夢見る頃は過ぎても 2 


”・・なんだこの状況は・・記憶が・・再生しねぇ・・”


谷本夏はどうやらかなり深く眠っていたことは自覚した。
寝心地がいつもと違う、と目を覚ますと確かな違和感。
経験がない為思い至るまるまで少々時間を要してしまった。
しかし流石に頭も冴えてきた。ほのかだ。ほのかの脚、膝。
それを枕にしているのだと理解すると血の気が一時に引いた。
勢い起き上がりかけた夏だが、当人のほのかも眠っている。
後ろめたさを感じつつ、寝顔を窺った。昔と同じ安らかな顔。
だが絶対的に違うほのかから漂う香り。部屋に来て最初に気付いた。
こんな香りを纏って狼共の巣へ自ら飛び込もうとは愚の骨頂だ。
不必要であるのに。何も態々誘うこともない。狼達は飢えている。
若くて今時貴重なまっさらの女だ。どこを切り取っても美味そうな。

夏は随分久しく嗅いでいない女の香りに酔いそうになった。
イカンと瞑目する。動いたら起こしてしまう、耐えろ夏!
大体こんな場所にのこのこ入り込んでいる時点でほのかはアホゥだ。
ここにだって狼は居る。他大学生の質の悪さを説いたが自分も男だ。
そうと気付かないほのかに腹を立てた。数日間夢でしか逢えなかったから
現実となって見た姿にどれだけ自分が喜んだかをこの間抜けはわからない。
頭を柔らかく支える脚は滑らかな膝を惜しげもなく晒していて困る。
なんと愚かな、ほのかではなく自分が。いつからこれほど焦がれている?

起きるきっかけを掴めず悶々とする夏のことなど露知らず、ほのかは夢を見ていた。
楽しい夢らしく、口元が綻んでいる。時が入れ替わっているのかもしれない。
しかし実際は、昔膝枕をしてもらっていたのは夏ではなくほのかの方だった。
ちょくちょく部活だのなんだので疲れた、と夏の読書する傍らでころりと横になる。
咎める暇などない。あっという間に寝付いて無防備に夏の膝で丸くなってしまう。
猫みたいだなと当時思ったものだ。くすぐったくて温かいから。

”甘えられて・・確かに嬉しかった。動けなくなって不自由なのに・・”

起こさないようにじっと息まで潜めて、今の状況と変わりないのに
不埒なことが過ぎる自分に舌を打ちたい。なんて厄介な生き物だ、男とは。
呑気な寝顔を夏に向けてほのかは幸せそうに見える。それはありがたかった。
しかしどれくらい眠っていたのだろうと夏は誤魔化すように腕時計を見た。
すると驚いたことに凡そ2時間以上だ。己がなんという醜態かと臍を噛む。
ほんの僅かだが気配にほのかが目を覚ます。一層マズイ状況に追い込まれた。

ぱっと目を開けたほのかは夏が狸宜しく再び目を閉じたことは知らない。
ヨダレを垂らしていないかと口元に手を当てる。セーフらしい。危ない。
ほっと一安心して夏を窺う。そうっと伸びすぎの前髪を撫でた。目に掛かりそうで
いけないな、とほのかは寝ている間に前髪を自分のヘアピンで止めたのだが
不精髭とのミスマッチで微笑んでしまう。可愛いとこっそりやに下がった。
夏は疲れていて可哀想だった。だからこれだけぐっすり眠れたら良いだろう。
自分の所業も悪くなかったと結果ほのかは今日の行動を肯定できて満足だ。
それはそうとして脚の感覚がない。これはかなり痺れているだろうなと思った。

「・・・今、何時だ?」
「わっ!びっくりした。えっと何時だろ、なっち、よく眠れた!?」
「呑気だな。予定は潰れたからって俺に付き合うこともなかったんだぞ。」
「あのさ、そこでしゃべらないで。くすぐったいんだけど・・・;」

膝の上からゆっくり起き上がった夏はばつの悪い顔でむすっとしていた。
それでも気分の良くなったほのかは凹まない。この顔は寧ろ照れている。
確信して笑顔で夏に質問した。実は気になっていたことなのだ。とても。

「ねーなっちぃ、・・・おべんと、どうだった・・?!」
「から揚げがな、食いたかったぜ。なんで入れないんだ。」
「まだそれを!?玉子焼きのが美味しいじゃん、自信作だったのに・・」
「マシにはなったんじゃねぇか。少し焦げ臭かったが許せる範囲内だ。」
「何様だろこのひと・・美味しいって一言言えば済むところを〜!」
「拗ねるな、ガキ。ご馳走さんと言っただろうが。」
「そっそれは・・そうだけども。なっちの美味しいってそれなんだよね。」
「それより脚は大丈夫か、急に立ち上がるなよ。」
「えっ・・あ・ああ〜!?」
「どうした!?」
「立てない!どうしよなっちー!?」
「もうちょいじっとしてろ!・・車で送ってやるからここで待て。」
「車?!免許なんていつの間に取ったの!?」
「・・・俺を幾つだと思ってんだてめー。この歳で持って無い方が少ないぞ。」
「そういや女の子にもちらほら・・だって贅沢だよ、親のすねかじりでさ!?」
「お前はそういうとこ良い育てられ方したな。・・お前はまだ取らなくて良いぞ。」
「どういう意味?ほのかそんなに鈍くないんだぞー!?」
「そういう意味じゃねえ。いいから待ってろ。車をここまで廻してくるから。」

それから間もなくしてほのかは痺れた脚を引きずって研究棟の下に居た。
正面に横たわる車の前で固まっている。なんだこのいかにもな外車は?!
訊けば事も無く『通学用』と答えた。つまり何台持ってるの!?と呆れる。
それほど持ってないと素っ気無いが、それ以上は怖くて訊くのを躊躇った。
うっかり忘れがちだが夏はセレブリティなのだ。コンビニで買い食いするくせに。
慣れた手つきで運転する横でほのかは緊張した。初めて助手席に乗ったのだ。
普段は誰か乗せたりするのだろうかと疑ったが車内に女の気配などは無かった。
というか左ハンドルって妙だな〜などとのんびりした感想を浮かべていた。
自宅前まで送ってもらい、夏はそのままUターンする予定だった。のだが、

「・・なんかまだ脚がふらつく・・なっちー家まで連れてって?」
「お前・・家で良かったぜ。その台詞絶対他の誰にも使うなよ。」
「?・・なに言ってんの?!」

まるで意に介さないほのかに溜息を落としながら車を寄せて手を貸した。
弁当箱とほのかを支える手は相変わらず大きくてちょっとどきどきする。
お酒を飲んだわけでもないのにふわふわするのは脚の痺れとは無関係で
こんなに接近したのっていつくらいぶりだとほのかは息を飲み込んだ。


「あらまあまあ!?谷本さん!お久しぶりね、よく来てくださったわ!」
「・・こんな格好で失礼します・・お元気そうで良かった。実は・・・」
「丁度いいわ、夕食をご一緒にどうかしら、せっかくですもの。」
「い、いえそんな、送っただけです。これから予定もありますので;」
「そんなこと言わずに。お風呂入ってらっしゃいな、湧いてるから。」
「本当に申し訳ないですけどっ・・!!」

出迎えた母親はほのかを大きくしてやり手にした感じで夏は大の苦手だった。
昔からよく夕飯に誘われたり、信用され過ぎて困ったこともしばしばだ。
変わりなく家族のように歓待されて途惑う夏をほのかは面白がった。

「お風呂だけでも入って行きなよ、シェーバーお父さんの借りたら良いし。」
「帰ったらちゃんと入るからカンベンしろ!」

えらいことになった。夏は頑固に辞退すると言い続けたのだが結局負けた。
着替えが無いと言えばほのかの兄のがあると返され、予定なら尚更綺麗にしろと。
諦めてあろうことか帰宅前の主人より先に風呂を貰い、夏は茫然自失だ。
着替えの際に鏡で前髪にほのかが付けたらしい髪留めを見つけた時も落ち込んだ。
このみっともない男が自分と認めるのがキツイ。現実は重く夏を押し潰した。

風呂上りでさっぱりしたところに笑顔でビールを持って来られたときには
もうどうとでもなれと思う夏だった。白浜家主人も帰宅して引く程歓待された。
家庭的な雰囲気に飲み込まれ、ほのかも夏も昔に戻ったように感じられた。
ようやく暇を告げることに成功すると、ほのかが居ない隙に母親が囁いた。

「今日はありがとう。久しぶりでとても嬉しかったわ、またいらしてね。」
「こちらこそお世話になりました。・・美味かったです。ご馳走になりました。」
「いいえ、お粗末様。ほのかの腕も上がったでしょう?そうでもなかった?」
「あ・・はい。その・・いつもすいません、心配やら気遣いやらをほのかさんに」
「ふふ・・張り切ってたのよ〜!可愛いわよね、相変わらずあなたが大好きで。」
「・・・変わらないですね。・・俺のことはもう大丈夫だからと伝えてください。」
「ご自分でどうぞ。もう二十歳ですからね、もらっていっていいのよ?」
「!?な・・そんなこと!俺はっ・・」

ほのかが送りに現われて中断された密談。見透かされた夏の動揺は大きかった。
苦い顔で「じゃあな」と告げた夏にほのかは縋るように真剣な言葉で返す。

「またね。絶対またね!逃げたって会いに行くから。」
「ばかやろ・・そんな顔すんな。」

ほのかの表情はあまりにも一途な想いに満ちていて夏には堪らなかった。
見ているのが辛くて抱き締めてしまいそうになる。しかし必死に堪えた。
二人の間のあやふやな絆を手繰り寄せようと必死になっているほのかは
最早一人の女としか思えない。眼の前に突き付けられた現実は甘くほろ苦かった。
もっと何か、優しい言葉を掛けてやりたい。しかし喉は痞え、出て来ない。
夏はほのかのことを振り切るように白浜家を後にした。逃げるように。


”逃げたって来るだと・・?逃げてるのか、俺は。そうだ、卑怯者だな・・”

幾つになっただとほのかに言えるほど大人になってはいない。知っている。
言い訳を探しては遠ざけて。さからえやしないと解りきっているのだから。

”カンベンしてくれ・・・!!”

欲しくて欲しくて喉から手が伸びていることを知られてしまっている。
ほのかだけがわかってない。隠して逃げ回っているからだ。当然じゃないか。
さらってしまい、閉じ込めてしまいそうだからだ。そんなことはできない。
どうしてもっと大人になってあいつの幸せだけを願っていられないのだ。
今日という今日は情けなさで死ねると夏は夜の路を独り車で走り去った。


”今日は楽しかったなぁ・・!”

夏を見送った後、部屋のベッドでほのかは一日の出来事を反芻していた。
思い出してはごろごろと体を転がす。なんだか夢のようなアレコレだ。
一番悩んでいた彼の身辺に誰かが存在するのかということは藪の中だが
今日という一日には存在は感じられない。それが嬉しくてのた打ち回る。
また行っていいんだとほのかは思った。夏のことを考えない日はない。
それは関わっていいという免罪符になるだろうか、いや、そうしよう。
ほのかは心に決めた。正直に生きてきたし、他の生き方なんか知らない。
それより今の幸せな気持ちを大事にしたい。夏と関わっていたいんだ。

ベッドサイドに置かれたぬいぐるみを取り上げて抱きしめた。
ずっと以前に夏がゲームでゲットしてくれたものだ。随分くたびれた。
それは歳月だ。夏とほのかの。二人だけのものだから離したくなかった。

「また・・お弁当作って持ってくね・・から揚げは外さない、と!・・」

独り事を呟いてほのかは目蓋を下ろす。安らかな寝顔に夜は更けていった。


    〜続く〜