Venus  


”まだ帰ってないんだ。”

数回の呼び鈴に反応はなく、玄関の扉は閉じていた。
しかしほのかは少しも落胆することなくとある場所を探す。
誰も知らない場所だ。ほのかと夏だけが知っているそこを
ほのかが探ってみると目的の物が見つかった。家の鍵である。
慣れた手つきで扉を開錠すると、躊躇なく家の中へ入った。
誰も居ないとわかっているが「おじゃまします!」と一言。
すぐに洗面所に向かうとリネン類の棚から一枚タオルを出した。
しかししばしそこで考え込む。濡れすぎて気持ち悪い・・
着替えてしまおうとほのかは判断した。来る途中雨に降られたのだ。
傘を忘れるなんてついてないが、ジャージがあったのはラッキーだ。
ぽいとタオルも着替えも放り出すと、ほのかは制服を脱ぎ始めた。
セーラー服を上下とも脱ぎ捨てて、下着も全部剥ぎ取ると浴室へ。
シャワーも借りてしまえと飛び込んだ。谷本家の給湯は電気である。
電源を入れるとシャワーからお湯はすぐに出たのでほっとした。
鼻歌交じりで冷えた体を温めると、洗濯済みのタオルで体を拭いた。

”はー!さっぱりした。”

下着の替えも置いておけばよかったと思いながら脱衣所へ出る。
ふと真横にある大きな鏡の前でほのかはタオルを取り払ってみた。
当然だがそこには生まれたままの姿の自分が映っている。

”う〜ん・・なかなかおっきくならないなぁ!”

同じ年頃の皆からかなり成育に差を付けられているほのかである。
ようやく膨らみ始めた胸はまだ彼女の理想に届くのまで遠そうだ。
問題はこのむっちりした太腿だなぁと鏡の向こうを睨んで思った。
テニスをしたり活動的なほのかの足はお世辞にも細いとは言えない。
すらりとしたモデル脚を思い描くとつい溜息なぞも出てしまう。

”ま、いっか。さて着替えようっと。”

ほのかがそう思ったとき、勝手にドアが開いた。
自動的に開くわけもなく、それは開けられたのだ。
驚かずとも至極自然な結果だ。しかしほのかは驚いた。
そしてドアを開けた人物の驚きは、ほのかより更に大きかった。
正面から向き合ったその人物、帰宅した当家の主人、夏は
固まって一ミリも動かずその場に凍りついたようだった。
釣られてほのかも数秒ぽかんとしたまま立ち竦んでいた。
その数秒、ほんの2、3秒後に同時に悲鳴が上がった。
大きく派手なドアの閉じられる音もした。



数分間谷本家のバスルーム前と中を重苦しい沈黙が覆った。
慌てて服を着たほのかはそこを出られずにいったりきたりし、
へたり込んでいた夏の方も、自動再生する場面と闘っていた。
お互いにその場から動き出すまで、かなりの時間を要した。

そーっとドアを開けようと試みたのはほのかだ。
長いことぐるぐるしていたが、これ以上はそれも耐えられない。
しかしドアは動かない。おかしいなと力を入れてみるが開かないのだ。
夏がそこを塞いでいたからだが、ドアを開けようとしていると気づき、
やっとそこから体重を移動させると、急に軽くなったドアに鈍い音がした。
勢いでドアに額をぶつけたのだ。ほのかは「いたぁい!」と鼻を擦った。

「大丈夫か」と心配する声に顔を上げたが、夏はぱっと目を反らす。
ほのかも顔が熱い。目を反らしてくれて助かったと思ったのは初めてだ。
「あ、あのっ・・お風呂借りたの。雨に降られてさ!?」
「そっそうか。別に・・構わん。着替えあったんだな。」
「ウン。ありがと・・」
「い・いや・・」

ぎこちない会話が交わされる間、二人共互いの顔を見なかった。
不自然なほど顔を横に向けている夏をちらっと窺うとほのかは溜息交じりに

「・・・ごめんよ。・・見応えはなかっただろうけど・・」
「なっなにいって・・そういうモンダイじゃ・・その・・スマンかった・・な。」
「う〜・・がっかりした?」
「なんでそうなる!?」
「だってさぁ・・もうちょっと育ってから見せたかったんだもん。」
「そっそだっ・・!?アホなこと言ってんじゃねぇっ!」
「オヤツ食べる!もうこうなったらヤケ食いだよ。」
「はあ!?」
「太い脚とか控えめな胸とかは忘れるのだ!いいねっ!?」
「!?・・・オマエ・・アホすぎだろ・・」
「なんでアホだよ。」

反らしていた顔を思わずほのかに向けると、唇を尖らせて拗ねるほのか。
その顔は赤く茹で上がっていて、夏もまた再び顔、いや体全部を熱くした。
すぐに視線を下へとずらし、「アホだろ」と繰り返し小さく呟いた。

よく一緒に過ごしているが、こんなに顔を見ずに居るのは初めてだった。
会話も途切れがちだし、うっかり目が合うと大げさに反らしあってしまう。
微妙な雰囲気に包まれた谷本家のリビングにお茶を啜る音がやけに響いた。
そして何度目かの沈黙が広がる。静か過ぎる居間は居心地が悪かった。

”やだなぁ・・なんで黙ってんのかなぁ・・?!”

”お、落ち着かん。どうすりゃいいんだ・・!?”

ほのかは劣等感から見られたことを恥じていたのだが夏は全く違った。
口ぶりでそうとわかって驚いたが、それをどうしてやることもできない。
本人は不満らしい脚も胸も・・・夏からすれば眩しいばかりだったのだが
誉めるわけにも、悦ぶのも憚られる。リアクションの域を超えてしまった。
うっかりドアを開けたことを後悔した。何故気付かなかったのだろうと。
シャワーの音でも聞えていたら・・しかしそこは静かで気配を感じなかった。
ほのかが来ているとわかっていたが、居間にいるとどうして思い込んだのか。
そんなことを後悔したところでどうしようもないのに思わずにいられなかった。
夏に焼き付いてしまった光景はおそらく忘れることは不可能だとわかる。
今にも手を伸ばしてしまいそうになっている。手を触れるのも無理であろうに。
若い女子の体は奇跡と呼ぶに相応しい造形に思える。発育など問題にならない。
必死の思いをかき集め、夏はほのかに告げた。

「・・今日はもう帰れ。送って行く。」
「えっ!まだ早いじゃないか。なんにもしてないよ!?」
「何をするつもりだったかしらんが全部キャンセルだ。出直せ。」
「なんでだか聞いていい・・?」
「オレの都合だ。素直に聞いてくれ。」

夏なりに考えた末の結論だったが、ほのかは不服この上ない表情だった。
しかし動揺が治まらず、このままではどうしようもないと夏は感じている。

「・・・そんなに嫌だった?」
「そんなわけないだろ!?」
「だって・・」
「あのな、嫌がる奴のがおかしいぞ。」
「そうなの?!なんだ!じゃあどうしてずっとしかめっ面してるの?」
「どうしてって・・言われてもな;」
「いつものなっちに戻ってよ。」
「戻れそうにないから帰れと言ったんだ。」
「わかんないよ。なんで!?」
「困らせるな。」
「なんでだか教えてよ。」
「・・・・・・」

ほのかの顔を見て”お互い様だ”と夏は思う。膨れ面と顰め面。
貴重過ぎる時を知らずにいる少女にどうその価値を分かれと?自問する。
説明できるものだろうか。誰がその方法を知っているというのか。
この自分のことをわかっていない少女は誰にとっても価値はあろうが、
自分にとっては他と換えられないこと。それを伝えるのは骨が折れる。
夏は進退窮まった。眼の前で何らかの答えをほのかは期待して待っている。
迂闊なことを口に出来ない。なんとかこの局面を打破せねば先に進めない。

「・・・あんまり・・手が届かないと思いたくないんだよ。」
「え?・・よくわかんない。」
「オレだけが護りたいと思うんじゃない。オマエは誰からも愛される資格があるから。」
「ほのか誰にも護ってくれなくていい。なっちの傍がいいだけ。」
「あのなぁ!・・どんだけ嬉しがらせんだよ!?どう言えばいいんだ?!」
「なんかよくわかんないけど・・ほのかは誰からも愛されなくていいよ。」
「オレの方が訊きたいぜ。なんでだ?」
「なっちがいるから。」
「噛み合わんな。けど・・オレは要するに・・果報者ってことか。」
「あ、それそれ。きっとそうだよ。」

ほのかは美しく成長すると眼の前に突きつけられ、夏は目が眩んだのだ。
それを見ていていいのだと言われ、許され、愛していいとまで。変になりそうだ。
この福音に打ち震えない男がいるだろうか。夏は己を取り戻そうと首を振った。

「やっぱ・・かなわねぇなぁ・・」
「なんだね?勝負してたの?なんの?」
「ずっと続く勝負だ。負けたくない。」
「ずっとってどれくらい?」
「オマエの好きなだけ。いくらでも。」
「わお!じゃあ一生ね。」

あらん限り、自分の全てでもって望む。願わくばその一生をこの手で。
ようやく眩暈から立ち直ったように夏は微笑むと、オセロに誘った。
よくする簡単なゲームでもして心をもっと落ち着かせるため。
金に耀く遠い星のように手の届かないものじゃない。ほのかはたった一人。
たやすく手にしない。いつかその女神のような体ごと抱きしめる日を夢見て。







タイトルは神話の女神と金星、両方の意です。