夢見る頃は過ぎても 6 


”がっかりしてやがるかな・・・だろうな、あんな文面では・・”



我ながら愛想の無い男だと夏は思った。今も昔も。
例えば男女間のやりとりに検定試験があるならば、
自分は確実に落第点の落ち零れではなかろうか。

浮かぶのはほのかの顔ばかりで、かけるべき言葉が掻き消える。
単に欲しい女を落とす目的なら案外彼には簡単な所業かもしれない。
それなりに武器も持っているからだ。しかしそれらがほのかには無効だ
ということは承認済みだった。寧ろ丸腰でしかほのかとは向き合えない。
こんな歳になっても思春期真っ只中の少年のように夏は自信が持てない。
どんなに経験を積んでも修行しても叶わない、まるで達人以上の域か。

”どうして俺はこんなにあいつを・・・”

ほのかに対して願うことは少ない。平穏無事であり幸福だ。
しかし望んでいることは多すぎる。夏はそんな自分を嫌悪した。
己のものだと主張したくて堪らない。私欲の塊のような己。
穏やかで優しいほのかのことを掻き乱す以外にできるだろうか。
これまではなんとかなっていた。女と強く意識しないうちは。
幼かったほのかはもういない。内には残っているかもしれないが
器である体は違う。魅力に抗えない、否、抗いたいわけではない。
手に入れて溺れたい。溺れさせたい。その罪深さに抗いたいのだ。

離れていると不安や懸念で限りなく暗い本来の自我が目を覚ます。
夏はどんな理由であろうと振り切ってほのかに会いたいと思った。
会えば薄汚い心も浅薄な己もほのかが吹き飛ばしてくれる。
得難い純粋さで包み込んでもくれる。誰に教えられたのでもなく
出会ってからのこれまでに体に浸み込んでいる。本能が理解しているのだ。

そして本能的な警戒心も夏を後押しした。良くない方の予感がする。
予定を変更し、部下に指示を送ると深夜交代した秘書にも手短に伝える。

「後は頼んだ。帰社の予定はわかり次第連絡する。」

秘書は配車の伺いを立てたがそれを断り、私用車のキーを握って退社する。
ほのかのところへなるべく早く。諸々なことをクリアにするために。



「あ、これだ!見つけた。」

ほのかは初めて入る警備室の鍵を保管する場所で研究室のものを取り出した。
学生証を提示して記名はしたが、案外あっさりと鍵を手にできてほっとする。
警備は予想以上に軽いようだ。尤も昔のような物盗りはこんなボロ校舎を狙わないし、
ここで重要なのは各研究内容、つまりデータそのものだろう。従来の警備では足らない。
一応部外者の立ち入り禁止ではあるようだが、学生にはこのように簡単な手続きで入れる。
さすがにほのかでも甘いセキュリティだなと感じるが、自衛しろということかもしれない。
とりあえず自分の使命を優先だと考え、ほのかは鍵を握って夏の研究室へと向かった。

コツンコツンとほのかの靴音が人気のない階段に響く。
エレベータはこの前の件もあったので避けて徒歩にしたのだ。
五階程度ならば昇るのにそれほど苦労でもないだろうと思った。
薄暗い階段は普段使用する人も少ないのか埃っぽく感じられた。
おそらく夏の研究室も同様だろうと締め切った部屋を想像する。
この際掃除もしていこうとほのかは考えながら足を進めた。




少し時を遡り、ほのかが告白された場所では振られた山本がその場に佇んでいた。
握手をし別れる際、用があるからと言ってほのかはその場から足早に去って行った。
後姿を見ていた山本はほのかの姿が校舎に消えてしまってもまだそこに立っていたのだ。
未練がましいかもしれないが、振られてもほのかへの想いが消えてしまうわけでもない。
彼は同じ大学に居る間だけでも見守ることができたら、そうしようと決意を固めていた。
世間知らずな自分が言うのもなんだが、ほのかも今時珍しい純真な人だと彼は思っている。
中学当時ほのかの傍にいた高校生の友人、という『彼』は入学してから一度も見ていない。
今彼らがどのような関係かも彼には知る由もない。そんな部分に踏み込む資格もない。だが
それはそれとしてほのかを守る役目を果たす人間が傍にいないなら、代わりに自分がと思う。
決意を新たに踏み出そうとしていた山本だった。その目にふと留まったのは

「これは・・・ほのか先輩の・・?」

気になって手に取ったそれは携帯電話だ。彼自身は所持していないが知識はあった。
ほのかが使っているのを目にした覚えがあるそれは彼女の落し物に違いないだろう。
それが現代人にはかなり生活における重要アイテムであることは山本にもわかる。
ほのかが困る事態には対処しなければと彼は携帯を懐に仕舞い、後を追うことにした。

山本はほのかの学友のいる講義室を探し当てると、所在を尋ねてみた。
しかし友人は知らないようなので連絡をしようと自身の携帯を手にした。

「あ!自分はほのか先輩のこれを拾ったんです。お届けしたいので探していました。」

山本の言葉に友人が確かめるとやはりほのかのものと認めた。しかし連絡は不可能となり
どうしようかと思案している最中、ほのかの携帯に着信があった。躊躇する山本から携帯を
受け取ると、友人は電話に出た。画面表示は番号のみだが本人からかもしれないからだ。

「もしもし!?あっ・・いえ、携帯を落としたみたいで今届けようかと・・はい、はい・・」

横で成り行きを見守っていた山本の耳に学生達の騒ぎ立てた声が届いた。

「おーい!!大学院の方で火事らしいぞ!?」

驚く山本よりも更に大きな声で電話していた友人が叫んだ。

「ホントですか!?ほのかがっ?!」

会話は叫び声のすぐ後で切れた。友人は「ほのか経済学部の研究室に行ってるかもって!」
「確かめにいかないと!ああなんで携帯落とすかな、あの子ったら。」
心配で騒ぐ友人は目の前で山本が消えたかと思った。彼は既に現場へと向かったのだった。



ほのかは五階に着き、研究室の扉を開錠すると案の定な空気の澱みに顔を顰めた。
すぐにブラインドを上げ、窓を開けようとしたが窓ははめ殺しらしく開かない。
思い出して部屋に付いていた換気扇を回し、環境の悪さに溜息を落とす。そして目的を
まずは果たすべく、パソコンデスクへ目を向ける。ところが・・物が見当たらなかった。

「あれ?おかしいな・・・」

首を傾げて周辺やごみ箱まで覗いたが見つからない。少し考え掃除を先にすることにした。
片付けて掃除すればそのうち見つかるだろうと踏んだのだ。ほのかは直ちに取り掛かった。
ところが掃除を粗方終えても目的の忘れ物は現れなかった。夏はそんなことで嘘は吐かない。
絶対にどこかにあるはずだと目を皿のようにして再び部屋の隅々まで注意を払い始めた。

仕事に没頭していたほのかはふと、焦げ臭さに気付いて振り返る。換気扇は動いていた。
にも関わらずこの臭いはなんだと手を止めて扉の向こうを窺う。すると黒い煙が目に入った。

「えっ!?」

思わず目を擦った。見間違いではなく黒煙だ。ほのかの使った階段から漂ってきている。
その時大きな音が鳴り響き、驚いて飛び上がってしまった。非常ベルが作動した音だった。

『火事』というニュース以外では聞かない単語を思い出す。数秒呆けていたほのかは
慌ててどすんと尻餅をついた。「ええっと・・えと・・どうするんだっけ!?まず・・」

逃げるのだと勢いよく立ち上がるが煙は逃げ道となるはずの階段を這い上がってきている。
非常出口を探すが見当たらない。それにここの窓は開かない。脱出口が見つからない。
もしや既に脱げ場を失った!?次々と絶望的な事実が襲ってきてほのかは恐怖した。

「やっ・・・いやだあっ!たすけてっ!?なっちー!!」

ほのかはパニック寸前だったが煙を避けて扉を閉めた。ポケットを探り携帯を出そうとする。

「なっない!なんで!?なんでないのっ!?」

扉を背にほのかはへたり込んだ。力が抜けて立っていられなかった。涙が頬を伝って落ちた。

座り込んだ床でまっすぐ前を見たほのかは前方にあるデスクの下にある物に気付いた。
泣きながら床を這ってゆき、パソコンデスクの抽斗部分の下に手を伸ばすと取れた。
夏に言われた探し物が見つかって少しだけほっとしたほのかはそれをポケットに仕舞う。
そしてぐいと涙を拭い、立ち上がった。

「泣いてちゃだめだ。絶対助けが来る!それまで生きてなきゃ!!」

何故か夏の顔が浮かんだ。助けに来てくれるのはそうでない可能性が高い。なのに
夏が来てくれる気がするのだ。そしてそれが功を奏して怖さが半減したようだった。

研究室の中には台所があった。急いでそこへ行ってほのかは水が出るかどうか蛇口を捻る。
出たのですぐに薬缶や流しに水を張った。服を濡らすのは火が近づいてからだろうか?
ほのかは一生懸命考えてハンカチを取り出すとマスクの代わりにもできるかもと首に巻いた。
まだ、まだ大丈夫と何度も自分に言い聞かせた。怖いと思わないでなるだけ落ち着こうと。
とにかく救助を待つしかない。絶対に助かる。一度は絶望しかかったほのかだがそう決めた。
死ぬものか。夏が来る、絶対に。そう信じることが気力を生んだ。おかげで涙も引っ込んだ。

非常ベルも作動していたし昼間だから誰かに気付かれないはずはない。
警備室で入室したことを記しもした。だから忘れられたりもしないだろう。
ほのかは一生懸命にプラスの材料を集め、自身を励ました。そして祈る。
に会ってから揚げの感想を直に聞くのだ。そうするまで絶対に死なない。

”怒ってやるんだから!なっちのあほうっ!って。遅いって。バカものって!”

”好きでいて何がいけないの?妹じゃないなんて最初から知ってたじゃないか。”
”子供だってバカにしてたけどいつまでも子供じゃないんだよ、ばかばかばか!”

夏の顔を思い出すと止まっていた涙がまた溢れ出した。困ればいいよ、と悪態を吐く。
泣いたほのかに弱かった夏を思い出してそう思った。すきだって泣き叫んでやろうか。
ほのかは一心に祈った。早く会いたいと夏の姿だけを心に映して。





友人が出たほのかの携帯にかけてきたのは夏だった。嫌な予感は確信に変わった。
脅しが足りなかった男のことが脳裏を掠める。奴が逆恨みした可能性は十分ある。
しかし今はそれよりほのかの無事だ。電話を切ると夏は乗っていた車を降りた。
交通ルールに従うのは止めて建物を駆け上り、空を飛ぶように建物間を移動する。
夜ならば闇に紛れてそうすることは少なくないが、真昼間にそれもスーツ姿は初だ。
見咎められても振り切る。夏はもうほのかの前に一秒でも早く着くことしか頭にない。
愚かな男に付き纏われても、軟派な野郎に迫られても、真面目な男に言い寄られても
どれも許せることではないが中でもほのかを危険に晒す者など言語道断、万死に値する。

大学まで一気に駆け抜ける脇で通報した消防車と擦れ違った。遅いと舌を打つ。
院内へと辿り着き、高い塀を越えて飛び降りたとき、一人の男と出くわした。
見知った男だ。向こうもそうらしく夏の姿にはっと息を呑むのがわかった。
夏は一刻でも早くほのかの元へ行きたい。同じく心得のある男に気付き立ち止まったが
そのままスルーするつもりだった。しかし行きかけた夏を男が呼び止めた。

「貴方は谷本夏氏、ですね!」
「山本直樹、だったか。」

互いの表情は真剣で、今にも闘いが始まりそうな不穏な気が両者に篭っている。
山本の力量を量った夏は立ち去る寸前、意外なことを山本に伝えた。

「・・一つ頼みがある。」

短く依頼を告げられた山本の目の前で夏の姿は消える。残像の方へ視線を向けたまま
山本は夏と反対方向へと消えた。彼の耳には有無を言わせぬ夏の強い言葉が残った。
依頼の用件ではなく、最後に放った言葉だ。

「ほのかは俺が護る。」

山本はほのかを救い出す役目を譲り、夏からの突然の依頼を引き受けた。
山本を見込んでの依頼だったことと、他の者には困難な内容だったからだ。
それは山本にとっても重い意味があった。鋭い眼光で彼は周辺を探り始める。

”周囲に怪しい者がいないか探ってくれ。”

の依頼はそれだった。言葉はこの火事が故意によるものという可能性を示唆する。
山本にも夏にも真相はまだ掴めてはいないが、知りたいことは山本にも理解できた。
つまりはほのかを狙った者がいるかもしれない事実。山本の怒りにも火が付いた。
夏程の男ならばほのかの救出は任せられるだろう。じくりとした痛みを感じたがそれは
当然のことだった。彼と向き合った時に確信した、同じ女を想う男だということを。
どうか次に会うときも健やかな笑顔でと山本は一瞬目を閉じるとほのかの無事を願った。





「熱い・・なんか頭痛いし・・まだ・かなぁ・・・」

随分経った気がするのだが救助の兆しがなく、ほのかも焦りが増していた。
恐ろしいことに部屋の温度も増し、扉の隙間からは先ほどから煙が忍び込んでいる。
水はもう出なくなっている。汲んであった水で喉を湿らせるのだがすぐに乾いてしまう。
煙に遮られて進めなかったが身を屈めて反対側へ向かうべきだったかと後悔も浮かぶ。
それも今更だ。ほのかは流しの隅に身を縮めながら、揺らぐ希望を支えるしかなかった。

「なっちぃ・・」

何度も何度も、うわ言のようにほのかは繰り返し夏を呼んだ。
怖さより苦しさに重さが傾き、先刻から体の力が抜けたりとおかしくなっている。
必死で願うも朦朧としてきた意識に気が遠くなるようだ。目を瞑り体が揺らいだ。

そのとき、唐突に破壊音が轟いた。部屋の中にガラスが四散している。
まるでスロー再生のようにゆっくりと感じられた。強化ガラスなのだろうか、
細かい粒に変わった窓を構成していた物質はキラキラと光を放ちながら飛び散る。
それらが部屋中を満たすのをほのかはぼんやりと見ていた。そこに現れた男も。
に不似合いな程、夏の姿は仕事中としか思えない揃いのスーツと黒い艶めいた靴。
振り向いてほのかを捉えた顔も冷静でいつもとあまり変わらないように見えた。

「なっち・・なんか・・思ってたのと・・違う・・なぁ・・」
「どんなの期待してたんだ、来い!出るぞっ!」

ぼんやりしているほのかに駆け寄った夏は全身の無事を確かめ抱き上げた。
外傷はないが息苦しそうで擦れた声で話すのが気になった。もしや酸欠か。
早く脱出して手当てしなければ一酸化炭素中毒の恐れもあると夏の焦りは増した。

「・・なっちぃ・・うれしい・・きてくれ・・て・・・」
「無理にしゃべるな!後で文句でもなんでも聞くから黙っとけ。」

夏が来たことで安堵したのかほのかは震え出した。思わず抱いた手に力が入る。
ほのかは縋るように夏に身を任せると「のど・・痛・・い・・あつ・・くて・・」
目は赤く涙が浮かんでいて痛々しい。ほのかをこんな目に合わせた総てに夏は憤る。
しかし真相がどうであれ、ほのかを元の姿に戻すことが先決だ。弱々しく喘ぐほのかは
夏に何か話しかけようとしていたが、とうとう目も口も閉じてしまった。涙の伝う頬の
赤さと体の熱が夏の体を逆に冷えさせた。抱きかかえたまま入ってきた窓へ走る。
窓枠に足を掛け、迷わず外へ飛び出す。ほのかを器用に抱き直すと今度は背中に乗せた。
大人しく背負われたほのかの首に巻かれていたハンカチに気付くとそれで両手を縛った。
落とすつもりはないが、途中ほのかが手を滑らさない為だ。背負うと尋常でない速度で
夏は上へと登って行く。あっという間に屋上に着き、ほのかをそっと下ろした。

火の燃えるような音と黒煙が目を開けたほのかの視界に写る。消火活動もされている
ようだが火の勢いは弱まっていない。そこでようやく屋上であることがわかったほのかは
鈍痛のする頭で夏を見上げた。ほのかを一旦下ろした後、誰かと交信しているようだ。
夏は手元に「まだか。いつでもいいぞ。」と告げている。携帯ではなく無線らしかった。

なっちぃ・・なん・・で・ここ・・?」
「こっちのが移動が早い。直にヘリが来るから待ってろ。」
「へリって・・へりこぷたー・・?」
「スペースがなくても梯子を降ろさせる。上がる時は俺が抱えるから心配すんな。」
「あ、うん・・そうだ、なっち・・これ。見つけて・・おいたよ。」

外気に触れて多少意識のはっきりしたほのかはポケットからさっきの拾い物を取り出した。
それを見て夏は眉間に皺寄せる。まさかそれのせいで逃げ遅れたのかと尋ねるとほのかは
首を振った。「机の下に・・隠れてて・・火事騒ぎの・・おかげで・・見つかったの。」

ほのかの持っているのはUSBメモリだった。それにはストラップが付けてある。
ほのかには見覚えのあるものだ。ずっと昔、夏にあげたものだったからだ。
机の下に隠れていたそのストラップ付きのメモリ拾い上げたとき、忘れていた記憶が蘇った。
先端のほのかの好きなキャラクターは色も剥げてしまってみすぼらしくもある。それを
今まで捨てずに使ってくれていたのだとわかった。忘れ物はUSBメモリとの伝言に
データを忘れたのかと思い込んだ。しかしストラップを忘れたのだとほのかは思った。


「こっち・・なんでしょ・・?忘れ物。」確かめるように夏に問う。
「ああ、そっちだ。」夏はあっさりと認めると、それに手を伸ばした。

頭上からバリバリと裂くような音が聞こえてきた。音は近づくにつれ大きくなる。
夏の手配していたヘリが到着したのだ。扉が開いてスルスルと梯子が降ってきた。
ほのかは驚いて目を瞠った。夏がストラップを素通りして自分自身を抱き寄せたからだ。
そのまま抱えられ、夏は梯子を片手で掴む。昇る為にそうしたのだとわかった。
少し落胆を覚えながらもほのかは夏の胸に顔を埋めた。こんな風に正面から抱かれるのは・・

”はじめて・・だよね。いいや、理由なんてどうでも。あんまりロマンチックじゃなくても”

夏の腕はしっかりと自分を抱き寄せている。それは落ちないようにそうしているのだと、

それだけだったとしても、ほのかはそのときの満ち足りた幸せな気持ちに身震いした。



    〜続く〜