海からの風



波は風が穏やかなため静かだった。
潮風を受けてりんは昔に想いを馳せていた。
遠くへやって来たと思う。
そして更に遠くへと波に運ばれるかのように
流れていくような気もした。
海はなぜか昔を懐かしまれる場所だった。
初めて見たのは殺生丸に出会い共に旅をしているときだ。
りんはまだ幼くその存在に嬌声を上げ感動した。
綺麗で不思議で大きかった。飽きることなく眺めた。
宵に浮かぶ月があまりに心に迫り泣いたこともあった。
海の月を自分のようだと言ったこともあった。
空の月に憧れる波に浮かぶ月、どこまでも共にある。
ただやはり月は遠い空の彼方にあって届かぬものと思った。
それでいい。りんは妖怪とは違うから、そう思った。
憧れた月が一緒に居たいと思ってくれると想像もしなかった。
鏡のように向かい合い決して触れられぬと思っていたのに。
りんはもうすぐ妖怪の嫁になる。
りんは人のままだ。一緒に居られるのはどれほどか。
この波のように想いは尽きず帰ってもこの身は一つ。
りんは悲しむわけではなくただ淡々と海を見ていた。
傍らの双頭の龍が寂しげに唸った。
「阿吽、ごめんね。ありがとう、連れて来てくれて」
りんは背に乗せて飛んできてくれた竜に優しい眼を向けた。
「皆心配してるよね。怒られるだろうな・・・」
りんは自分でもなぜここまで来てしまったのかわからなかった。
ただ無性に海が見たくなった。あの空の月は海にその姿を映しているだろうかと。
だがその姿はどこにも見えなかった。
「帰ろうか。暗くなってきたね」
りんはきっぱりとした顔になったので竜は安心するように喉を鳴らした。
そのときふと視線を感じて空を見上げた。
りんは空に輝く月を見つけて微笑んだ。
その月はりんのところへゆっくりと下りてきてくれる。
綺麗で優しくて冴え冴えとして、りんは見惚れてしまう。
「殺生丸さま・・・」呟く声は小さかったが妖怪に届いていた。
ふんわりと空気をまといりんの眼前に舞い降りると
「りん」と呼ばれて、はっとする。
「ごめんなさい。殺生丸さま、心配した?」
りんは済まなそうな表情になり動揺が見て取れた。
「・・・何があった」と問われてりんは困った。
「何もないの。ただ海が見たくて・・・」
「独りになりたかったのか」そう問われるとりんは返事に詰まった。
「・・・そうなのかな・・・」自信無さげな答えだった。
妖怪も黙ってしまった。りんの途惑いと彼の想いが潮風に漂った。
「殺生丸さま、りんね」その言葉を半ば怖れながら妖怪は待った。
「殺生丸さまがこんなに好きなのに」
「想いはどこへ残していけばいいの」
「消えて無くなってしまうのかなと思うと怖いの」
りんは淡々と訴えた。どこまで伝えられるかわからなかった。
黙っていた妖怪はしばらくしてゆっくりと口を開いた。
「残さず私に預けておけ」
「何一つお前を手放したりせぬ」
妖怪もまた淡々と語った。
りんは真剣にその言葉を噛み締めるように飲みこんだ。
「私が先に逝くときは全ておまえに預けていく」
「再び魂が廻り遭うまで・・・?」りんはゆっくりと尋ねた。
「消えたりはせぬ。おまえは私の半身となるのだ」
りんはじっと妖怪を見つめながら頷いた。
「はい」「殺生丸さま」静かだが重い返事だった。
お互いの眼のなかには堅く結び合う何かが見える。
りんは手を差し伸べ殺生丸はその手を掴んだ。
「海から吹く風がね、とても優しいの」唐突にりんが言った。
「りんは殺生丸さまに全て預けるけどりんの想いのほんの少しだけ」
「この風や海や周りの景色に融かしていきたい」
「りんが美しいものを見て殺生丸さまを思い出すように」
「殺生丸さまがりんを思い浮かべてくれるようにしたいな」
「だめ?」りんは首を傾げてお願いした。
「景色ごと覚えていろということか」
「そう」りんはいたずらっぽく笑った。
「匂いと景色と五感で知る全てを覚えていきたいな、りんも」
「これからふたりで」
とても嬉しそうにりんは微笑んだ。まるでいたずらを思い付いた子供のように。
「それでその全部が殺生丸さまとりんのものになるの」「素敵」
妖怪は「そうだな」とだけ言った。
帰ろうと竜の阿吽が短く吼えた。
「もちろん阿吽のことも忘れないよ」竜を見上げてりんが言う。
妖怪はりんを抱き上げて竜の背に共にまたがった。
「ゆくぞ」
「はい」
りんと妖怪は寄り添い幸せそうで竜は嬉しかった。
久しぶりのりんと主の旅、その旅はまだ終っていなかったのだ。
それがとても嬉しかった。これからも二人を乗せて飛べるのだ。
りんも主も自分を忘れないと言った。自分だってそうだと唸った。
「よしよし」まるで通じたかのようにりんが竜をなでた。
”私たちはひとつ””世界が果てても想いは変わらない”
りんは後ろに寄り添う夫になる者を振り向いて軽く口付けた。
殺生丸はりんにかぶせるように置いていた己の手に力を込めた。
「仕置きは覚悟せよ」と囁いた。
屋敷を抜け出して来たことを思い出したりんは「あ」と我に帰り
「お仕置きって・・・?」恐る恐る尋ねた。
妖怪は機嫌良く微笑み「さあてな」と答えない。
「殺生丸さま、何かやらしいこと考えてない?」
「それはおまえだろう」と返されてりんは真っ赤になった。
「ち、違うの?えと、じゃあ何?!」今度は真っ青になる。
そんなりんを面白そうに眺めながら
「期待には応えんとな」と笑った。
「いやあ、違うよお、殺生丸さまあ!」りんはからかわれていると気付いた。
はしゃぐ子供のような二人を乗せて飛ぶ竜は遠回りしていこうかと思案中だ。
どこまでも飛びつづけていたい、この空を。そう思った。
海から吹く風がまだ温かく彼らを追っていた。