雫月



真っ暗な空に零れ落ちる雫
微かでありながら胸に染み入る輝き
乾いた喉を潤す一滴に似て甘く
さながら夜空からの一献の美味


「今晩は星が見えないね」
「・・月は見える・・」
「えっと・・ほんとだ!ほんの少しだけ」
りんが口を閉ざせばすとんと沈黙が夜を覆う。
殺生丸の傍で落ち着かないのは珍しいことだった。
邪見の居ない夜、たまに二人きりのこともある。
嵐や寒さに凍えそうな夜をも怖れない娘であるのに。
酷く喉が渇くような温かい夜のせいなのかもしれず。
暗い夜に紛れて自身に注がれる視線のためでもあった。
「殺生丸さま、あの・・暑くて眠れないの?」
答えは無く、また沈黙が滑り落ちてくる。
「眠れないのは、りんの方だね・・なんだか喉が渇いちゃって・・」
返事はないまま、りんは水を飲みに行くべく起き上がろうとすると、
「外には面倒な輩が居る。水なら我慢しろ。」
抑揚なく静かな命令がなされ、仕方なく元の寝床へと戻る。
長く旅を供にしてきたりんにとって主の命令は絶対である。
この妖怪の庇護なくして今日が有り得いことをよく承知している。
「殺生丸さま、そっちへ行ってもいい?」
「・・・怖いのか?」
「ううん。殺生丸さまの近くに居たいだけだよ。」
いつもりんの好きにさせる主から何故か返事がないのをりんは不思議に思った。
「だめ・・ですか?」
寂しく思いながらも聞き分けようと諦めかけたりんの腕が突然捕まれた。
「!・・殺生丸さま・・?」
いつも必要以上に触れてこない主が今痛いほどりんの片腕を掴んで離す気配もない。
眼前の彼の存在感が暗い宿の中を狭く思わせるほどに迫るのがわかる。
暗さでお顔が見えないなと単純に思ったそのとき窓から先ほどの微かな光が射した。
「あ、お月さまかな?」
りんが嬉しそうにそう言ったとき目の前に殺生丸の顔があって少し驚く。
”わ、殺生丸さまのお顔が見えた!”
そう思ったのだが口がやんわりと覆われてしまい声には出せなかった。
暗くて見えなかったその人の顔が間近で嬉しくて、りんは目を瞠る。
柔らかな感触から濡れるような湿った感覚へと変る頃、ようやく事の次第が飲み込めた。
だが理解はしても身動きとれず、されるがままで目が痛くなり瞑ってみる。
今度は身体全体が包まれたようで温かく、空へ舞い上がった感覚に似ているなと思った。
乾いていた喉はいつのまにか潤いが口の端から零れるほどに溢れていた。
”息してていいんだっけ・・?・・いいんだよね・・”
りんはぼんやりとした頭で思い出す、つい先日覚えたことだった。
”空を飛んでいるのに溺れてるみたい・・・”
一生懸命にしがみつき、主の教えに応えようとりんは健闘した。
「りん」
突然、唇が離れて名を呼ばれるが声が咄嗟に出ずに咽た。
「・・はい、殺生丸さま」
「今度は私の乾きを癒してくれるか・・」
こくりと頷くと「殺生丸さまもお喉渇いてたの?」と無邪気な問い。
「殺生丸さまってお月さまの雫みたいだね・・」
「お空から零れてきたのかなと思ったの、お顔がちらって見えたとき。」
「とってもきれいで、とっても・・・優しくて・・・」
りんの零す無邪気な声こそが月からの雫かと妖怪は惜しげに飲み干そうとする。
月の僅かに光零す夜のことだった。