One more kiss(前編)



りんはどちらかというとその手の話は苦手な方で、
漠然としていて、映画やテレビの中、或いは物語の中のこと。
それが突然現実世界に存在することを知ったのは偶然で、
放課後の教室にそれも友人の身に起こっているのを目撃したときからだ。
その友人というのは少々りんよりも早熟で、
また情熱的であり、奔放な性格であった。
しかし特別にというわけでもなく、それはこの年の少女たちにとっては
ごく当たり前とも言える行動だったのだが。
びっくりして思わず隠れたりんだったが目ざとい友人に知られてしまった。
その後友人はりんを咎めなかったし、「たいしたことじゃないだろ?!」と言った。
「そ、そお?」りんは思いきりどもりながら答えた。
りんが頬を染めておろおろする様を可笑しそうにしながら、
「りんはまだなんにもした事ないんだな。」と微笑んだ。
りんはおずおずと質問してみた。
「あの、どうしてそういうことするの?」
少し驚いたような顔をしてその友人は言った。
「してみたいと思ったこともないのか?」
「え、えーと、想像できなくて・・・」
今時高校生にもなってそんなことマジで言う奴がいるとは・・・
りんをまじまじと見つめながら、本気で言っているのは違いないと判じた。
「好きなやつ、いるんだろう?」
「え、ええええ、でもそんなことやっぱり想像できない!」
「そいつ、りんより年上だっけ?そいつはしたいんじゃないか?」
「!? まさっまさか!そんなことないよ、そのひとりんのこと・・・」
「片思いなのか?でもりんが好きだとかキスしてとか言ったらするよ、男ならさ。」
りんは真赤になって顔をぶんぶんと振り、「な、し・しない!」
「どうしてさ?りんは可愛いし、言われて嫌がるやつはホモくらいだよ。」
「ほも?」なんだろうと思ったが訊かなかった。
だがりんの様子から”そんなことも知らんってどうだろ”と友人は思った。
「ま、りんにはまだ早いってことかな。」友人はにこっと笑った。
「そうだね。」りんもつられて笑った。
なんとなくそわそわとしながら家路を辿った。
だがその日たまたま早く帰って来ていたりんの”好きなひと”の顔に出迎えられて、
ぽかんとしたあと急に放課後目撃した場面を思い出して赤面していた。
りんの様子に眉を顰め、その人は「熱でもあるのか?」と訊いた。
「う、ううん!」「ただいま、殺生丸さま。」
言うなり、その人をすりぬけて部屋へと逃げるように飛び込んで行った。
りんが部屋のドアの向こうでへなへなと脱力しているとノックが響いた。
返事をする前にドアが開けられて、りんはおおいに焦った。
「せ、殺生丸さま、いきなりドア開けないで!」
りんの言葉に耳を貸さず、こちらへ向かってくる相手にただ狼狽するりん。
いきなり顎を掴まれてへたり込んでいるりんの顔を上向かされて、ほぼパニックだ。
「学校で何があった?」と訊かれたがりんはそれどころではない。
「な、何・・も・・・はなして、殺生丸さま・・・」
やっとのことでそう言いはしたが相手は離そうとしない。
”顔!顔、近い!どどどうしたら?!”りんはまだパニックのままだった。
機嫌の悪そうな顔でりんを見つめたまま、ゆっくりと手を離され、りんはほっとした。
「着替えろ、出かける。」その人はそれだけ言って部屋を出て行った。
ほう〜〜〜〜〜と長い溜息が出た。緊張が解けて眩暈がした。
「びっくりしたあ・・・」つい独り言を呟いてあたふたと着替えに取りかかった。
身支度を終えて部屋を出ると玄関ホールに殺生丸が待ち構えていた。
「行くぞ。」そう言って背を向け、玄関の扉を開ける。
りんは慌ててそのあとを追いかけた。「どこへ行くんだろう?」と思いながら。
車の助手席に座ってちらと横顔を見る。
いつもの殺生丸だった。りんは「どこへ行くの?」と訊いてみた。
「お袋がりんを連れて来いと言ってきた。」
「お母さまが?!わあ、嬉しい。久しぶりだもの。」
殺生丸はそのまま黙っていたがりんの笑顔は確認して前を向いた。
「何だろうな?」さっきの狼狽ぶりを忘れてりんは呑気に言った。
一方殺生丸は先程のりんを忘れたわけではなく、学校で何かあったと確信していた。
そんなことは既に忘れて車の窓から外を眺めていたりんが歓声を上げた。
母親の住む処への街路には桜並木があって、ちょうど盛りと咲き誇っていた。
「見た?殺生丸さま、すごい、綺麗!綺麗ね。」
はしゃぐ姿はいつもの通りで心配し過ぎたかとも思えた。
りんの為に車を止めて、「歩いていくか?」と尋ねた。
「え、嬉しい!お花見しながら行けるね。」りんは零れそうな笑顔で歓んだ。
お天気は良かったが風が少し強く、花びらは雪のように舞っている。
りんはその美しさと儚さに少し寂しげな視線を送りつつ見惚れた。
足元を見ずに見上げるりんがつまずいてしまったのを殺生丸が支えた。
「わ、ありがとう。殺生丸さま。」
殺生丸は何も言わずりんのことを見ていた。
「あの・・」りんがその人を見上げて”どうしたの?”と訊こうとして、
言えなかった。
桜の花びらが風で舞いあがり、りんの髪も揺れた。
花びらの一片がりんの唇に触れたと思った。
「あ・・・」りんはそれが花びらでないことを次の瞬間に気付いた。
気付いたが身体が固まって動かない。
りんに触れた人は背を向けて先へ歩き出してしまった。
数歩進んでからふと振り返り、「行くぞ。」と告げた。
りんは唇に触れた温かさが身体中を支配していた。
夢を見ているかと思えた。足に力が入らない。
桜は相変わらずひらひらとりんを取り囲み、踊っている。
りんもまたふわふわとした感覚に酔いながらその人の背を追い、
駆け寄るように足を踏み出した。                         


                   続く