夢見る頃は過ぎても 4 


”・・頼むから・・待ってくれ、もう少し・・”


狭い箱の中に二人きり。昇っていく箱はやがてどこかへ辿り着く。
階数を押さず閉じた扉を睨むように立っていた夏は、背中に感じる
ほのかの視線だけでもどんな表情をしているのか手に取るようだった。
沈黙を箱詰めしたエレベータは上昇速度を徐々に弛めると停止した。
屋上を示すランプが点灯し、扉は当然だが夏の眼の前でスッと開いた。
背中を向けたまま一歩、踏み出すと階段が見えた。そこを上がれば
屋上へ出る出入り口なのだろう。隙間から僅かに光が漏れている。
夏の行動に途惑ってはいても、ほのかはそのまま後をつい行く。

出入り口に施錠はされておらず、簡単に開いた。天気は雲が多めで
雨の気配もないのにどこか曖昧ではっきりしない空色をしている。

噛み締める奥歯が感じる苦さは己を巧く制御できなかった後悔も含んでいた。
彼は”動”の気を秘めた戦士だが、修練を積み簡単に激昂しない自信がある。
それなのにこの有様はどうだ。夏がほのかに背を向けたのは態とそうしたのだ。
ほのかも感じ取っているのだろう、いつもより無口になって様子を窺っている。

”ほのかのこととなると・・・俺はどうしようもなく・・愚かになる”

夏は先の男の指を一本へし折ったことくらいで到底気が済んではいなかった。
冷静になればやり過ぎなくらいだが、間に合っていなかった場合を想像すると
最悪息の根を止めていたかもしれない。そうしなかったのは本来ならば
自身の抑制によるものだろう。だが先ほどの行動は違う。凄惨な場面を
見せたくなかった。そして怒りに任せた醜い姿をほのかに晒すのを畏れたのだ。
出来るならこのまま姿を消してしまいたかった。そんな夏の背中越しに


「ここって風が気持ちいいねえ〜?!」

長い沈黙を軽やかな声が破った。ほのかの手が夏の片手に触れる。

「ごめんね?それからありがとう!なっちカッコ良かったぞ!!」

握り締めていた片方の手はあの男の指を折った右手だ。その拳をほのかが撫でる。
不思議なほどに、ほのかは夏自身が望んでいると気付かないことを与える天才だ。
出逢った当初からずっとそうだった。柔らかくて温かい手はいつも彼を救った。

忘れていた無邪気な笑顔をくれた。 彼の為だけに手を傷めて拵えた食べものも。
一人では味わえない数々の体験もほのかと一緒にした。子供に戻ったように思えた。
ほのかの前では優しかったただの兄のようでいられた。泣きたいほど嬉しかった。
どこで間違ったのだろう?愛さなければよかったのだろうか。
ようやく夏はほのかの方へ向き直った。にこりと馴染みの笑顔が迎える。

「・・気苦労が耐えないって思った!?」
「・・・それは・・・」
「めげないで。ほのかが悪かったよ!あんな奴ちょびっと痛い思いしたっていいのさ!」
「・・それよりお前だ。いっそどっかに閉じ込めてやりたいなんて・・思わせやがって・・」
「ふふん、そんなのムリだよ。ほのかはそんなことされてもぱっと逃げちゃうもんね!」
「ふっ・・」
「オオッ何年ぶりかね!?なっちは笑ったら可愛いんだぞ?なんでもっと笑わないの!」
「冗談じゃねぇ。男がお前みたいにヘラヘラできるか。」
「嘘ばっか。昔はニコニコ笑って高校生してたでしょ。」
「うっ・お前・・人の黒歴史を・・それは黙っとけよ。」
「考えとく。へへっ・・そうだ、お弁当食べよ!一緒に」

ピッ・ピリリッ・・ピリリッ・・・

突然の電子音に会話が途絶えた。夏の社用の携帯だった。スマンと夏が電話に出ると
眉間に皴が寄ったのを見てほのかは少し嫌な予感がした。事務的な会話が終わると

「弁当は会社に持っていく。迎えが来たんでな。・・悪い。」
「そ・・かぁ・・しょうがないね。・・けど絶対食べてよ!」
「ああ。俺は残した覚えは一度もないぞ。」
「あっ・・そうだよね!うん・・・えへへっ」

夏の何の気無しに漏らした言葉でほのかは頬が熱くなった。
押し付けてきた数々の弁当をもしや思った以上に大事に食べてくれていた?
そう思うと胸がきゅっと音を立てたのだ。そして体がふわりと軽くなった。
夏が望んでいることを叶えてあげられたと実感できたのだった。

振り出しに戻るように屋上から下へと降りた。エレベータ内も少し話をした。
二人の距離も元に戻ったような気もしたほのかだった。一階に着いて扉が開く。
するとエレベータの着いた場所にはまたもや見知らぬ人物が立っていた。

「社長、お迎えにあがりました。」
「ご苦労。」
「お荷物をお預かりいたします。」
「いや、これはいい。・・昼飯食う時間あるか?」
「お車の中でも宜しければ。」
「しょうがねぇな・・」

気付くとまたほのかは傍観者だ。夏に声を掛けるタイミングすらわからない。
戻ったと思った瞬間突き放された。夏はさっさと秘書らしき者と歩きだす。
思った以上に慣れた関係と見て取れるのが何故が寂しい。それともう一つ、

”秘書・・なのか知らないけど・・・ちょっと美人過ぎじゃない!?”

気になったのは迎えに来た者だ。言葉は慇懃だが自然に夏と接している。
ほのかにはさっぱり飲み込めないビジネスの話が更に距離感を煽った。
おまけに有能そうに付き従う秘書は気のせいか兄の想い人を思い出す。
もしやこのまま放置されてお別れなのだろうかとほのかが焦り始めると

「・・・またな。」

夏が振り返るとほのかにそう告げた。はっとして「うん、またね!」と返事をする。
棟の表側の玄関に待機していた大型車に夏が乗り込むまでを成り行きで見送った。
ほのかの方を見ないまま、何か書類に目を通している夏が刷りガラスに消えていく。
助手席の窓からさっきの秘書がほのかに会釈をした。慌ててほのかも頭を下げる。
いかめしい車が夏を乗せて遠去かると、ほのかはぽつんと取り残された気がした。


”なんか・・・疲れちゃったのかな・・・元気・・なくなった・・”


一緒に食べることだけは叶わなかったが、夏は力作の弁当を受け取ってくれた。
そのことを良しとすればいいのだ。なのに足取りは行きと帰りではまるで違った。
これからしばらく会社に係りきると言っていた。ならば居場所が変わっただけで
また夏とは会えなくなる。再会してあれほど浮き上がった気持ちは夏と共に
持っていかれたようだ。ほのかは元気のないままとぼとぼと大学まで戻った。

「あれ!?ほのか!あんたお昼は例の人と食べるって・・・どうしたの?」

戻るとほのかの友人達は昼食をどうするかの相談中だった。驚いたのは先ほどまで
一緒だった友だ。置いてきぼりの子供のようなほのかの肩に手を置くと優しく
「予定が変わったんなら一緒に食べよ!?」と誘った。

ほのかたちは大学構内から出て駅前のイタリアンでお昼を食べることになった。
前半は様子を窺うように誰もほのかに突っ込んだことは尋ねる者はいなかったが
とうとう堪えきれずに一人が口を開いた。

「あっあのさ、ほのからしくないよ?なんでも言ってしまいな!ねえ?!」

ほのかは遠慮勝ちに切り出されてやっと自分が意気消沈しているのだと気付いた。
どうしてこれくらいのことでそんなに?自身でも突っ込んだ。ちょっと会えないくらい
どうってことはない、そう思った時に不意に涙が込み上げそうになった。慌てて堪える。

「いやいや、心配ばっかり掛けて済まないね!ほのかとしたことが!?」
「無理しなさんな。見え見えだよ・・あんたってばもう・・」

友達はまるで姉のように恋愛なら先輩だから相談しろとまで言ってくれる。
しかしほのかはここにきてもまだ夏とのことを単なる恋愛だとは思えなかった。
結局打ち明けることはせずにいると、話すにもタイミングがあると知る友人達は
ほのかに合わせてスルーしてくれた。心の中で友人達に感謝するほのかだった。




「社長、飲み物はどうなさいますか?」
「要らん。それもある。それよりしばらく閉じておいてくれ。」
「承知しました。」

移動時間しか昼食を摂る時間が無かった夏は、車中で弁当包みを開いた。
運転手も兼ねた秘書に後部との境の窓も閉めさせ、一人の空間で包みを解く。
箸もお茶も手拭きもちゃんとある。夏の好きな温かいほうじ茶なのも定番だ。
きちんと掌を合わせて礼をする。それは武道の慣わしとも似ている。
高校生だった夏がこの手作りの弁当をほのかに最初に押し付けられた頃から
そうして食べてきた。高校の屋上の入り口の更に上。誰にも見えない一番高い場所で。
見られたくなかった。望んだことすらないものに箸を持つ手が震えるところなどを。

苦いような甘いような・・味は複雑だったが夏の心中もそれと同じだった。
妹も簡単なものならば拵えてくれたこともあったが、弁当は実は生まれて初めてだった。
一粒も残したことはない。とんでもない味のものもあったがそれも全て飲み込んだ。
食べ終えるとまた掌を合わせた。「ご馳走様」と呟いた声も少し涙混じりだったのだ。
そんなことを思い出しながら夏はほのかが作ったおかずを一つ一つ口に運んでいく。
から揚げは昔唯一だが焦げていても好きな味だったので覚えていたが、当時のものより
焦げ目もなくて上等だった。夏の口元が弛む。相当頑張ったな、と顔を思い起こして。

本気で思う。これが世界で一番美味い飯だと。フレンチなぞに憧れるほのかは
ひょっとして一生知らないのかもしれない。母親の作るものがどれほど貴重かと。
母親の手料理など味わったことのない夏には妹が生きていれば食べさせたいほどだ。

”楓は・・から揚げは駄目だったかもなぁ・・けどきっと好きだったぞ?”

いつか、おそらく確実にほのかは母になる。誰かの男のものになって。
そいつはこんな手料理を俺以上に美味いと言って食べるのだろうか、などと考える。
はっきり誉めてやることも出来ないのに、誰より美味いと感じるのは自分だと確信している。
食べながら、もしここにほのかが居たら「どう?ねぇどうなの!?」と心配そうに覗きこみ、
夏の反応を気にしているに違いない。「偶には正直に言ってごらん!?」と上目遣いで。

「腕を上げたな。」

ぽつりと零した言葉に一人赤面する。”餌付けされた猫か、俺は”と苦笑しながら、
なんと幸せな男かとも思う。噛み締める幸せは夏の体に溶けていった。



遅い時間に帰宅を告げた娘に、母も意外そうな顔をした。ほのかが部屋に入る前に
まるで何もかも知っているかのように微笑み、明るい声を掛けた。

「ほのか、評価は次にお預けね?きっと合格点だから落ち込みなさんな。」
「え・・そうかな・・・うん。そっか・・ありがとう、お母さん。」

こくりと頷くと母も目を細めた。母に太鼓判をもらえたのならそうかもしれない。
まずは次に会う約束をしなければ。フレンチやお酒を飲むのだってこれからだ。
理由なんてもうどうでもいい。会いたいから会うんだ。寂しいからタスケテって。
お兄ちゃんだって好きな人と一緒。お母さんにはお父さん。じゃあ私は?

いま、会いたい人は誰ときかれたら、迷わず答えるだろう。
「美味しかった」と言ってよ、どうか私が作ったからだって。
いつか、幾つも会えない夜を過ごしたらそこにいてほしい。だけど
待つのではなく居場所になりたい。離れていても大丈夫なように。



    〜続く〜