朧の月



この胸に込み上げるものは何
熱く焦がれる想いは何処から
予感に身体中が包まれて
あなたの視線で今日もわたしの心は濡れる


りんがこのごろおかしいと邪見は気を揉んでいた。
明るくたくましく人の身でありながら付いてきた娘。
とうとう主の根城まで招かれ人としてどころか、
妖怪としてさえ特別な待遇で大切に護られている。
幼さは残れども日毎女らしくなり美しさも増していく。
主の眼差しはそれとともにどんどん強さを秘めていき、
わからずとも感じる娘はますます色づくようであった。
「まったく、ややこしや。殺生丸さまはりんをどうされるおつもりか」
「りんが悲しむことは耐えがたいが主に望まれるのもまたいたたまれぬ気がする。」
邪見は仕事の手を休めるとまたいつもの愚痴めいたことをつぶやき出した。
彼はりんを殺生丸とともに育てた妖怪。りんが可愛くてならないのは主と同じだった。
周りはなんとなく主とりんのことを察し静観していた。主に逆らえる者などない。
だが彼は、やはりどうしてもそのことが気になってならなかった。
「邪見さま、また同じことおっしゃって。」世話役の女中が茶を運びに入ってきていた。
「おお、すまんの。だが皆は気にならんのかの?」
「なるようにしかならないのではありませぬか?」
「どうなるというんじゃ、その、そこじゃよ。わからんのは」
「邪見さまだっておわかりでしょう、お館さまはあの通りですから。」
「・・・そうじゃのう、しかし・・・」
「当人たちに任せるしかございませんよ。」そう言って女中は退出してしまった。
邪見はやりかけの仕事をほっといて心配な娘の様子を覗くべく立ちあがった。
りんは一生懸命勉強中であった。ここへ来てからいろいろなことを学ばされ、また
りんも嫌がらず少しずつこなしていき、教養を身に付けていった。
「あ、邪見さま。来てくれたの、嬉しい。見て見て、上手にできたのよ。」
「ほう、おまえもなんとかいろいろと様になってきたのう。」
ほのぼのとまるで親子のような二人に教師を務める者も目を緩ませた。
りんの周りの妖怪たちもいまではすっかりりんの魅力に降参していて、
このりんという人の娘を大切に扱う事にすでにやぶさかでなかった。
「休憩にいたしましょう。お茶をお持ちいたしますね。」
りんの教師はそういいつつ下がっていき、邪見とりんは二人きりになった。
「・・・のう、りん。何も困ったことはないか?」邪見は優しく尋ねた。
「うん、なんにも。皆優しくしてくれるし、りん幸せだよ。」笑ってりんは答えた。
「そうか。殺生丸さまはここへお戻りになられてからお仕事も真面目にされて、
このところ戦もなくなってこの西国は旨くいっておる。」
「おまえのおかげかもしれんの」邪見はつぶやくように言った。
「え、わたし?そんなことないよ。」りんは意外そうだった。
「りん、何か不自由はないか?」繰り返し問う邪見にりんに不安げな表情が浮かぶ。
「どうしたの?邪見さま。りんに何か・・・」言葉を選ぼうとしていると
「最近食欲がなく痩せてきたと聞いたんじゃが」と邪見がさえぎるように言った。
「うん。でも元気だよ。心配しないで、邪見さま。」りんは笑顔を浮かべて答えた。
「殺生丸さまが数日お出かけになられているからか?」邪見は尋ねてみた。
「え、うん。寂しいね。」わざと明るく言っているように見えた。
「なにもうじきお戻りじゃ。縁談は流れたと聴いたしな。」言ってから邪見はしまったと思った。
「縁談・・・」りんが確かめるように繰り返した。
邪見は慌てて「お父上の縁ある方からのお話じゃったからな、そのう、
会わんわけにいかんかったんじゃろう!うん、そうじゃ。」言いながら顔は強張っていた。
「ね、邪見さま、今回は違っても殺生丸さまはいずれお嫁さんをもらうよね?」
それを聞いてますます狼狽する邪見だったが「う、まあその、後継ぎの問題もあるしな」
ますます要らないことを言っているようで邪見はあせっていた。
「そうか、そうよね」りんは何も知らなかった昔を懐かしく思った。
この城へ来てから色々なことを学ぶうち知らなかったそういったことも耳にするようになり
またりん自身もだんだんと理解できるようになってきた。
なにもかもが昔と違いみな変わっていくようでりんは戸惑わずにいられないのだった。
「何も心配するな、りん。殺生丸さまはおまえを悪いようにはせんからな。」
「ありがとう、邪見さま」りんは健気に揺れる心の奥を隠し微笑んだ。
茶を運んできた教師と入れ違うように邪見は退散して行った。
逃げるように出てきた邪見は様子を見るどころか逆に沈ませてしまった後悔で項垂れた。
取り残されて居たたまれないように腰を上げたりんは窓からいつものように月を探した。
「また外をご覧になっているのですか?」茶の入った盆を持ち戻ってきた教師が尋ねた。
「あ、ありがとう。そうなんだけどお月さま見えなかった・・・」
りんは哀しそうに視線をまた外へ戻した。
「まだ明るいですから。りんさま、今日のお勉強はお終いにします。お館さまが戻られるそうですよ。」
ぼんやりしていたりんはその意味が飲み込めると「え?殺生丸さまが!」
子供の頃からの習慣でりんは殺生丸を迎えにゆこうと部屋の外へでた。
「あ、りんさま、お待ちください。」教師は叫んだがりんは飛んで行ってしまった。
「やはり寂しくていらっしゃったのね・・・」教師はつぶやいた。
息が切れるほど急いで玄関のほうへ下りてきたりんだったが何かいつもと様子が違う。
「あれ、お客さま・・・?」
確かに待ち焦がれていた主の姿は見つけられたがその隣にいるのは見知らぬ女妖怪だった。
”もしかして、あのひとは”りんは殺生丸の縁談のことを思い出していた。
りんは胸がずきりと痛み、とくとくと心臓が忙しなくなるのを感じた。
殺生丸はいつもより不機嫌そうにも見えたがおかまいなしに隣の女妖怪は話しかけている。
「あ、もしかしてあの娘ね!そうでしょう?!」いきなりその妖怪が大きな声でりんを指差した。
「匂いが違うものね、すぐわかったわ。」きっぱりとした口調だった。
りんは固まってしまい、その妖怪をじっと見つめた。
殺生丸よりは低いがすらっとして高い背に高く結わえた髪は長く白い。
顔に紋様はなく蒼い瞳はしているがどこか殺生丸に似た感じがした。
そして真っ直ぐにりんを捉えたその瞳は強さを秘め、美しい。そうりんは思った。
りんのすぐ傍まで二人はやってきてりんはどうしてよいかわからず内心あせっていた。
「りん」めずらしく殺生丸が名を呼んだのでりんはびくっとしつつ彼を見上げた。
「お、おかえりなさい。殺生丸さま」なんとか声が出て、少しほっとする。
「数日ここに居る、私の従兄弟だ。」と殺生丸はりんを見つめながらそう言った。
「はじめまして、りん。冬夜よ、よろしくね。」そう言って親しげにりんに微笑んだ。
りんはその笑顔に”きれいなひと”とまた感じながらぺこりと頭を下げた。
「りんです。はじめまして、冬夜さま。」りんがなんとか挨拶すると、
「可愛らしいわ、人間でこんなに可愛いのは初めてだわ。」そう言ってまた笑った。
「あなたに会いたいって無理にお願いしたの、今晩は楽しくやりましょ。」
「は、はあ」りんは何を楽しくやるのかよくわからず言葉を濁した。



その後一旦部屋へ戻らされると今日の夕餉を二人と一緒にとることになったと告げられ
りんは気を重くした。せっかく殺生丸さまと久し振りに会えたというのに心は弾まない。
そして身支度を整え席についても二人の様子に一層やりきれない思いを味わった。
殺生丸はほとんど口を利かずもっぱら酒を口にしていたが、冬夜のおしゃべりを嫌がる風でもなかった。
おしゃべりはほとんどりんに対しての質問でおもしろそうに色々聞かれた。
食事が終わって殺生丸は席を立ってしまい二人を置いて部屋へ下がろうとした。
このまま冬夜と二人で過ごすのかと心配したが、あっさりとお開きになった。
結局帰ってきた殺生丸とはそのまま口も利かずに別れてしまいりんは哀しかった。
寂しいときつい見上げて探す空の月は雲でぼやけてはっきりと姿が見えなかった。
殺生丸さまに夜お休み前の挨拶も出来なかったな、そう思ったりんの足は殺生丸の部屋へ向かった。
”おやすみさい”のひとことだけでも言いたい。そう思いながら足早にそこを目指し、
もう少しだと長い廊下を曲がったときりんはいきなり立ち止まった。
部屋の手前の廊下には殺生丸と冬夜が居た。
殺生丸の広い胸にもたれかかる冬夜の姿、その美しい顔が殺生丸に近づくのが見えた。
ほんの一瞬だったがやけにゆっくりと感じた。
そしてその次の場面を見るのを拒否するようにりんは目を閉じ、くるりと向きを変えていた。
どうやって自室へ戻ったか覚えていない、ただ胸がずきずきと疼き急いだためか息が荒い。
ふらふらと窓辺へ崩れ落ちて見上げたそこには待ち望んでいた月があった。
しかしやはりぼやけてはっきりと見えない。りんは一層哀しくなった。
月はあとからあとから溢れる涙でぼやけてしまい遇いたかった心を濡らした。
りんは胸の痛みと込み上げる想いにやっと思いあたった。


わたしはあなたの瞳を待っていたの
わたしを見つめてくれるあの熱い眼差しを
苦しくて恥ずかしくてどうすることもできないこころ
りんは、りんは殺生丸さまが・・・
わたしを捕らえて離さないあなたの瞳が涙で滲んで見えない


りんは涙が止められずぼやける視界でそれでも空を見つめていた。