愛(うつく)しき娘 



 「今日はとてもあったかいね、殺生丸さま。」

 まるで独り言のようにりんの鈴のような声だけが林に響く。
人里から外れた林の内の、陽だまりの空間に娘は座している。

 丁度腰掛けるのに良い大きさの岩が在り、りんはその上に座り、
やや離れた隣に座る人に在らざる者、所謂妖怪に話しかけていた。
見る者はないが不可思議な光景であろうその空間は静に満ちていた。
風もなく小春日和と称される冬の日。彼らはひと時を共に過ごし、
なんということもない一日を謳歌している。会話でもなく独り言で
あったとしても、りんは幸福そうであり見守る妖怪も又そうなのだ。


 「美しくなった」と誰もが口にするようになった娘、りん。
人里で多くを学び、利発さに加えて働き者でもある。そうなれば
自然縁談の舞い込む時期である。遠くから噂を聞きつける者もある。
しかしそれらがりんの元へ届くことはこれまでに数える程しかない。

 人里へと預けられた当時からずっとりんは妖怪を待ち続けている。

 りんを慕う者は村の中もいたが、そのことは誰の目にも明らかだった。
待ち続けていると見えるりんを、絶えず見張るように訪れる妖怪の姿も又 
若者の想いを留まらせるのに十分な脅威だった。数度村が質の悪い魔物に
襲われることがあったが、りんの居場所だけは無事であったという事実も
妖怪の庇護を裏付けた。そして何よりも一目殺生丸の姿を見た者であれば
余程の命知らずでない限り対抗しようなどという大それた願いは持たない。

 ともすれば卒倒しそうな妖気を放つ姿に人々は怖れを抱いたが、
りんは当然怖れることはなく、そんなりんの眼前でのみ妖怪は穏やかだった。
口に出さずとも誰もが妖怪はりんが育つのを待っているのだろうと理解した。

 当の二人はといえば、相変わらずりんが話しをするのを傍らで聞く、ただ 
それだけの為にいる姿しか目に入らなかったが、その日は珍しく風が起こった。
何気ないりんの一言を耳にした妖怪、殺生丸がつと、無言のまま立ち上がった。
数歩歩んで立ち止まった殺生丸はそこで背を向けたまま。りんは驚き見詰めた。

 「殺生丸さま・・?・・私、何かいけないことを口にしましたか?」

 応えはない。普段ならばそれを気にとめないりんもこの時ばかりは途惑った。
自らも岩から降りると殺生丸の傍へ歩み寄ったが、触れない距離で立ち止まる。
りんはふと思い出したのだ。昔、この背を一心不乱に追いかけていたことを。

 ”そういえば最近見てなかった、この背中・・なんだか懐かしい・・”

 幼い頃に気紛れのように拾われた命だった。その出会いを忘れない。
置いていかれまいとしても妖怪ならば飛んで行ってしまえるはずなのだ。
ところがりんにとっての奇跡は出会いだけに留まらなかった。一度もう駄目かと
思った時、りんは失くしていた声の限りを尽くして叫んだ。「行かないで」と。

 命を拾われた際に声が戻っていたことをその時は知らず、必死の想いで呼んだ。
共をしていた者から知った妖怪の名も初めて口にしたのだった。「殺生丸さま」。
振り向いてくれた瞬間、りんは決めていた。もう離れまい、離すまいと思った。

 りんの想いを汲んだようにそれから一行に加わることとなった。里へ預けられる
までの夢のような月日。それは幸せで信じられないほどだった。今もよく夢に見る。
そうして今、少し背が伸びて近くなったとはいえ、殺生丸は変わらずに大きい。
あの頃と今、離れたくない想いは同じ。だが・・

 殺生丸が突然態度を変えたのはりんの小さな羨望混じりの言であった。
 
 「そうそう、かごめさまにお子が授かったのですって、殺生丸さま。」

 村に来てりんは知った。殺生丸が人間など虫けらのごとく嫌っていたこと。
妖怪達から恐れられていたことはよく知っていた。しかしそれは意外だった。
そうして己がいかに特別な待遇の人間であるかを聞かされた。不思議な話だ。
 
 りんにとってはかけがえのない、温かで穏やかで優しいその者が・・・
しかし如何に特別とはいえ、りんは人、殺生丸は妖怪、そのことも承知している。
人として生きる術を身に付ける、それは望むに拘らず別れの準備でもあるのだ。
昔と今の違い。それは大きいのか小さいのか・・りんにはわからなかった。

 風が林の木立を振るわせ通り過ぎた。殺生丸の髪もりんの髪も揺らいだ。
穏やかな日であっても冬の日中、通り過ぎる風は冷たい。りんも思わず震えた。
見詰めていた背中がゆっくりと振り返るその様をやはりじっと見詰めていた。

 「選ぶのはりん、お前だ。私はそれを止めることはせぬ。」

 殺生丸の言にりんは身を硬くした。風が吹き抜けた時よりも強く吾身を抱く。
それは思いやりとも取れる言葉であった。りんが何れかへ嫁すのを許すという。
表情はいつもの通り変わらぬままの妖怪もまた、りんを真っ直ぐに捉えている。

 ”私が・・かごめさまを羨んだんだ。殺生丸さまはそれに気付いて・・!”

 崩れ落ちそうな心と体を持て余す。そんな言を望んでいたのではなかった。
いつか、いつか迎えに来てくれる。再び共に旅立つ日が来るとりんは信じていた。
村人すら疑わないりんと殺生丸の絆をこうもあっさり断ち切られようとは思わず、
りんは大きな瞳を広げ、信じ難い別れの宣告に世界の終わりを感じるのみだった。

 そんなりんに殺生丸は気付かぬ訳もない。ところが構わずに続く言を告げた。

 「私はこの先も子を成すことはない。お前が望まぬ限りは。」
 
 身を凍らせているりんの耳から入った言の葉を解釈しようと頭を巡らせる。
するとりんの身が氷を溶かすごとく緊張から解放されていくのが感じられた。

 「それは・・りんは・・私が望めば叶うということ・・なの?」

 当たり前なことを訊くと思ったのか、殺生丸は僅かだが目を見開いた。

 「昔も今もりんは殺生丸さまのお傍にいたい。それだけはおなじなの。」
 「子をもしも授かることができるとするなら・・私が望んでいるのは・・」

 美しいりんの顔がくしゃりと歪んだ。見る間に浮かぶ涙の雫が風に散った。
しなやかな体が大地を蹴ったのだ。そして風は殺生丸からも吹いた。小さく静かな
音すらない小さな嵐である。その渦の中、飛び上がったりんを力強く支えたのは
勿論殺生丸であり、受け止めると穏やかに包み込んだ。りんは泣きながら微笑む。

 「・・りん・・勘違いしちゃいました・・ごめんなさい、わからなくて。」
 「・・望むか?りん。」
 「はい!はい、あなたを!殺生丸さま。殺生丸さまでなければ私もいらない。」

 ほっと息を吐いたのはりんでなく殺生丸だった。目を丸くしたりんに強い視線。
殺生丸ともあろう妖怪が緊張していたらしい。忽ち幸せな笑顔がそれに応じると
出逢った頃のように力強い腕がりんを抱き寄せた。重なる視線にりんが瞼を下ろす。

 うつくしくなったりんという娘に向ける眼差しは命を蘇らせた時と同じようでいて
あの頃より更に迷いなく命の重みを感じている。彼が唯一望んだ娘は愛されてまた
美しさを増すのであろう。風がまた吹き抜けたがもうりんが身を震わせることはない。


 後日、村には正式にりんの旅立ちを印す妖怪の訪問があった。りんは娶られるのだ。
そんな日を待ち望んでいたのはりんだけではなかったことも明らかになった。すると
りんは目を瞠ったものだ。歓びに充ち耀きを増すばかりのりんの笑顔がそこに在った。









ものすごくわかりにくい兄の求婚。後で弟にもっとわかりやすく言えとか馬鹿にされるといいです。