海に浮かぶ月


 海と陸の境に隠れんとする夕陽をりんは見守っていた。
その背を見つめていた妖怪の双眸も陽の色に光っている。
りんが視線の方へ振り向くと僅かばかり妖怪は瞳を窄めた。

「とうとうお日様は隠れちゃった。」

 独り言だったのか返事を待たずりんは遠慮なく近付いて
すとんと膝を折って彼の膝に頭を預けた。長い黒髪が流れ
絹の着物の上をさらさら音を立てながら滑り落ちていった。
りんは妖怪の膝に甘えるように頬刷りをした。

「疲れたか、りん。」
「いいえ。殺生丸様はお疲れですか?」

ふっと顔だけを膝から上げてりんは妖怪を見た。彼に変化はない。
しかしそれを見て納得したようにりんは微笑むと再び膝に甘えた。
一度ならず二度も死んであの世からりんを引き戻した妖怪、殺生丸は
その後の旅の連れであり、主であり、本日からは夫という呼称を得た。
その夫の膝元でりんは夢見心地そのままにほうっと深い息を零した。

「・・まだそうと信じられない。幸せで怖いみたい・・」

 殺生丸は小さな頃と同じように傍らの愛しい娘の髪を丁寧に梳いた。
人間であり、虫ほどの価値も見出してはいなかった命の一つであるが
今やその一つに己の全てを捧げても足りないと知ることとなった妻を
撫でながら彼らの出会いを思い浮かべる。想い出は今も鮮やかだった。


"ねえ、海の上でお月様が光ってるよ!" "すごーくキレイ!!"


 幼かったりんがはしゃぐ姿を瞼裏に描き出すと殺生丸は目を細める。
どんなときもりんは殺生丸に親愛と敬意の情を惜しまずに与えていた。

「変わらぬな」

 成長したからこそ妻になれたと思うりんは怪訝になり首を傾げた。
しかし少々考えた後、夫の意を汲んですぐさま答えを返した。

「殺生丸様もだよ」

 りんを否定はしないまでも答えが真でないと胸の内に留める。
殺生丸が変わらないはずはなかった。随分邪険にもしたものだ。
こうして共に生きるということを選ぶに至るまでの間、彼の内では
数々の変革が起った。それを変わらないと感じるのはりんのみである。
些か甘やかされた感もする殺生丸だが、それもりんの徳とみて講ずる。


"お空のお月様に海の上の月もずっとついてくるんだよ!"


 波に映る月が空の月を慕う様を己に例えた幼き日のりん。
思い返す過去には一つ一つに曇りないりんの真心がみえる。


「私が空の月ならおまえは海の月かもしれん」

「わあっ懐かしい。殺生丸様はそう言ってくださったよね。」
「覚えているのか。」
「もちろん。殺生丸様はいつもりんの味方してくれました。」
「私でなければならぬ道理はなかった。」
「殺生丸様?」
「里に預けた時もお前が私から去るなど思いもしなかった。」
「そうですね。待っていてくださるとおっしゃいましたよ。」
「思い上がりとは感じなんだか。決め付けたのは私なのだ。」
「もしかして・・殺生丸様は迷った?戻らない方がりんのためだと。」
「そのように思う者も無論あっただろう。」
「そうですね、ありましたよ。」
「離れていったとしても、私は変わらずお前を想っただろう。」
「殺生丸様はやっぱり優しい。それに私も変わってないみたい。」

 りんは居住まいを正して殺生丸に向き合うと背筋を伸ばし述べた。

「どこまでもついていきます。りんは海に浮かぶ月ですから。」

 空に浮かぶ月と海に浮かぶ月。離れて見えて実は一つだ。

 離れ離れになっても想う気持ちはりんも同じだ。違ったのはりんが
迷いなどなかったこと。りんは妖怪が裏切ることはないと知っていた。
ついていきたいとりんが願う限り、いつかまた共に旅立つ時が来るのだと。

「りんはわがままだったでしょう?一緒に行くってだだをこねたり。」
「殺生丸様に甘えていたの。絶対許してくれる、叶えてくれるって。」
「どうしてこんな意地汚いりんを望んでくれたかは不思議だけれど。」

「不思議なぞない。月は一つ。同じものであろう。」

 刹那、妖怪が笑ったかに見えた。りんは驚きを隠さず、そして喜んだ。

「殺生丸様ったら今更。りんは貴方のものなんです、最初からずっと。」


 殺生丸の長い指がりんの頬に触れた。毒を含んだ指先を慎重をもって
抑え髪を白い耳に掛けてやる。繊細な動きにりんが少しくすぐったそうに
ふるっと僅かに震えた。しかし不快な仕草ではなく彼には喜ばしかった。

「私はお前に命を与えたのではない。取り戻しただけのことなのだ。」
「いつも目を覚ますと殺生丸様がいらした。私を呼んでくださった。」
「そうだ。我らは一つなのだから。」
「これからもです。ね、殺生丸様。」

 りんの迷いない眼差しを眩しそうに受け止め、頬に指でなく唇を乗せる。
滑るようにして合わさった唇と唇がお互いをみとめて嬉しげに熱をもった。


 窓外に月が浮かんでいた。それを映して水面にも月が揺れ動く。
空高い場所にある楼閣の一室は月明かりを残して暗く夜にとけた。
吐息は熱く二つの体から立ち上り、やがて何もかもが一つになった。
夫婦となった二対の魂は各々を拠所に深い悦びに染めあがってゆく。



 海はただ穏やかに月の光を受けて輝いていた。








祝言の儀当夜、初夜です。場所は天空の城とみています。