そこにあるしあわせ 


 背の低いほのかをどうしたって見下ろすことが多い。
なので一番良く見ているのは頭髪のつむじ辺りになる。
今日は少しハネが酷いな、朝撫で付ける時間がなかったか
ということも良く承知している。本人以上かもしれない。

「ねぇねぇ!」

 しかしいつもつむじ周辺を見ているというわけでもない。
ほのかは怒ったり笑ったり悲しんだ顔を惜しげなく夏に向ける。
瞬間に変化していることもままあり、目を瞠ったり細めたり忙しい。
年頃の娘というものはそうでなくとも毎日少しずつ変化を遂げる。
説明しがたい想いに囚われることもある。幾たりかの痛みと共に。

 そうして今日という日は二度とないのだと思い知らされる。
ほのかは日毎成長して、いつか手の届かない場所へ去ってしまう。
これほど近くにいて存在を主張していてもそれは確実な事なのだ。
手を伸ばして触れてみたところで、変えようのない事実と認めると
夏はなんともいえない感情が沸き起こるのを抑えきれず、持て余してもいた。
どうすればいいか考えてみても碌な結果が得られないことも承知だった。

「なっちってば、聞いてる?!」
「・・・明後日は用がある。5日後にしろ。」
「そうなの?5日っていうと〜・・ほのかがダメじゃん!」

 毎日会えなくたってそれはそれで止むを得ないことだろう。
ほのかは唇を尖らせて不平を述べるが、実は夏とてそうなのだ。
ほんの僅か離れていてもほのかはきっと変わってしまっている。
夏よりもっと気掛かりな”友人”を発見しているかもしれない。
もう二度と・・今のように不平すら抱かなくなるやもしれず、それは
嬉しいはずもないことなのだが致し方ないと納得する術しかない。

「なっち・・浮気してないよね?」
「浮気ね・・」
「近頃冷たい。まさかと心配になるでしょーが。」
「・・・・(俺の台詞だぜ)」
「ホントに違うんだね?!ほのか信じてるよ!?」
「好きにすればいいだろ。」

 浮気という概念はほのかにとって友人間でも通用するものらしい。
『ほのかルール』なので最早反論する気力もない。なのでスルーだ。
深い意味などなしにありったけの好意を夏に捧げるほのかは残酷だ。
期待と不安を煽り、可愛い計算でない行動で翻弄し続けながらも
ほのかは相変わらず兄が一番で、夏はその随分と下方に位置する。
ブラコンなことを悪いとは思わない。ただ口惜しいだけのことで。

 ちらと窺うとほのかは前を向いていて横顔が髪の隙間から見える。
そこに不満は見受けられない。もう納得して満足しているからだろう。
切り替えの早いことだ。そもそもそれほど重要でもない事柄なんだろうと
我ながら卑小な感想を浮かべたが直ぐに飲み込んだ。夏は感情を出さない。
幼い頃からずっとそうだった。多少改善されたとするならほのかが切欠だ。
ほのかが案内人で今では周辺の反応から判断すると、やはり変わったのだ。

 なんでお前なんだろうな・・しかしお前でなければとも思う

 ふと夏の片方の袖が引っ張られた。そこに視線をやるとほのかと目が合う。
引き結ばれた口から、何かの決意が見えていた。二人して歩道に立ち止まった。

「どうした?」
「・・・・・」

 ほのかは行動を起こすのに珍しく躊躇し、夏は流れで待ち構えた。
何がしたいのか見定めるためと、正面から顔を見つめる機会でもあって。
普段夏から顔を合わせることはない。何故かというと気が咎めるからだ。
吸い込まれそうな大きな瞳や柔らかそうな肌をした頬など、それらを
真正面で捉えると居心地が悪くなる。絶対に侵してはならない領域なのに
無視を決めて踏み込みたくなるのだ。とっととモノにしてしまえと己がせかす。
実は侵してはならないとして壁を拵えているのも夏自身に他ならなかった。
その裏にはろくでもない理由ばかりがぎっしりと詰まっていて悲しくなる。
そして今に限らず、ほのかは何度も繰り返し夏を験しては暴こうとするのだ。

 見たところほのかは具合が悪いのではなさそうだった。ただ頬が硬い。
緊張しているらしくやや紅潮している。それに発汗もしているようだ。
我侭なら好きなだけ押し付けるくせに緊張するとなると・・夏は予想した。
ほのかが求めてくるようになったそれ。その要求は喜ばしくも怖ろしかった。
叶えられるものなら適えてやりたいが、壁は強固に立ち塞がっている。

 口は閉ざされたまま開く気配がなく、結ばれたまま顎が突き出された。
上向いた顔は先ほどより更に赤みを増していて目を引く。そして瞼が下ろされた。
夏は思案した。こんな誘惑を仕掛けるようになったのは自然なことであるのかを。
ほのかの片手はずっと夏の袖を掴んだままで、そこから微かに震えが伝わってくる。 
必死だなと思うと可愛くて、普段隠している邪な欲望がもそりと顔を覗かせた。
最初は手刀でもって軽く打って黙らせた。馬鹿と罵ったのは己に対してだった。
葛藤などする以前に留めた。好奇心なのか、それとも確かな願いなのか知りたい。
ほのかは確かに成長しているが兄が一番なのは変わりないはずだ。ということは
これはどういう訳でなされている行動だろう。からかうにしては真剣に感じられる。
兄への思慕から脱したいのか、それとも単純至極に・・・夏を求めているのか。

 そうではないといつも首を横に振ってしまう。そんな都合の良い答えはない。
ほのかから求めてくれるなぞ、己の欲望を満たそうと生んだ幻と断じてしまうのだ。

 一方長い沈黙に耐えかねていたほのかの瞼が痙攣し始めた。時間がない。
このまま吸い寄せられるように唇を重ねてしまうのはまずい。良くはない。
それくらいは分かる。それなのにそれくらいいいじゃないかと悪魔が囁く。
ほのかはそれくらいで穢れたりしない。魂は綺麗なまま傷付いたりしない。
そんな言い訳すら浮かぶ。人目は生憎と云うべきか幸いか気配すらなかった。
誘惑と格闘しつつ数センチ、否数ミリまで近づいたとき、とうとう瞼が開いた。
あまりにも間近で互いに目が丸くなるのを見た。ほのかは目の前で飛び上がった。

「!!??☆$◇##*っ!?」

とんでもないスピードで意味不明な音声と共に後ずさった。仕掛けておきながら。
取り残された夏の間抜けな手と体勢が物悲しい沈黙を演出した。またも未遂だった。
ゆっくりと姿勢を戻し、真っ赤になったほのかの縮こまった姿を見ると一息吐いた。
惜しかったなと正直に思った。しかしもう二度と前へと時間は戻せない。それでも
結果に満足していることに気付いている。夏はやるせない想いでほのかを見つめた。
夏の落胆は顔に表れていなかったので、ほのかには伝わっていないのだろうが。

「ごっ・・ごめんっ・・・その・・たっ耐え切れなくなってだね;」
「ああ?あやまることでもねえだろ。それに・・おんなじことだ。」
「おんなじ?なにが・・?」
「俺も・・いや別にそれはいい。」
「いくないよ!えっとなっちもたっ耐え切れなく・・なったの?!」
「・・・」
「なんで?どうして我慢するの?途中でやめておいてなんだけど。」
「俺とお前は”トモダチ”じゃなかったのか?」
「それはそうだけど・・」
「俺は最初からトモダチだと思ってねえけど。」
「えっ!?そう・・かあ・・」
「そんなことよりお前は俺なんぞ・・兄貴の代役だったんじゃねえのか。」
「まさか。違うよ!」
「ウソ吐け」
「ほんとだもん!お兄ちゃんが一番すきなのはホントだけどさ・・」
「そうさ、俺は身代わりは御免だと思ってた。」
「ほのかが身代わりなんだって言うひともいたけどな。」
「そんなのやっかみだ。」
「はは・・そうでもほのかはすきだから・・あきらめたくなかった。」
「ウソを吐くなと言ってる。お前は俺を友達だとずっと思ってたんだ!」
「ウソじゃないもん!友達だけどすきになったんだよ、おかしい!?」
「・・・・」
「何も間違ってないよ!友達だってお兄ちゃんだってなっちだってすき。」
「俺をどうしたいんだ。お前のしたいことってなんなんだよ。」
「なっちはなっちのまんまでいてよ。ほのかは傍にいたいだけ。」
「今とどう違うんだ。」
「なっちは・・いつだってどこかへ行っちゃいそうで怖いんだ。」
「それは・・」
「傍にいたい。ずっとずっと。いつまでって決めないでほしい。」
「いつかおいてかれるかとは思ってた。それは俺の方だ。」
「ほのかに!?どうしてさあ!?」

 ほのかが勢い飛びついてきたので夏は抱えるようにして受け止めた。
きゅうと抱きしめられて甘い痛みが胸を突く。やんわりと抱き返してみる。
すると予想以上に柔らかな体が己の腕に包まれている歓びに我を忘れた。
思わず強く抱いたせいでほのかが悲鳴を漏らした。慌ててゆるめてやった。

「こんがらがってわけわかんない。なっち、よーするにすきでいて!」
「お前のこと嫌う奴なんていねえ」

 真面目過ぎる言葉にほのかが目をくりくりとさせて驚いた。
緊張が解けたのか笑い出したほのかに多少戸惑いを見せる夏だが
笑っている顔が一番いいとも思う。確かにほのかは世界一可愛い。

「どうして伝わらないんかな!すきだからいっしょにいてってば。」
「そりゃ・・だがいつまでもってわけにいかねえ。そうだろう?!」
「だからなんでそう思うの?区切る意味がないよ、どっちもすきなのに。」
「俺は・・お前がすきだかどうからわからない。ほしいとは思ってるが。」
「はいい?!もーっちみってやつはっ!」
「目の前にあるんで・・いいなと思ってた。そんなにおかしいことか?!」

 夏が不思議そうに首を傾げるのでほのかはまた笑った。声を立てて。
馬鹿にされたようでもあったが、幸せそうな様子を見て夏は黙り込んだ。

 やっぱりしあわせはほのかそのものだ・・まちがってないぞ
 だがそれは俺のものにしていいなんて・・誰にも・・・・あ・・れ?

「おばか。すきだって気付かないなんてさ!まあいいよ、ゆるしてあげる。」
「俺の傍にずっといたら・・幸せが壊れちまいそうで・・怖いんだよ。」
「わかったわかった。怖くないって言ってあげる。ずっと、ずーっとね。」
「怖くないのか?幸せを壊すと言われてんのに・・」
「壊れたりしないもん。なっちのカン違いさ。幸せは感じるものさ。」
「そりゃ・・いや違うぞ。幸せってのは・・・ほのか、お前のことで」
「そんなに心配ならほのかが持っててあげる。だからほのかごと大事にして。」

 夏は納得できないのか眉間に皺を寄せた。ほのかは少し呆れた様子で
あからさまな溜息を吐いた後、まあいいから幸せをかみしめようよと呟いた。

 ぼんやりした頭でほのかを抱きしめた。確かに今ここに幸せがある。
求めてやまなかった幸せを手にしてしまっている。悩みはどうなったのだ。
跡形はあるのだが、夏はそれらがうっすらと色を失っていくような気がした。
もしかするとあたりまえすぎて見えていなかったのだろうか。幸せの在処に。

ほのかがひとしきり笑った後で夏に向かってもう一度顔を向けて目を閉じた。
触れていいかどうか生まれて初めて悩まなかった。夏はほのかの願いを叶える。
それが望みだったのだから躊躇する必要はなかったのだ。ただそれだけのこと。

夏はその日、幸せが甘くて蕩けるものだということも知った。







片思い風味とは違ったぜ。甘すぎたくらいだぜい!^^