You are so sweet.
〜愛しの君〜



りんは忙しそうに手を動かし、台所は甘い香りが漂っている。
この時期は女の子には重要行事があって、りんの周囲でもなかなかの騒ぎ。
しかしりんが忙しいのはこの屋敷の皆に配る恒例のお菓子や頼まれた友人のため。
お菓子を作るのが趣味のりんは嫌な顔一つ見せず、皆のためにお菓子を作る。
「菓子職人になるのか?」と邪見は半ば本気で尋ね、毎年楽しみにしている一人。
美味しいと言ってもらえるのが嬉しくてりんは一生懸命こしらえる。
「えーと、ガナッシュはOK、トリュフも出来た!」「あとは・・・」
そんなりんの様子を複雑に眺める視線があった。
りんを幼い頃に引き取り、兄のようにいつもりんを見守り育ててきた男だ。
事故で家族を亡くしたのはまだりんが小学三年生のとき。
男は見た目は良いが子供好きどころか皆から怖れられるほど気難しい男だった。
周囲の不安を他所に二人は絆を育てていったが、ひとまわりほどの年の差があったため、
ほほえましいと思う者が大半で恋愛とは無縁と誰もが思っていた。
なにしろ本人たちですら、そんなことは思いもよらないことだったのだ。
そんな二人がお互いを意識しだしたのはほんのつい最近のことだった。
以前からりんに親しくしてくる同級生などを苦々しく思ったり、
りんが自分を信頼して一途に慕っていることに少しずつ苛立ちを感じたりと
何かしらりんのことに関して己の気持ちに疑念を抱いてはいた。
はっきりと自覚したのはりんが誰か特別に想いを寄せる男がいると知ったときだった。
そのときの怒りに似た理不尽な感情が嫉妬からだと気付いたとき呆然とした。
だからといって保護者として過ごしてきたこれまでをどうすることも出来なかった。
りんが少しづつ女らしさを表すようになる度に心を揺さぶられていたことが今更に思い出された。
りんはもう15になる。想う男が居ても不思議な年齢ではない。
そしてその対象は当然兄と慕う自分ではないと予想できた。
こんな少女相手にどうかしていると思いつつ、自覚すればしたで想いは募った。
りんが14日にチョコを作り始めたのはいつ頃であったか思い起こしてみる。
確か小学五年生のときだったと思う。作ることが目的で、好きな男のためではなかった。
当然出来あがったものは屋敷の皆や友人に配られた。恒例になるほど評判だった。
甘いものが苦手な男にはなるべく甘くないものをと工夫してこしらえた。
だがそれが特別な意味を持たない以上、りんから渡されるそれは苦いものでしかない。
殺生丸は甘く芳醇な香りがすればするほど居た堪れない気がした。
そんな男の苦悩を知らず、りんは今年こそはと誓いを立てて一心不乱だった。
幼い頃からずっと兄と慕い心を許すただ一人の男性、その人に告白するために。
彼への恋心が少しずつりんの中で育っていたことに最近ようやく気付いた。
そしてそれからはどんどんとりんを支配し、もう隠し切れなくなっている。
いつからかと問われれば悩むだろう。それはいつの間にか忍び込んでいたというのが正しい。
りんは彼が自分を妹のように思っていることは自覚していた。恋人の対象ではないことを。
釣り合わないことも承知、もう恋人がいるかもしれないことも分かっていた。
そして告白してそれでお終いの確率がほぼ100%だとも覚悟していた。
言わない方がいいのかな・・・りんの心はどうするべきか揺れた。
だがもう苦しくて傍に居ることも適わない。そう思って決意したのだ。
りんはこれまでお世話になってきたけど、これを機会にここを出ようと思っていた。
高校へはこのまま進学させてもらうが、小さなアパートにでも将来への準備として引越させてもらおう。
高校を出たら一生懸命働いて、これまでのご恩を少しでも返していこうと考えていた。
りんは大人しそうな外見と違い、頑固で芯の強い娘だった。決意はふられること前提であった。
感謝で一杯のこの気持ちと一緒にここを旅立たなくてはだめだ。
辛いだろうけど、殺生丸さまを心の中で慕いつづけることだけは内緒にして。
そんな決心もあって、りんは今年のお菓子作りにはいつにない熱がこもっていた。
エスプレッソマシンから濃い香りが立ち込め、ふと手を休めたとき視線に気付いた。
「殺生丸さま!いつからそこに居たの?」りんは見られていたことに顔を赤らめた。
「居たら悪いのか。」不機嫌そうな様子で答え、男は眉を寄せる。
「ちょうどエスプレッソが入ったの。飲んでね、殺生丸さま。」そんな男にりんは微笑んだ。
「・・・」答えは無かったがテーブルに腰掛けたので飲んでくれるらしい。
「お疲れ様、殺生丸さま。おかえりなさい。」とりんはカップを差し出した。
「ああ・・・」りんの入れてくれたそれはとても良い香りを立てている。
「今年は随分な気合の入れ方だな。」と思わぬ感想を聞かされた。
少し恥ずかしげに「・・・うん。わかる?」とりんは答えた。
誰かにその特別のものを渡し、告白するのかとは訊けなかった。
そうとしか考えられなった。おそらくそうなのだろう。
好きな相手を紹介でもされたらと思うとぞっとした。殴り倒すかもしれない。
どんな奴かとも訊けない。気に入る訳がないのだから。
「今年、私の分は要らん。」とりんにとって更に思いがけない言葉を耳にした。
「ど、どうして?りん、一生懸命・・・」りんは狼狽し、おろおろとした。
出来具合を試食させられるのが我慢ならないと思った男の気持ちなどりんに知る由もない。
見る間に涙がこみ上げ、りんは哀しそうに懇願した。
「そんなこと言わないで、お願い。殺生丸さま・・・」
「くどい!」怒気を含んだ言葉にりんは打ちのめされた。
抑えていた感情がきりきりと痛む胸から溢れ出そうとしていた。
「どうしてそんな意地悪言うの。」りんは男を潤む瞳で見詰めて問いかけた。
しかし答えが返ってこない。りんはどうしたらよいか分らず呆然となった。
「りんは・・・好きになっちゃいけないの?」自分でも思いもよらないことを口走った。
何かがプツンと切れたような気がした。りんは大声で叫ぶように言った。
「殺生丸さまのために作ったらいけないの?」「だって・・・好きなんだもの。止められないの!」
りんの突然の告白に殺生丸は驚き目を見開いてしまった。しかし言葉は返ってこない。
「・・・それならもう作らない!一生作らない!!殺生丸さまのばかっ」
りんはわあっと泣き出してその場から逃げ去ろうと踵を返した。
りんの告白を間抜け面で聞いていた殺生丸はやっと事の次第に気付き、慌てた。
部屋から出掛かっていたりんの腕を掴んで引き戻そうとした。
「待て、りん!」慌てて殺生丸が掴んだ腕をりんは振り解こうと抵抗した。
「いやっ、離して!」りんは取り乱していて、殺生丸の手を叩いた。
暴れるりんをどうすればいいかと逡巡した後、少々乱暴に頭を抑えて口を塞いだ。
「!ん、んん・・・」りんは突然のことにもがき、逃れ様とした。
必死に男の胸を叩き、力を込めて離れ様とするがびくともしないばかりか
ますます身体を強く抱きしめられ、息が苦しくなって力を抜いた。
するとやっと自分の置かれている状況が分かってきた。
殺生丸に抱きしめられ、口付けされているのだと理解すると身体全体が熱くなった。
そして頭のなかでは何故?何故?と疑問ばかりが涌いてきてこうなった訳を飲み込めない。
生まれて初めてのいきなりのキスに、どうすればよいか分らずに目をぎゅっと瞑った。
りんが落ちついたことを確かめてゆっくりと離したがりんはまだ目を閉じたままだった。
「りん。」と名を呼ばれてようやく目を開けた。
至近距離の瞳に驚いて俯くりん。とても顔をまともに見ることができなかった。
「あれが私のためだというなら話は別だ。」殺生丸の言っていることが一瞬分からなかった。
「え?」と思わず顔を上げて訊き直した。
「何処かの馬の骨に作ってやっていると思っていた。」と聞いてやっと意味が分かった。
「殺生丸さま・・・それって・・・」りんは自分の思い浮かべた答えに自信がない。
だが男の方もりんに聞かせる言葉はかつて言った覚えのないことで、少しためらった。
こんな少女に振りまわされたことも苦い想いを抱いたことも彼にとって初めてのことだったのだ。
「いいか、りん。一度しか言わん。」意を決して口を開いた。
「どこの誰にもやらん。お前は私のものだ。」真剣な口調だった。
目を見開き、その言葉を噛み砕く努力をした。やはりそうなのか。
「はい。殺生丸さま・・・」力のない返事が気に入らなかったのか男は眉を寄せた。
「あの、殺生丸さま?りんのこと・・・好き?」りんはまだ信じられず確かめようとした。
「わからないのか、好きだと言っている!」りんでなければ怒りそうな不遜な言い方だった。
「は、はい。ありがとう。殺生丸さま。」りんが零れるような微笑を見せたので男はほっとした。
りんをもう一度抱きしめて「分かればいい・・」と呟いた。
まさかの事態にりんは気持ちを抑えきれず、心浮き立つまま信じられないと呟いた。
りんの髪を撫でながら、「疑うならもう一度するか?」と言いつつ顎を掴んだ。
上向きにされて先ほどのことを思い出し、りんは真っ赤になって首を振った。
愛しさに眩暈すら感じながら殺生丸はぺろりとりんの鼻の頭を舐めた。
びくっとしたがすぐにぽかんとした表情になるりん。
「なんで舐めるの?」と訊いてきた。
「味見だ。」と嬉しそうな殺生丸だがりんはわかっていない。
「? りんの鼻にチョコ付いてた?」と恥ずかしそうにした。
「いいや。」と否定されると不思議そうな顔をした。
「まだ食べてないでしょ?」りんはまだお菓子のことだと思っている。
「足りないな、全然。」とますますわけがわからない。
りんを腕に抱いたまま、りんの耳元へ囁いた。
「お前のことだ。」
「!!?」
「り、りんはお菓子じゃないよ!」
「だが甘い味がする。」
りんは困ってしまった。どうしようもなく恥ずかしい。
そんなりんを見詰めて殺生丸も困っていた。
”ほんとうにこのまま食ってしまいたいな”と。
甘い芳香で目の前が揺れる。息までが苦しい。
りんは彼にとってどんな菓子よりも甘く、魅力に溢れている。
幼い少女にどこまで己の理性が持つか、男はかなり危うげだ。
りんはどきどきと煩い心臓の音にも困り、離してくれない腕にも困った。
だが肝心の自分の貞操の危機はほとんど感じていない。
「殺生丸さま、も、離して・・?」とつい言ってしまった。
「却下だ。」とあっさり言われ、再び唇を覆われてしまう。
今度は意識がはっきりしている分、りんは感触にくらくらとして震えた。


そのままりんが食べられてしまったかどうかは二人だけの秘密。
毎年この14日に思い出されるエピソードには違いなかった。


  Happy Valentine's day.