扉の向こう



「りん」あの人が呼んでる
いかなくちゃ、早くいかなくちゃ
いかないで、わたしを置いていかないで
一緒に、ずっと一緒だって言ったのに
連れていって、どこへだっていくわ
手を伸ばすと消えてしまう、寂しくてこわい夢を見た



りんは元気がなかった。周囲も心配してあれこれ気を使うのだが
「なんでもないの、大丈夫」と微笑んで訳を話そうとはしなかった。
溜息をつき、何よりおかしなことにあんなにしょっちゅう抜け出して
婚約者となった主の元へと通っていたのにそうしなくなってしまったのだ。
「けんかでもされたんですかね?」
「婚儀を前に物思うことがあおりなのでは?」
色々と詮索する声も聞こえたがりんの耳には届いていないようだった。
心配した邪見が様子を見にやって来た。
「りん、どうしたんじゃ、おまえらしくもない」
「え?そうかな、変わりないよ」りんは答えるが邪見は納得しなかった。
「いいや、おかしい!わしを誰だと思っとるんだ。」
「邪見さま、でもほんとにどこも悪くないし」
「身体がどうもないなら、殺生丸さまと何かあったんじゃろう!」
「・・・ううん、なんにもない」りんは明らかに自信の無い返事だった。
「それみろ、やはりそうか」邪見はりんがウソを言っていると断定してしまった。
「うーん、その、なんだ、殺生丸さまに何かされたのか?」訊きにくそうに言った。
「・・・違うの、邪見さま。りんね、りんが悪いの」
「おまえが何をしたというんじゃ」邪見はもどかしそうだ。
「りん、殺生丸さまがとても好きなのに、逢おうと思うと震えてしまうの」
「何?震えるって、おまえ・・・やっぱり何かされたのか」おずおずと尋ねた。
しかしりんは首を左右に振って、「殺生丸さまは優しいの」りんは強く言った。
「とってもりんのこと想ってくれてるのよ!」かばうようにも聞こえる。
「それじゃ、なんで・・・」邪見は途方にくれたような顔をした。
「りんは殺生丸さまに嫌われたくないのにどうしてか身体が震えて逢いたいのに逢えないの」
りんは泣き出しそうな声と表情で訴えた。
「殺生丸さまがおまえを嫌うことなどありえんぞ、りん」邪見は言ってみた。
「・・・うん。」「そうなんだけど、りんだって嫌いになったりしないよ、何があっても」
「じゃったら何も悩んどらんで、逢いに行けばよかろう」
りんは情けない顔で「・・・・うん、でも・・・」とはっきりしない。
「そんなことを言っておったら、婚儀はどうなる?」
「りん、お嫁さんになれなくなっちゃう?」りんは困りきったような様子だった。
「何もかも殺生丸さまに話せぬようではいかん。婚儀を伸ばすように進言してやろう」
「待って、りんは・・・」りんが何か言いかけたとき部屋へ入って来た者に遮られた。
「失礼いたします、りんさま。邪見さま。」緊張した顔でりんの世話役の朝香は言った。
「どうしたの?」いつもと違う面持ちの朝香に不安を感じてりんが尋ねる。
「お館さまが倒れたのです。」
りんも邪見も意外な言葉に飛び上がりそうに驚いた。
「殺生丸さまが!」りんは真っ青だ。
「落ち着きください。大丈夫です。ただ、大事をとっていまはお部屋でお休みです。
朝香と邪見が止める間もなくりんは駆け出して行ってしまった。



”殺生丸さま!”何度もその名を心で叫びながら、りんはそのひとの部屋を目指して走った。
りんは途中で何か言っている者たちを何人か掻き分けるようにして部屋へと辿り着いた。
殺生丸はりんが来る事をわかっていたように落ち着いてこちらを向いて立っていた。
「殺生丸さま」りんはその胸に飛び込んで、「どうして横になってないの?大丈夫、殺生丸さま!」
必死の想いで問い掛けたが、当の本人はいつもの顔で事も無げに「大丈夫だ」と言い、
りんを抱きとめると「すまぬ、心配させた」とりんの頭を撫でた。
りんの目には涙まで浮かんでいるのを認めると少しバツの悪そうに眉を顰めた。
「仕事に飽きたのだ」「・・・仮病だ」と殺生丸がぽつりと呟くとりんはぽかんとした。
二の句が次げないりんを優しく抱きしめると、もう一度「すまぬ」と囁いた。
りんはそれを聞くやほっとしたように微笑んだがすぐに眉を吊り上げて怒り出した。
「ばか、ばかばかばか!」「殺生丸さまのばかあ!」怒ったと思ったらりんはわっと泣き出した。
ぽかぽかと殺生丸の胸を叩いて泣くりんが小声になって大人しくなった頃、
「おまえが逢いに来なくなったのは、わたしのせいか」突然そんな言葉が降ってきた。
はっとして顔を上げ、そのひとを見ると少し哀しげな眼差しをりんに注いでいる。
りんは答えなかった。ただじっとその眼を見つめている。
「おまえが嫌なら何もせぬ、許せ。顔を見れぬ方が辛いとわかった」
それを聞いてりんは顔をゆがめてまたぽろぽろと涙を零した。
「嫌なんて言ってごめんなさい」りんは涙声ではっきりと言った。
「怖くなんか無い!殺生丸さまに逢えない方がりんも辛いよ」そう言ってまた胸に縋りついた。
「りん」その甘い匂いに惑わされつつも殺生丸は怖がらせないよう優しく抱きしめた。
りんは涙をそっと唇で拭われると口付けをせがむように自ら顔を上向け眼を伏せた。
優しく応えられりんの身体から緊張が解けていき、深い口付けをねだるように唇を開いた。
熱く濡れた舌をりんの方から絡めた。何も考えずただ愛しいひとを感じるために。
「殺生丸さまに嫌われたくなかったの」熱を帯びた声でりんは言った。
「怖かったのはわたしが殺生丸さまに何をしてあげればいいか解らなかったからなの」
りんの言葉に耳を傾けながら殺生丸はその身体を優しく撫で続けていた。
「そうか」とだけ答えてりんの髪や頬をそっとなぞっていく。
「殺生丸さま、もっときつく抱きしめて」りんがその細い腕でしがみつきながら言う。
「何もせぬと言ったが、これ以上は・・・」
「耐え切れぬと言ったら?」殺生丸は己を抑えつつも訊いてみた。
こくんとりんは頷いて「うん」「いいよ」と答えた。
およそ似つかわしくない緩慢な動作でその手をりんの首からゆっくりと襟元へと伸ばした。
手で襟元を緩め、首筋に唇を落とすとりんは小さく震えたが拒むことはなかった。
りんの手が殺生丸の着物をぎゅっと掴んだとき、ふわりと身体が浮いた。
りんは抱き上げられて部屋に敷かれていた寝具のところへ運ばれた。
そっと壊れ物のようにりんを横たえるとその小さく開いた花のような唇をもう一度吸った。
りんが眼を閉じると帯が解かれる衣擦れの音がやけに大きく響いた。
りんはジンと眼の奥と身体が痺れるような感覚にやはり震えたが力を抜いてその身を預けた。
りんと殺生丸とがそのとき味わったのは互いを愛しみたい純粋で厳かな気持ちだった。
何も考えなくて良かったんだと思いながらただひたすらに優しいそのひとの
柔らかく心地よい愛撫に身体も心もしっとりと溶かされてゆくようだ。
”一緒に、ずっと一緒にいたい”
”何もかも忘れてひとつになりたい””あなたとどこまでも”


もう寂しい夢は見ない
もう儚い夢とはしない
あなたとわたしがともにゆくのはこの扉の向こう
ここから遠くへと続いていく
すべてをお互いの瞳で確かめて
ずっと、ずっと永久の果てまで
想いはひとつ