36℃ 


 
 汗がつうっと米神辺りから流れ落ちた。
外気との温度差は激しく体は調節に忙しい。
山を登っている時も汗はかくが地上とは感じが異なる。
どうしてだろうなと真波はぼんやり窓外を眺め思った。

 学校へ遅れてやってきたはいいが、熱が引かない。
空調の不具合だそうだが、生徒数の多い校舎内は特に
集まった人いきれだけでも蒸し暑さを増すようだった。
山へ行きたい。また思いながら机に伏せようとすると
周囲の男子達が珍しく起きていた真波に声を掛けた。

話題は取るに足らないもので真波は適当に相槌を打った。
女子の話題は興味がない訳でもないが面倒だなと感じる。
話題においても自転車に乗っている連中とそうでない者との
温度差はあるのだ。真波は結局輪から抜け教室を後にする。

 移動か何かで空いていた教室に入り込みほっと息を吐く。
学校にだって面白いことはあるし、男子生徒達が嫌いでもない。
ただ自分の居場所ではない。不本意を常に感じ意気消沈した。

 「見つけた!真波くん。休み時間もう終わるわよ。」
 「委員長。」
 「サボる気じゃないでしょうね。」

 はは・・と否定するでもない様子の真波に委員長宮原の眉が上がる。
厳しい言及に身構えた真波だったが、意外にも彼に近付いてきた彼女は
その細くて白い腕を伸ばし掌を彼の額へと軽く触れてきた。

 「熱はないみたいね。暑さにやられたのかと思ったわ。」
 「優しいね、委員長。大丈夫だよ。」
 「優しくなんかないわよ。それより気分良くないなら保健室行きましょ。」
 「え、オレ顔色でも良くない?確かに暑いなって思うけど。」
 「元気がないわ。ちょっとオーバーワークなんじゃないの。」
 「ふふ・・いっつもサボってばっかりとか言うのに。」
 「授業はね。自転車はどうかすると頑張り過ぎなくらいよ。」
 「だって楽しいし。オレ強くなったからそんなに心配しないで。」
 「・・・それくらいしたっていいじゃない。」

 宮原のその言葉は小さな呟きで真波とは別方向に零されたものだった。
心配くらいさせろと幼馴染の彼女が思ってくれると真波は沈んでいた心に
明りが灯ったような温かみを感じて我知らず微笑んでいた。

 「なぁに?保健室行って休ませてもらう?」
 「ううん、いい。」
 「無理しちゃダメよ。」
 「委員長の顔見たら元気出てきた。」
 「なに言ってるのよ・・本当?」
 「うん。委員長不足だったのかも。」
 「バッ・バカなこと・・」

 「委員長汗かいてる。オレのこと探して走り回った?」
 「・・廊下を走ったりはしてないわ・・暑いからよ。」
 「へへ・・オレ委員長の汗の匂い懐かしい。」

 「懐かしい?」

 訝る幼馴染に真波は二人の共有する思い出の一つを持ち出した。

 「ほら、昔一緒にお昼寝したでしょ?」
 「そっそんなこと随分昔だし・・」
 「覚えてない?夏だったよ、オレも汗かいてた。」
 「覚えてるけど・・汗のことなんて。」
 「ちょっとだけ・・イイ?」
 「へっ・・!?」

掴んでいた腕を強く引かれて宮原は座っている真波の膝上に落ちた。
慌てて退こうとしたが片手は握られたままでかろうじて一方の手で
真波の胸元を押し返そうとした。ビクともしなかったのだが。そして
膝上から退くことのできないまま、首筋に真波が鼻を近付けたのに驚き、
背筋にピリッとする感覚が通って思わず目をぎゅっと閉じた。

 「うん。委員長の匂いだ。オレきっと委員長のはわかるよ。」

何故か得意気な顔でそう言った。顔が離れたことにちょっとホッとしながら
一体それを何と比較してなのかと宮原はもやっとしたものを頭に浮かべた。

 「あんたの匂いかどうかなんて私にはわからないわ。」
 「そう?そいやオレも今日暑くて汗かいたけど・・くさい?」
 「まさか私にもあんたみたいにして確かめろとか言わないわよね?」
 「確かめていいよ。」
 「イヤよ!それより放しなさい。いつまでこうしてるつもり?」
 「あ、ごめん。」

あっさりと腕は離れ、途端に感じた冷たさに宮原は汗ばんでいたことを知った。
汗の匂いなんて気にしたこともなかったが急に自分の匂いを嗅いだ幼馴染の男に
今更ながら胸奥の動悸を感じる。とても何かいけないことをされたかのような。

 「オレさ、制汗剤とかのキツイ子ってダメなんだ。」

 唐突なのはいつものことだ。まだ先程の話と関連が無いわけでもない。
真波は少しだけ男子生徒間での話題の中で気になったことを思い出したのだ。
彼の会話の不思議さに慣れている宮原は何事かと思いながらも耳を傾ける。

 「部室とかの強烈に男臭いのは仕方ないと思うんだけどさ。」
 「そんな情報いらないわ・・」
 「女の子はちょっと香りつけすぎだよ。」
 「汗の匂いがしたら嫌だもの。いいじゃない。」
 「うん・・けど委員長はあまりそういうのつけないでしょ。」
 「私だって全くってワケじゃないわよ。汗拭きシートくらい使うし。」
 「だけどあんまりプンプンしない。いつも自然な感じがする。」
 「は・・あ・・そうかしら。」
 「うん、オレの好きな匂いのままでいて。」
 「・・・そ・そう・・?べつにいいけど。」
 「よかった。」

 宮原の眼前で無邪気な笑顔が輝いた。こういうところはまるきり幼いままで
先程身震いする位男を感じさせた真波はなんだったのだろうと肩を落とした。

 「熱中症じゃなさそうだし、そろそろ教室に戻りましょ。」
 「たまには一緒にサボっちゃわない?」
 「バカおっしゃい。何のためにプリントさせてると思うの!」
 「一緒に保健室でお昼寝っていいアイデアじゃないかなあ。」
 「さ・ん・が・く!怒るわよ。」
 「うわあ・・もう怒ってるじゃん。」
 「誰のせいよ。」
 「へへー・・オレのため。」
 「あんたのためじゃなくてあんたのせい。」
 「さっきはあんなに優しかったのになあ。」

 宮原が眼鏡をくいっと直す。これも彼女の照れを誤魔化す手段の一つだ。
真波のためなら損な役回りだろうと悪役ですら彼女なら進んで行動するのだ。

 また真波の胸が温かくなった。宮原は周囲の男子達が話題にするような
女の子ではない。真面目過ぎてお固くて、取り付く島もないといった雰囲気で。
そのことに真波はいつもほっとする。誰の妄想の端にも彼女がいて欲しくない。
彼らと同じく興味はあっても、宮原は別なのだ。女子であることは承知していて
一度も口に出したことはないが可愛いと思う唯ひとりの存在であるのだが。

 ” 委員長が可愛いって思うのはオレだけでいい”
 
 実はぼんやりしていてもあまり学校へは真面目に登校していなくても
つい耳が拾ってしまうのは宮原のことだ。その中には勿論好意も含まれている。
誰だと思っても忘れてしまうが、宮原を好むのは同じような真面目な男子に
限らない。だから気が気でない時もある。どうしようもないとわかっていても。

 「ぼうっとして大丈夫?やっぱり熱でも出てきたんじゃ・・」

 繁繁と宮原を見上げていた真波に再び宮原の白い手が伸びてきた。
こんなに無防備に近付いてくれるのもやっぱり嬉しい反面、怖しい。
この真波にとって一番の存在を失ったり穢されるようなことがあったら・・
意外にも真波は楽観論者ではない。そうかといって悲観論者でもなかった。
ただこの汗塗れにな若くて暑い時期に沢山の誘惑と危険があると知っている。

 「そうかも。オレたまに委員長見てると胸が痛くて。なんでだろ。」
 「何よ。どうせコワイとかイヤだとか思ってるからでしょ。」
 「ははっイヤじゃないよ。オレにもよくわかんないんだけどね。」

 白くて細い腕の先の掌も同じく白くて優しかった。真波の前髪をそっと退け
額に触れた瞬間まるで魔法が掛かったような気分がして真波は両目を伏せた。
本当にどうしていいかわからなくなる。いつもいつも彼女が近くにいると
落ち着かない。なのに安らぐ。押し殺した欲が触れたいと願う。なのにそれを
他の誰よりも己が禁じてしまうのだ。

 「くるしい・・やっぱり熱かな・・」
 「さんがく?熱はないみたいなんだけどやっぱり保健室行きましょ。」
 「あ、チャイムだ。いいの?委員長連れてってくれるの。」
 「当たり前でしょ。さ、立てる?私に寄りかかっていいわよ。」
 「委員長ってカッコイイな・・(惚れるなって方が無理だよ)」

 立ち上がった真波は宮原よりかなり上背がある。なので本気で体重を
預けてしまうと潰れて二人共へたってしまう。だからほんの少し寄り掛かって
みると真波の目の前に宮原の頭頂部が見えた。そうっとそこへ唇をも寄せる。

 「もっと捕まっても平気よ?いい?行くわよ。」
 「うん。いいよ。」
 「いつもこれくら素直だといいのに。昔はそうだったけどね。」
 「オレいつだって素直なのに、ひどいな〜!」

役得を自覚しながら真波は宮原に覆いかぶさった。支えていた彼女がよろめく。
しかしぐっと力が入るのがわかった。踏ん張っている宮原は健気で微笑ましい。

 「いいんちょ〜・・オレやっぱりしんどいかもー!」
 「大したことないわ、少し休めば大丈夫よ。」
 「久し振りに委員長の匂い嗅いだからかな。」
 「どういう意味よ、感じ悪いわね!私のせいで具合悪いみたいに。」
 「だって・・委員長の匂い好きなんだ。」
 「ちょっ!?顔近付けないで!?息が・」
 「かかっちゃった?あ、眼鏡がズレた。」
 「えっあら・・でも両手が塞がってて・・」
 「オレが直す。」
 「あ、ありがとさんが」

 「ーーーーーっ!!!」
 「うあっ・・」

宮原は込めていた力が一気に抜けてしまい、その勢いで二人してその場に
へたり込んでしまった。宮原の眼鏡が外れカツッと音を立てて傍らに落ちた。

 「びっくりしたあ・・あ、委員長。ごめん。眼鏡落ちちゃった。」
 「い・・・いいいったい・・あなたななな・なにをっするのよ!」

 「・・汗かいてるなーって思って・・出来心?」
 「だっだからって・・なっ舐め・なめ・・なめ」
 「ぷっナメクジみたい。」
 
しゃがみこんで笑い出した真波の頭上に拳骨が落とされた。宮原の拳は
小さいがそれなりの威力があった。思い切りポカポカと叩くので真波も
さすがに困って「わー!ゴメンナサイ。いいんちょー!」と嘆願するが

 「ひっ人をからかって!おっ女の子にいっつもこんなことしてるの!?」
 「ええっ・してない!しないよ、いいんちょうにしかしないって!」
 「うそうそうそっ・・ダメよこんなことしたら!しないでさんがくっ!」
 「わかった。しない。もうしないから・・いいんちょう〜!!?」

荒い息で肩を怒らせ、真っ赤に湯立った宮原からは湯気が出ていそうだ。
しゅんと反省の色を見せて真波は立ち上がると拾った眼鏡を差し出した。

 「昔は良くて今はダメとか・・大人になるのも考えものだね。」
 「!?あんた・・反省してないわねっ!」
 「してるよ。・・委員長、ごめんなさい。」
 「ふ〜・・ほんとね?こんなことは好きな人と交際後にしなさい。」
 「え〜・・いつになるかわかんないじゃん、それじゃあ!」
 「あっあんたならいつだって選り取りみどりでしょうっ!」
 「委員長。委員長もね、オレ以外に親身にならないでね。」
 「はあ?!」

 「オレはいつだってどんなことだって委員長とって決めてるから」
 「は?」
 「ほかの女の子の匂いなんてどうでもいいよ。」
 「ん・・と、私ちょっと耳が・・あれ?私の方が熱くない?」
 「えっああっホントだ。顔赤いままだし、熱、あるかも!」
 「ちょっあんたは触らないで。気のせいだわ、うん。きっと」
 「熱かったよ!一緒に保健室行こう。でもって一緒にお昼寝しよ!」
 「ちがうでしょ!?」
 「舐めたりしないから。心配しないで。」
 「思い出させないで!?もうっもうっ!」

 「・・・もしかしていいんちょう、あの時感じちゃった!?」


 教室から廊下にまでも響きそうな音が鳴り響いた。
宮原の手から放たれた一発の平手は真波の頬を鮮やかに染めた。