One more kiss(後編)



桜は見るものを不安にするという。
その美しさと潔い散りざまは輪廻転生を示すともいう。
日本では精霊が宿るとされ、占いに用いられたとも聞く。
しかし花は花でそれ以外に何がある、と殺生丸はそう思う。
りんが感傷的にその桜に見惚れる様が何故許せなかったのか。
舞い散る花びらがりんを攫うとでも言うのか。
それこそ馬鹿らしいことだ。
無意識にりんに触れた意味は何処にある。
殺生丸はぼんやりとそんなことを思いながらりんを見ていた。
りんはというとアヒルが池を泳ぐのを眺めつつ思い悩んでいた。
”どうしてりんに触れたの?””あれはどういうキスだったの?”
”殺生丸さまはりんが好きなの?””そして、私は・・・”
りんは眺める池に舞い落ちる花びらを見て思い起こした。
”花ばかり見ているからだ・・・””そう言ってた。”
りんは桜が好きだが、そんなことを殺生丸が咎めるとは思い難い。
では何故、そんなことを言ったのだろうか。
りんはゆっくりと振り返り、その人を見た。
眼が合うとどきんと胸が鳴った。頬も熱い。
”そういえば殺生丸さまは今日りんのことじっと見てるね。”
「殺生丸さま?」りんはやっとの思いで声を出した。
「・・・何だ。」返事が返ってきて嬉しかった。
「あ、あの・・・ね、りん・・・あのとき・・・」
自分でも何を言いたいのか、問いたいのかが解からなかった。
それなのに言葉はゆっくりとだが紡ぎ出されていく。
「桜を見ていたはずなのに殺生丸さまの瞳でいっぱいになって・・・」
「気がついたら唇が温かくて・・・」
「・・・・」殺生丸は黙ったままりんを見つめ続けている。
「りん、どうしてかな? 夢を見たのかなと思って・・・」
殺生丸がほんの少し眼を見開いたように見えた。
「夢ではない。」とはっきりと声が聞こえた。
その言葉に今度はりんが眼を見開き、更に顔を赤らめた。
俯いてしばし逡巡した後、意を決したようにりんは顔を上げた。
「もう一度・・・して?」語尾が頼りなく消え入りそうになったがそう言った。
殺生丸は驚いたが表情は変わらず、りんを未だ見つめている。
恥かしさがじわじわとりんを縛り、身体が震え出した。
それに気付いてようやく殺生丸はりんの傍へと移動してきた。
かたかたと揺れる肩に優しく手が添えられた。
その瞬間りんは激しい後悔を感じてしまい、泣き出しそうになった。
顔を思いきり下に俯けて、「ご、ごめんなさい!」と叫んだ。
”私、だめ!何で言ってしまったんだろう!”りんの心中は揺さぶられ、胸が痛んだ。
「りん」優しい声が耳元で聞こえて、固く閉じていた眼を開けた。
うっすらと涙の滲んだ瞳を殺生丸の瞳が捉えた。
「・・・あのとき・・花に心奪われたお前を」
「・・・取り戻そうとして勝手に身体が動いた。」
「え?」りんは少し間抜けな声を発し、今度ははっきりと殺生丸を見つめ返した。
深い瞳には自分が映っていた。まるで吸い込まれたように。
”確かめたかったのはそのことだろうか?”りんは頭が痺れて解からない。
ただ何かを確かめたくて「もう一度・・」と口に出してしまったのだ。
「殺生丸さま、りん・・・りんね、殺生丸さまが・・好・・・」
殺生丸は今度は衝動的にではなく意思で示した。
りんは潰れそうに苦しい胸を抱えながら受け止めた。
柔らかく、先程より熱く感じられる唇。
開いていた眼は瞼が勝手に閉じてしまった。
眼が閉じられると一層りんを甘い衝撃が襲う。
ただ力の抜けてゆく身体はしっかりと支えられていた。
いつの間にか深く繋がっていることにも気付かないほど、
りんにとって未知で思いがけない感覚だった。
ふっと離れたときのその甘い余韻と寂しさにりんは切ない表情を見せた。
初めて見せる女の顔だった。
りんを腕に抱き、触れる唇の甘さ。
殺生丸はやっと思い当たった。
桜ではなく自分がりんを攫いたかったのかと。
他の何ものにも触れさせたくないと思ったことを。
そんなことに今頃気付いたのかと可笑しくなる。
りんは潤んだ瞳で自分を見つめている。
そこには自分だけが映し出されている。
かつて経験したことのない充足感に包まれる。
「もう一度、か?」
りんは低いその声に突然現実に戻ったような気がした。
そしてつい反射的に「はい?」と聞き返す意味で返事をした。
りんの答えに微笑む殺生丸を見上げ、まだ意味が飲み込めないまま、
顎を捉えられてやっとりんは慌て出した。
「え?ち、ちがっ!まっ・・・」
否定しようとしだが間に合いはしなかった。
はらはらと二人の周囲に桜が降り注いでいたが、どちらの気にも止まらなかった。
初めて知ったお互いの想いの深さに、
初めて触れた温もりの確かさに酔っていたから。
”どうしてキスするの?”
”確かめたいから”
”あなたと私の想いを共に”
殺生丸とりんは触れ合って初めて知る幸福に我を忘れていた。
それは二人にとってこの上もない幸福だった。
桜の花びらは相変わらず二人に降り注いでいた。
祝福するかのように、
恥らうかのように。