 「好いお天気だったから山に登りたいなーって来る時思ったでしょ。」
 「スゴイなんでわかるの。でも今日はいいよ、今度一緒に登ろうね。」
 「自転車で?」
 「もちろん。」
 「勝負するの?」
 「してくれる?」
 「どうしようかしら・・」
 「一生掛かりそうだね。」
 「諦めないのね。」
 「俺はずっといいんちょうが好きってことだよ。」
 「ばかさんがく。だいすき。」
 「うん、知ってる。」