One more kiss(中編)



風に舞う花びらがその姿を浮かび上がらせていた。
りんが呆然と見つめるその人はまるで人ではないように思える。
頭ははっきりとせず、まだ足に力が入らない。
りんの唇に花びらを置いたような感覚を施した人。
振り返ったときのりんを見つめる瞳の深さ。
雪降るかのような光景に溶けてしまいそうでいて強く。
呼ばれたせいもあるが、その光景が切なくてりんは足を踏み出した。
足を急がせて駆け寄るが眼の前で立ち止まる。
見上げて、何かを問おうとするが思うようにならない。
「あ、あの、殺生丸さま・・・」
名を呼ぶとまた振り返り、深い瞳で黙ったままりんを見おろしている。
「花ばかり見ているからだ・・・」
まるで花を見ていたりんを咎めるかのような言葉が降ってきた。
りんは驚いたようにその人を見つめ、「・・・だから?」
肯定するかのような沈黙を受けてりんは少し微笑んだ。
まだ自分の身に起こったことが実感できない。
りんは結局何も言えずに黙ってしまった。
殺生丸もまた黙ったまま路を進み出した。
向こうを向く前にりんを見ていた瞳が揺れたような気がした。
その瞳が宝石みたいだなと思いながら、りんはすぐ後ろを歩き出した。
”好きなやつ、いるんだろう?”友人の言葉が思い出された。
”してみたいと思ったこともないのか?”
今までわからなかった。そんな風に思ってもみなかった。
”でも今、りんはして欲しいって思う。もう一度・・・”
”確かめたい。あなたが私に触れたことを”
そんなことを思いながら背中を見て歩くうちに母親の自宅へ着いた。
「りん、よく来たな!」殺生丸の母に会えてりんも嬉しかった。
男っぽい言動だが優しさは隠せないその女性は殺生丸にやはり似ていると思う。
母のほうもりんをとても気に入っていて、惜しみなく愛情を寄せてくれる。
息子はそっちのけでりんを自宅の中へと誘い、「新作が出来たんだ。」と告げた。
「うわあ、可愛い!」りんは素直な感嘆を示して眼を輝かせた。
服飾の会社を経営している母はデザインも手がけている。
りんはよくその試作品等を贈られていたが今回もそれらしい。
「見て、殺生丸さま。ふわふわで柔らかくて可愛いの。」
全くそれらに興味のない男はただりんが嬉しそうな様子に「そうか。」とだけ答えた。
「愛想のない奴だな!これを着たりんが見たくないか?」と母は溜息交じりに言う。
息子を居間に置き去りにして母とりんは着替えのために部屋を移動した。
「りん、今日はどうした、体調が良くないのか?」と二人になったとたん訊かれた。
「え?いいえ、元気ですよ!」りんは慌てて否定した。
「あいつに何かされたのか?」と実の息子を疑うような様子に苦笑しながら、
「ううん、お母様、殺生丸さまは何も。」と言った。
「あいつはとにかく言葉の少ない奴だし、わがままだしな。我慢することないぞ、りん」
くすくすと笑うりんに少し安心したように微笑んだ。
「それからな、二人きりのときは気をつけないと!」と、まるでりんの実の母のようだ。
「ありがとう、お母様。でも殺生丸さまはそんな・・・」
突然口篭もって顔をほんのり赤らめるりんに母は当然察しが付いた。
「やっぱり!何かされたか。」母が確信を持って言うのを聞いてりんは我に返った。
「ち、違うの、えっと、だから・・・」
「出掛けに押し倒されたのか?!」
「!!?」母の発言に驚いてりんは真赤になって否定した。
しどろもどろに先ほどのことを告白するりんに母は「なんだ。」と安堵した。
気の短い息子もこの少女のためには随分と我慢しているらしいと理解した。
「まあ、それくらいは許してやってくれ。あれもりんが可愛いからな。」
「許すなんて・・・ねえ、お母様?・・・」
躊躇いがちにりんは母に尋ねてみた。
「りんね、なんでその、キスとかするのかなって思ってたんだけど・・・」
「殺生丸さまがりんにそんなことしたいなんて思ったこともなくて・・・」
「りんが嫌ならそう言えばいい。」
「ううん、そうじゃないの。嬉しかったの、なんだか力が抜けたけど。」
「それでりん、恥ずかしいけどもういちどして欲しいって思って・・・」
「どう言えばいいのかもわからないんだけど・・・」俯き頬を染めるりん。
深刻な相談なのだろうが母はその様子がなんとも可愛くて困惑した。
”私だって抱きしめたくなるのだから、あいつもさぞかし・・・”と内心呟いた。
「まあ、そう悩むこともないさ!キスくらいならおねだりすればいい。」と言いながら、
「ただし、夜遅く部屋を訪ねたりはしないように!」と付け加えた。
「おねだりって・・・どうするの?」恥かしそうに尋ねるりんは真剣だった。
「そうだなあ、あんまりそういうこと悩んだことないからな、私は。」
「?」りんは難しい顔で問いかける。
「あいつの親父はしたいと言ってくるから、私が”いい”と許可すりゃ良かったんだ。」
「・・・はあ、そうかあ。」りんは感心した。
「近寄って上向いて眼を閉じる、とか聞いたことあるが。」
「ええ?!恥かしい!」
「しかし、どんな風にしろりんにそう言われた後が心配だな。」
「後って?」真面目にそう訊くりんだったが、
「いつまで待たせるんだ。」
いきなり噂の本人が現れてりんは飛びあがって驚いた。
「こら、勝手に入るな!りん、それに早く着替えておいで。」
りんは服を抱いてぱたぱたと隣室へ消えた。
「何をしていた?」と息子は母親に怪訝な顔で尋ねた。
「別に。」母は澄ましたものだった。
「この通りの向こうに小さな公園がある。」唐突に言い出した。
「帰りにそこへ連れて行っておやり。池があってアヒルがいるからりんが喜ぶ。」
「・・・構わんが・・・」
「お前も大変だろうが、りんは大事にしてやれよ。」
息子は憮然とし、”言われるまでもない!”と無言で語っていた。
苦笑しつつも「春だなあ・・・」と母は感慨深げに言った。
春の精のようなりんが現れて、二人ともりんをしばし見つめた。
「あの、ちょっと短くないですか?これ。」りんが俯き加減に言う。
「いや、似合ってるよ。りん、そのまま帰りなさい。」
「いつもありがとうございます、お母様。」りんは深々と頭を下げた。
これから仕事だから、と母は玄関まで送ると手を振った。
帰る方向と違う方へ向かう殺生丸のあとを付いて行きながら、
「どこいくの?」と訊くが答えがない。
すぐに公園が見えてきて、そこもまた桜が咲いていた。
「池に家鴨が居るそうだ。」と言うので殺生丸が母に言われたのだとわかった。
「ほんと?!見たい。ありがとう、殺生丸さま。」
りんは連れて来てくれたことに感謝すると眼前の池へ駆け寄った。
「あ、あれだ!かわいーい!」りんの様子を見ながら殺生丸は考えていた。
先程の衝動的な自分の行為のことと、問いだげなりんの見上げる瞳を。
桜の散る様を見つめていたりんが儚く消えそうに思えたあの瞬間のことを。


                   続く