Undine 


 それは人に在らざるものの呼び名だったと夏は思い出す。
ドイツ発祥の伝説から各地へ伝承。そして演劇へと発展した。
実際に演じたことはないが、一般的な知識として備えていた。


 夏の目の前に在るのはごくありふれたプール施設の一角だ。
華やかな水着で彩られたプールサイドは男の目を賑わしている。
しかしそれらから伝説を連想することはない。夏に限っていえば
彼女らは単なるオブジェに過ぎず、妖精の片鱗すら感じさせない。
にもかかわらず、水の精として代表される”ウンディーネ”を
思い起こした原因はやはり水辺に佇む一人の少女だったのだ。


 一泳ぎした後満足そうに周辺を眺めながら休んでいるほのかは
申し分なく健康な身体で、伸びやかな開放感と共に存在していた。
水滴が宝石を散りばめたように瞬いていて滑らかな肌を滑っている。
装飾ない学用水着であるのに、ひらひらしたものより大人びて見えた。
小柄だが運動に長けていると見れる締まった足首と腰。日に焼けた肌。
大腿部は筋肉と脂肪が混ざった女性特有のフォルムで弾力的である。
それらのどの辺りから妖精を連想させるのかと夏は自問してみた。
どこにでもいると思える中学生の少女。しかしあっけなく納得した。

 未成熟と成熟の境目 中性的とも云える独特の一時期

 そんな年頃の持つ通過点に位置する頃はとても短く貴重である。
元は魂のみで性を持たない、人に在らざる妖精に通じるのはそこだ。
ほんの束の間の瑞々しい乙女に、周囲は妖しい魅力を見て評したのが
伝説の起源ではと疑ってみる夏だった。どうやら少し調子がおかしい。
莫迦なことで頭を呆けさせていると自覚し、首を左右に振ってみた。

 「なっちー!泳がないの〜!?」

 顔を声の主に向けると、ほのかは夏の方へ向かってきていた。
軽やかな四肢はしっかりしていてどちらかというと若々しい動物だ。
一瞬の幻を見た夏の表情はほのかにどう映ったのだろう。不可思議な顔で
ほのかが小首を傾げると、跳ねっ毛に付いていた水滴がぽとりと落ちた。

 「俺はいい。」
 「さっきのひとたちはどっか行っちゃったからいいんじゃない?」

 プールに到着した途端、夏は女子高生らしきグループに囲まれた。
一緒に泳ごうと誘う、簡単にいえばナンパである。連れがいるからと
断るもその連れが中学生で夏はその引率だと見て取ると引き下がらない。
夏は泳がないと言ってもならば一緒にお茶しようと言って困らせてくる。
ほのかはそんな彼女らと夏を見捨ててとっとと泳ぎに行ってしまった。
それに慌てて彼女たちの猛攻をかわし追いかけるも、ほのかは進軍をやめずに
園の端にあるコースを設置されたプールに飛び込み、一人泳ぎ始めたのだった。
力泳っぷりを眺めていること数十分、ほのかは上がって休憩するべくサイドに
腰を掛け一息吐いた。その光景を見て夏は先の水の精なぞを回顧したのだ。


 「しつこい子たちだったけどどうやって逃げてきたの?」
 「思い返すのも面倒だ。それよりお前は誰かに声かけられたり・・」
 「ないない。声なんかかからないよ!なっち見てたんじゃないの?」
 「お前も気を付けろってんだよ。」
 「そんときはなっちがいるじゃないか。」

 ほのかは兄の代理の保護者である夏にへらへらと笑って答える。
休みとはいえ夏も暇ではないのだが、兄にふられたと泣きつかれて折れた。
いくらしてやっても兄の代行者という立場に過ぎないという己が腹立たしい。
ましてやその兄は武道を通じては夏の好敵手でもある。苦々しさは倍増する。
学校では同級でもある夏は内緒で兄の兼一を一発殴る算段を既に固めていた。

 「一緒に泳ごうよ、なっち。競争しよ!」
 「お前と?・・・クロールでかよ。」
 「ほのかって意外にやるんだじょ?」
 「まぁな・・見てりゃ大体わかる。」
 「えらそうじゃのう、ちみは。ちっとばかし”できる”からってさ。」
 「フン・・」

 勝負にならないと難色を示した夏もほのかに引っ張られコースに並んだ。
結局上手に手を抜いて競泳コースを2往復ほど付き合ってやることにした。
横目で見てもほのかは確かに泳ぎが得意らしく、スイスイ労なく進んでいる。
負けず嫌いな瞳は夏に対抗して燃えていたが、結果は途中から大差となった。

 「クヤシイ〜!ちっとも真剣になってない人に負けた!」
 「思った以上にやるじゃねえか。少し本気も入ったぜ。」
 「あんま嬉しくないほめ方・・はぁ・・疲れたじょ〜!」

 ほのかはいきなり全身の力を抜くと水の上に仰向けにぷかり浮かんだ。
沈みはしないが、ふわふわと髪が水面に広がる様に夏はふと不安を覚えた。
ほのかは目を閉じて動かないのでまるで水に溶けていくように思えたのだ。
夏はその腕を無意識に掴んでいた。驚いたほのかがぱっと大きな眼を開く。
気付いて掴んでいた腕を放したが、ほのかは不思議そうにそんな夏を見た。

 「なぁに?」
 「いやその・・休憩するんなら上がれよ。」
 「もうちょっと泳がない?ここは空いてるし。」

 複数のプールのある園内で、そこはコースが設えてある上級者向けだ。
ほのかと夏以外にも数名いるが、皆競泳用の水着着用の練習中といった風。
なのでナンパ目的の女子は敷居が高くて近づいてこれない雰囲気なのだ。

 「此処っていいでしょ?もくもくと泳ぐには最適さ。」
 「お前がこれほど泳ぎが得意だとは思わなかったな。」
 「へへっほのか泳ぐの大好き。」
 「フォームもちゃんとしてるな。」
 「習ったことはないんだけどね。」
 「習う必要はない。競技者になる気がないならな。」
 「うん、好きに泳ぎたいだけさ。」

 そう言うとほのかは再び水の中へと溶けるように滑り込んでいった。
今度は平泳ぎでのんびりと前を目指して泳いでいく。夏も後を追いかけた。
まるで水の中が住処だとでもいうように、のほほんと泳ぐほのかの横顔を
夏が窺いながら通り過ぎる。一瞬目が合い、ほのかがにまっと笑いかけた。
なんとなく気恥ずかしくなって視線を解くと、夏は前に向かってクロールした。
突然速度を増して前進し始めた夏にほのかが慌ててクロールに切り替えて追う。


 ウンディーネは・・男と結ばれて陸に上がったが・・結局・・・

 伝説も芝居も悲劇に終わる。男が浮気して殺され、妖精も水に還るのだ。
面白くもなんともない話だ。それでも語り継がれる伝説たち。それらには
人間が切っても切れない業が隠されているからなのだろうか。夏は思う、
美しい妖精を我が物にしようとした男と、男を愛して還俗した魂もどちらも
愚かだ。だが・・憎めないと。お互いに求めるものを取り違ったんだろう。

 「待ってよう〜!なっちー!!」

 呼ばれて振り返るとほのかが突っ込んできた。急いだせいで息を乱して。
抱きとめると首に巻きついて「つかまえた!」と無邪気に笑顔を煌かせた。
目を眇める夏はほのかを引き離すのを躊躇った。水の中の身体は互いに温かい。
重なって落ち着かない気持ちもするのに、心地良さにずっと重なっていたかった。

 「わ、あったかいね!?」
 「ああ・・」

 ほのかも同じことを戸惑いなく口にした。笑顔が変わらず眩しい。
夏の顔を見てほのかがまた小首を傾げた。「どうしたの?眩しい?」
 
 「・・ちょっとな。」
 「じゃあかくしてあげる!」
 「へ?!」

 ほのかのしがみついていた両腕が離れると夏の両目を塞いだ。そして
夏の顔を圧して乗り上げる。つまり夏はほのかに頭から沈められたのだ。
もちろんふざけてのことで、夏を押し殺そうとしたわけではないのだが
一瞬、暗くなった視界の中で夏は死を夢見た。ほのかによって引かれる幕。
死ぬならそんな死に方もいいという幻想だ。しかし自ら瞬く間に消し去った。

ほのかの胴を掴んで抱き上げた夏はあっという間に水上へ出た。夢はお終いだ。
担ぎ上げられ、はしゃぎ声をあげるほのかを伴ってプールから上がっていった。
そのままプールサイドに下ろさず、夏はほのかを抱えたまま歩き出した。

 「人魚を一匹とらえたぜ。」
 「え〜?!なんて言ったの〜?!」

 頭を振って耳に溜まった水を切っているほのかに夏の声は届かなかった。
水滴が夏に降りかかり、ほのかのシャワーはキラキラ輝いて太陽を反射した。
起き上がって夏の頭を抱えたほのかは抱き上げている夏の顔を覗き込むと
いつもの無表情でむすっとした様相に少しだけ目を丸くしていた。

 「人前でいちゃいちゃしたらダメじゃなかったの?」
 「誰がそんなことしてんだ。捕まえて帰るとこだ。」
 「えっ帰っちゃうの?まぁいいか、お腹空いたし。」
 「人の耳元で腹を鳴らすんじゃねえ!」
 「鳴っちゃたんだもん!カンベンしてよう〜!」

 捕獲した貴重な生物の腹を満たすべく、夏はあれこれ算段を始めた。
メインの食事にその後はデザートも必要だろう。そして腹を満たしたら
おそらく眠ってしまうのでその間に用を済ましてしまおう、などなどの。

 それは特別な日ではなく、ありふれた夏とほのかの一日に違いなかった。
 貴いものはこのありふれた一日に詰まっていることを夏はもう知っている。








スク水萌えしてる・・て書くと途端に俗っぽいです;なつくん・・!