誓約



「りんを正室に迎える」と主が宣言したのは朝一番だった。
周囲はある程度予想していたもののいきなりの宣言に狼狽するも当然で
それも”正式な妻とする”かどうかについてはやはり反対者もあったのである。
しかし主が認めぬものは放逐、つまり出て行けとさえ放言し、一族がこぞって
反対するというなら己とりんに従うもののみと西国を出ると言い切ったのである。
主のことをよく知る者たちは、彼がほんとうにあっさりと立場や地位を捨てることを
疑わなかったため、ほとんど主の意向に沿うこととなった。
りんを受け入れている者たちは歓び婚儀の準備が早速段取られる。
ほんの数名は主の下を去ったが主は無視して自由にさせた。
邪見はひっくり返り仕事を放棄して寝込んでしまい、りんは大いに心配したが、
結局涙を流してりんとこれからも過ごせる喜びを分かち合い、
将来生まれてくるであろう子供の教育係として期待を寄せられて
「この邪見、殺生丸さまとりんのためにどこまでも尽くしまする」と約束した。
慌てふためく城内でいつもと変らないように見えるりんであったが、
いつも親身にしてりんの姉のような存在である朝香という侍女にこう漏らした。
「ねえ、朝香さま、(りんは呼び捨てにできずこう呼んでいる)」
「どうなさいました、りんさま。」優しく様子を窺うように答えてやると
「りんね、まだ殺生丸さま本人からお嫁さんになって欲しいって聞いてないの」
「忙しいとかでちっとも二人だけになれないし・・・」りんは口を尖らせ、溢した。
「まあ、そうなんですか?恥かしがっておられるんでしょうかね?」
「それに、お顔が見たいのに最近夜のご挨拶もしてくれないの」
「うーん、実は少々私どもにも責任がございます。」
「え、なあに?」りんはびっくりして沈んでいた顔をはっと上げた。
「りんさまはご婚礼前の大切なお身体ですから、なるだけそっとしていただくようにと」
「りんさま専属の医者とともに申し上げたのです。」と言い出した。
「よく、わからないんだけど・・・」りんは首を傾げた。
「こほん、つまり手をお出しにならないようにお願いしたのです。」
「手を出すって、どういうことなの?」りんは困惑顔である。
「・・・これからりんさまにもそういったことをお勉強していただきますから。」
「ますますわかんない!」「殺生丸さまがりんに会いたくないんじゃないのよね?」
「もちろんです。」「毎日ご様子を尋ねておられますし、会いたがっておられますよ。」
「しかし婚儀のためにお仕事が少々増えているのも事実です。」
「婚礼後、しばらくりんさまとふたりきりでお出かけしたいそうなので余計です。」
「・・・だからそういうことどうして、勝手に決めちゃうのかな、ひどい!」
りんはめずらしく機嫌を悪くしていて、かわいそうに思った朝香はりんに
「近いうちにお二人でお話できる時間を作ってもらいましょう、ね、りんさま」
りんは「お願いね」と言ってしぶしぶ納得した。
りん自身もあれこれと忙しくなって、わがままばかりも言えないと考え直した。
だが、会いたい気持ちに歯止めはかからず、殺生丸のことをつい思い浮かべた。


当然殺生丸の方も忙しくてあれこれ思い悩む時間が削られるのは良いとしても
りんに会いたくないわけもなく、苛苛を募らせていた。
”面倒だ、りんを連れて何処かへ消えたい”と何度か切れ掛かっていた。
りんに手出しするのを控えろと言われたことも苛苛のひとつだった。
もともとしたくともできずに彼らしくない耐乏の日々を送っていたというのに、
さらに釘をさされてしまったのだ。そのせいで東の棟の一角が改修工事を余儀なくされたりした。
そのくらいで済んだと周りはほっとしていたが。
そして一番の苛苛の原因は己にあった。
りんに早く伝えたいことがある。しかし伝えたあとりんを婚儀まで放っておけない。
それなのに己の想いを遂げるにはどうすればいいのかわからない。
いままで自分の方から女性を口説くという経験がなかった彼は見当がつかない。
りんは何も知らない。怖がらせたくない。
だがもう堪えきれない。
りんに拒まれるのが実のところ一番怖いということを
認識すればしたで己の馬鹿さかげんに苛苛は募った。
ある物が手に入ったら、とにかくりんに求婚せねばならない。



りんと殺生丸が会えたのはその数日後であった。
お互いにしばらく黙って見つめあっていたが、口を切ったのは殺生丸だった。
「りん」久し振りに名を呼ばれ天にも昇るほどの嬉しさとかくせない笑顔が眩しかった。
「殺生丸さま、会いたかった」りんは切望していたその懐へ飛び込んでいった。
「りん、少し飛ぶぞ」いきなりそう言われて驚くがすぐに頷き嬉しそうにまた笑った。
久々の飛行にりんの胸は弾む。大好きな妖怪はいつものように何も言わずに飛んでいた。
りんはめずらしく黙ったままだったがやがて驚き感嘆の声をあげた。
美しい花の咲き乱れる広大な庭園が見えてきたからだ。
そこはこの西国へ帰ってすぐに作らせたてあった、りんのための庭だった。
殺生丸は中心のあたりにりんを下ろし、「おまえの庭だ」と言った。
りんは文字通り飛び上がって歓んだ。「ほんとに?りんの?」
「すごいすごい、殺生丸さま、ありがとう!ありがとう」
感激して喜びを訴えるりんにどこかほっとしたような顔を向ける。
だがなぜかりんの視線を外し、考え込むように向こうを向いてしまった。
りんは自分の方を向いて欲しくて殺生丸の正面へ回り込んだ。
「殺生丸さま」りんはぐいと殺生丸の着物を引っ張り、抵抗せずにふと屈んだところを
捕まえて可愛らしい触れるだけの口付けをして、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「ずっとしてなかったでしょ、さみしかった。」とはにかむりんは愛らしい。
りんが自分を包んでいた手を握るとその手を己の頬へ寄せた。
途惑いながらも素直に両手を預け、「りんをお嫁にしてくれるってほんとう?」と訊いた。
「約束だったろう」との返事にりんは驚いて「覚えててくれたの、殺生丸さま」
それは幼いりんが妖怪とずっと共にいたいと願った約束だった。
引き寄せた手の平に唇を当て愛しそうに眼を伏せる殺生丸にりんはくすぐったいと無邪気に笑う。
が、唐突に「ここに樹を植えた」と言い出してりんは眼を丸くする。
殺生丸は先程視線をやった方に在る幼い樹を眼で指し示した。
「あれがそうね」「何ていう樹?」りんは訊いてくる。
「聖水というが、珍しい種でなかなか手に入らなかった。」「あれは枯れぬ」
「とても寿命の永い樹だ。妖怪のそれより遥かに永いとされている」
「そうなの、すごいね」りんは素直に感心した。
「おまえだけでなく私や私の子らが死んでもここに在るだろう」
どきっと胸を鳴らしてりんは殺生丸の顔を覗き込んだ。
「この樹は証人だ、私がおまえをどこまでも想うことを見届ける」
りんはじっと真剣な表情で聞いている。
「りん、ここでおまえに誓う。共に生きると」
「・・・はい」「りんも誓います。ずっと一緒にいたい」りんの眼は潤んでいた。
殺生丸はりんを見つめ「共に在ろう」とりんを抱きしめた。
堪えきれずに零れるりんの涙を殺生丸は唇でそっと拭い唇を合わせる。
花の香りに包まれて誓いあったこのときを一生胸に抱きしめていようとりんは思った。





しばらく酔うような口付けを味わったあとりんは殺生丸に愛しい眼を向けると
「殺生丸さま、りんに手を出して」と言い出した。
「何?」願っても無いことで狼狽し、りんを驚き見つめた。
「手を出しちゃだめって言われたんでしょう?よくわからないけどりんだったらいいよ」
どこまでも穢れない瞳で殺生丸を見上げる。
ぐらぐらと理性が揺れたが、「今はだめだ・・・」
「だがりんがいいというなら婚儀まで待たぬ」とやっとのことで答えた。
「なんで今はだめなの?」不思議そうに首を傾げるりんだった。
りんは気づいていないが、この庭の周辺には警備の者がかなり居る。
二人の会話は聞こえていまいが事に及ぶには気配を感じすぎる彼にははばかられた。
かといって、どこかへ行こうにもすでに二人の帰りを待ち構えていた者たちの
お迎えの気配すら漂ってきてあせる。不自由な身の上を改めて感じ、
”やはりりんを連れて何処かへ旅に出たい”そうひとりで心に呟いた。
溜息を吐く殺生丸を不可思議に見つめながらりんも小さく溜息をついた。
”ずっとこうして二人でいたいだけなのになあ”とりんは思っていた。
花の匂う宵、愛し合うものどうしは途方にくれながらも幸せそうだった。
その姿をそっと見守るようにまだ幼い樹が蒼く若々しい気を放ち、未来を夢見ているようだった。