夢見る頃は過ぎても 3 


「・・・なにこれ!?完璧・・・!!」


ほのかは片頬を押え、感激に打ち震えながら感想を漏らした。
後ではほのかの母、沙織が同じく片頬に手を当て見守っている。
但し表情は娘とは正反対に浮かない様相であった。そして徐に
やや普段より慎重な口調でもって娘へ声を掛けたのだった。

「ほのか、時間よ?そろそろ交替してくれないかしら。」
「えっ!?もうそんな時間!!??うわあああっ!!!」

慌てさせない配慮はほとんど功を奏さなかった。直後悲鳴が上がり、
エプロンの紐を踏んだり物にぶつかったり等々、眼の前で我が子が
ドタバタ劇を繰り広げるという結果に、長い溜息を吐くしかない。

「・・まだお嫁に行くには・・早いかもしれないわねぇ・・」

母のそんな呟きを耳にする余裕も無いほのかは猛ダッシュで家を出た。
大急ぎで包んだ弁当が鞄に入りきらないため、両腕に抱えてのダッシュだ。
通学用に使用している肩掛けのトートバッグはB4サイズの書籍もOKの
大振りなのだが、今回入りきらなかったのは前回より量が増えているのだ。

”ちょっと作りすぎちゃったかなぁ・・・少ないよりいいよね?!”

大学までの行程は最寄駅まで徒歩12分程、駅から大学前まで電車で30分、
駅から降りると歩いて5分足らずの目の前であるからまあまあ近場と言える
ただ学生の利用者が多い路線であるため時間によってはかなり混み合う。
今朝も座る席の見当たらない時間帯だった。大きな荷物もあって割と苦行だ。
小柄なほのかは荷物を網棚に上げるのが厄介なので一人の時したことがない。
出来たとしても今日は駄目だ。ほのかは未だ温みのある弁当包を大事そうに
抱え直し、大勢の乗客と共に黙って電車に揺られていた。

「先輩?・・やっぱりほのか先輩!おはようございます!」
「あれっ!おはよう!?珍しいねぇ、電車で会うなんて。」

人の波をスルっと簡単に抜け出してほのかの前に現れたのは大学の後輩だった。
ほのかより一つ歳下の人好きのする笑顔の青年は山本直樹。中学時代に知り合った
山育ちの素朴な少年だった。大学で再会した彼はほのかより大きくなり男らしくなっていたが
純真な内面は変わりなく、ほのかのことを以前から「先輩」と呼んで慕っている。

「電車も乗りますよ!あまり得意じゃありませんけどね。」
「何事も修行だよね。うんうん、それにしてもまた大きくなった?」
「かもしれません。それよりほのか先輩、それお弁当ですよね。好い匂いです。」
「当たりー!えへへ・・大きいからびっくりした!?」
「もしかして御学友の方達と召し上がるのかなって思いました。」
「んとねぇ・・覚えてるかな?中学のとき、私に高校生だった友達がいたでしょ?!」
「あ・・ええ・・覚えてます。」

そのとき山本直樹の笑顔が僅かに翳った。ほのかは気付かずに思い出話を続け
あのときの友達が今同じ大学の院生で・・と説明をしている間に山本の顔色が
明らかに悪化していく。ほのかは心配して話を中断した。

「大丈夫?気分悪くなった?」と問い掛けると「いいえ、大丈夫。」と返すが
それはほのかにでもわかるくらい取り繕ったような笑顔だった。

「酔ったのかも。満員電車って慣れてたって大変だもの。次降りよう!」
「本当に平気です!ほのか先輩、自分はっ・・」

遠慮する山本の腕を引っ張り、ほのかは丁度駅に着いて開いた扉から降りた。
遅刻は免れないが、心配を放っておけないのはほのかの元来の性格だ。
駅のベンチに腰を下ろさせると、鞄から薬を取り出すほのかに山本は慌てた。

「ほのか先輩御免なさい。遅刻したら自分のせいですから一緒に謝ります!」
「いいよそんなの。それより胃腸薬持ってるけど飲む?どれどれ・・」

熱はないかとほのかは山本の額に手を当てた。驚く彼の顔は真っ赤に染まる。
汗ばんでいると気付いてハンカチを取り出して拭いてやると益々酷くなった。

「送って行こうか?ホントに具合良くなさそうだし。」
「違うんです!どうしよう・・こんなにしてもらっちゃって・・」

山本は落ち込んだように肩を落とした。次の電車が来るまでの間、
誤解であることを必死に訴えた山本とほのかは再び乗車して大学へ向った。
釈明しようと付いてきた彼をほのかが説得したりとやや時間は食ったものの
ようやく教室の後ろから滑り込んだほのかに今度は友人が待ち構えていた。

「ほのか〜!どういうことかちゃんと説明しなさいよ〜〜!?」

合コンをドタキャンした件である。すっかり忘れていたほのかだった。
友人に簡単に言い訳をすると、その間何故か怪訝な顔をされていて首を傾げる。

「あの・・ホントにゴメン。」
「まぁいいよ。それよりその院生ってさ、カッコイイ?ほのか狙ってるの?」
「えっ!?いや違うよっ!さっきも言ったけど過保護で兄キ的な人なんだ!」
「ふ〜ん・・そんなら言うことなんか無視しちゃえばいいのに。それにさあ、」

友人は手作りの弁当に視線を向けると、そこまでは普通しないよと言った。
ほのかは大したことではないと流した。下心など入っていないのは確かだ。
考えるに初めての手料理を平らげてくれた夏に、恩のようなものを感じている。
当時夏の世話を焼くほのかは家事のどれを取ってもおままごとクラスだった。
さぞや迷惑だっただろう。しかしそれをきっかけに腕を磨くようになったのだから、
料理やら何やらの上達は夏のお蔭と言っても良い。だから恩義を感じるという訳だ。
夏はほのかのすることは何でも許してくれたし、さながら家族のように遠慮なく接した。
それらが嬉しかったし、どちらにとっても良い影響を与え合っていたのではないか。

”だからこの美味しく出来たから揚げを食べてもらうのだって良いことだよ!”

ほのかの料理の上達ぶりを誰よりわかってくれる。夏ならば当然のことだ。
午前の講義を終えると、ほのかは夏の居る場所へと今朝と同様の意気込みで向った。


一方、夏はほのかがその日も再訪しようとしていることを知らなかった。
論文は全て研究機関に送付し終え、後は結果待ち。院に篭る理由が一つ消化された。
早速夏の会社からは仕事の催促がきた。電話は午後からの予定変更についてだった。
了解を告げると電話を切った。業務の采配にも随分慣れ、仕事ぶりも充実している。
ただ仕事では人との折衝が多く、夏には気疲れして煩わしさを強く感じる面がある。
単独が彼には楽なのだ。とはいえ立場上それは許されない。彼なりの逃げ場が大学だ。
しかし当面の言い訳を失ったのだ。次の名目が見つかるまで社に戻らねばならない。

そして夏はまたほのかのことを思い出していた。どうしても考えずにいられない。
懐かしい既視感。新たに知った膝の温もり。「またね」「逃げても・・」の言葉。
確かにわかったことはほのかを忘れることも逃げることも不可能だということ。
だというのに行動を起こせない理由。それらは多々ある。一番に圧し掛かるのは
ほのかは自分とは真逆で、真っ当に育てられた憂いを知らない存在であること。
だからこそ魅かれもしたのだろうが、闇にこそ馴染む己とは本来相容れない。
どんなに外面を取り繕っても立場が優位に見えても、本質はその辺の男と同じだ。
道を窮めようと努力をしてきたことだけは誇りだが、それだけしかないとも言える。

ほのかを望めば望むほど、もっと相応しい人間と幸せになるべきだと思えてしまう。
逃げ回っていたのはうっかり手を出してしまいそうになったから。見も蓋もない。
夏の為に拵えた弁当も笑顔も、何もかも嬉しくて堪らないのに返すものが見つからない。
もう子供ではなくなっているのに、どうすれば幸せにしてやれるのかがわからずにいる。
考えながらしばらく留守にする研究室を粗方片付けると、夏は何気なく窓際へ身を寄せた。

高い場所や景色を眺めると好きなせいか気分が落ち着く。生憎研究室の窓から見えるのは
院の向こうに聳える大学校舎と間にある駐車場しかない。あとは植え込まれた木々くらいだ。
それでも五階になる位置からだと地上から見るよりは開放感があった。ブラインドを引き上げ
周囲を見ると駐車場脇の道を見知った人物が歩いて向ってくるのが見えた。ほのかだ。
手には大きな包みを抱えている。懲りもせず弁当を拵えてきたのだとすぐに理解した。
誰も居ないのに思わず眉間に皴寄せる。無自覚に癖になっている照れ隠しのようなものだ。
しかしほのかの後ろから明らかに付けている影を見止めたとき、夏の顔色は変わった。


”なるほど、ここは近道だね!いいこと教えてもらったな。”

人目に付きにくい木々に囲まれた駐車場脇の小道をほのかは呑気に歩いていた。
後ろから少し間隔を置いて付いてきている男には全く気付いてはいなかった。
やがて夏の居る研究棟が見えるとほのかは小走りになった。後ろの男も歩調を上げた。
道を抜けると丁度裏口に出た。小さなエントランスホールをくぐるとエレベータがある。
ほのかは階段もあるようだが荷物もあるのでエレベータのボタンを押した。そのとき

「やあ!奇遇だね。こんなところで会うなんて!?」

背後から突然声が掛かり、ほのかはびっくりして振り向くと見覚えのない男。
気さくな態度から知り合いだろうかと思ったが、名前が浮んでこずに途惑った。

「裏道を知ってるってことはここに知り合いでもいるの?」
「え、ええまぁ・・」

ほのかは身構えた。背は夏より少し低いがほのかよりは高くて体格も良い。
何より張り付いた笑顔が感じの良くない男で近寄られると思わず後ずさった。
ポンと軽い音がして、エレベータが到着を告げると男はさっさと乗り込もうとした。
その時ほのかはぎょっとした。持っていた弁当を男が奪い取ったのだ。

「重そうだから持ってあげるよ。何階かな?」男は笑顔のままさらりと尋ねる。
それよりも大事な弁当を掠め取られたほのかの男に対する印象は最悪になった。

「返してください!勝手に人の荷物を取るなんてどういうことですか?!」
「盗るだなんて心外だなぁ!?持ってあげるって言ったじゃないか。」
「いいから返して!それ大事なものなんだから!」

ほのかは男の腕を掴んで引くが意外にもびくともしない。男をキッと睨みつける。
その時、男に釣られてほのかもエレベータの箱の中に足を踏み入れていた。
澄ました顔で男はボタンを押した。屋上を示すRだ。更に「閉じる」ボタンも押す。
他には誰も乗っていない狭い箱の中に閉じ込められようとしているのだ。そして
それを理解したほのかの前で扉は閉じていく。だが寸前に何かが挟まって止まった。
男も驚いて扉を見た。挟まったのは手だ。そこから扉が両側に開かれていくと

「なっち!?」

怒りを全身に纏った男の出現に、エレベータの中の男は呆気に取られた。
一睨みでびくっと身を固くした。男の手にあった弁当はあっさり取り返された。

「これはお前んじゃねぇ。汚ぇ手で触るな。」
「いっいや、それは・・盗ったわけでは・・」

ぼきり。何かが折れる音が響くと男は数秒後片手を押さえ悲鳴を上げた。
そしてまるでゴミを放り投げるようにして男は外へと投げ飛ばされた。
みっともなく痛みに呻いている男を冷たく見下げながら夏は宣告した。

「二度とこの女の前に現れるな。次は指だけでは済まさん。」

涙まで零してみっともなく頷く男は扉の向こうに消えた。入れ替わった夏が
エレベータを閉じたのだ。ぼうっと見守っていたほのかに夏は扉を向いたまま
何も言わずに背を向けている。ほのかもまた夏の背中を見詰めるだけだ。

夏とほのかを乗せたエレベータはそのまま上へと昇って行く。
世界から切り離された狭い空間には言葉も置き忘れられたようだった。




    〜続く〜