スローモーション  


 
この日もほのかは谷本夏の屋敷に遊びに来ていた。
例によってほのかはオセロ勝負をして勝利を収めた。 
夏もまた、負けて仏頂面をしているのも普段通りだった。
しかし変わりないようでも時間は未来へと向かっている。
日々は似通っていても異なる一日の集まりなのだ。
知らずに育っていた想いでもいつかは芽生え始める。

ほのかは時々夏に子猫のようにじゃれつくときがある。
うんざりした様子でそれを流す夏と信頼しきったほのかの笑顔。
昨日まで微笑ましく見える兄、妹のような関係。
お互いにそんな位置で居るのに慣れてもいた。
だからどちらも意識してそうしたわけではなかった。 
ほのかはふと見上げた夏の瞳をいつもより少し長く見つめただけで、
夏は昨日まで抓ったりしていた頬をほんの少しなぞっただけのことだった。
全く無意識の行動であったのだと後になって気付く。
時間が随分と緩く流れていくような感覚が二人を支配した。
突然に、何の前触れもなく互いの目を覗き込んでしまったのだ。
”なっつんの目ってきれいだな・・・”そんなことをぼんやりと思って。
”相変わらず大きな目だな・・”そんな風に見惚れてただ引き込まれて。
二人の距離も時間と共にとてもゆっくりと近づいていった。
息がかかるほどに近づいてしまっているのにまだ自覚しない。
我に返ったのはどちらもほとんど同時だった。
身体を回る血流が嵩を増したかのように紅潮する互いの顔。
ほのかは腕に絡めていた手が急に気になり、そっと外し、
夏も知らずに引き寄せた腕の力を抜いて離した。
「な、なんか今日暑いね!」
「・・そうだな。」
動揺を誤魔化そうとして二人は違う方向へと首を回らせる。
どちらも浮き上がった気持ちが落ち着くのを待とうとした。
だが、どうにも治まりがつかずにまた黙り込んでしまう。
何かの衝動を抑え込もうとしている自分に夏はこのとき気付いた。
恥ずかしそうに俯くほのかの瞳を自分に向けたいと強く思う。 
思考が結論を出さぬまま、手は伸ばされてしまった。
いきなり自分の顎を持ち上げられて驚くほのかに思いも寄らない声が出た。
「じっとしてろ。」
夏が口調さえもいつもと違う気がしてほのかは身体が緊張するのを感じた。
「な・何?」
出てきた声は上ずっていて、頼りなく空気に溶ける。
ゆっくりと夏の顔が近づいて来るのをただ呆然と待つほのか。
こんな目をした夏を見たことがあっただろうかと思う。 
目を反らすことができず、かといって閉じてしまうのも怖かった。
夏の顔はほとんど距離の無い間近に迫ってきている。 
「・・・なっつん!」 
やっとの思いで呟かれた呼びかけに返事は返ってこない。
胸が騒いで涙が出そうになり、ほのかは途方にくれた。 
空いた手で目の前の壁のように逞しい胸を叩こうとするも力が入らない。
肩が震えているのがわかっても抑えられず、祈るような思いで夏を見た。
その間に浮かんできた涙を見てようやく夏も思いとどまったのか、
目を閉じてふうっと長い溜息を一つ吐くと、いつもの夏の顔に戻った。
「・・なんて顔してんだ、馬鹿。」
勤めて軽くそう言うと、ほのかの額を指先でぴんと弾いた。 
「イタっ!」
額を押さえ、ほのかは安心したのか盛大な息を吐く。
「ふわっ、息するの忘れてた・・」
「ばーか」 
「だって!・・」
文句が口から飛び出すのかと身構えた夏はぎょっとした。 
ほのかは黙ったまま、ぽろぽろと大粒の涙を溢れさせていた。 
「お・おい、俺は何も・・」 
「うん・・・」 
小さな返事の後、ほのかは夏の胸を今度こそ叩き始めた。 
涙のせいで声は出ず、ただ悔し紛れに拳を振った。
されるがままにしていた夏だったが、そっとほのかの身体を緩く包んだ。
あまりに優しく包まれて、ほのかの全身は力が抜けてしまった。 
「ごめん・・・なっつん」
「何謝ってんだ。」 
「私、怖かったんじゃないんだ。」
「・・・」 
「どきどきして苦しくて・・泣くつもりなんて・・」 
「おまえが謝ることなんか何もない。・・悪かった。」 
「む、なっつんだって謝るな!」
「泣かせたからな。」
「いいの、これは!なっつん悪いことなんかしてないでしょ?!」 
「これからするかもしれないぞ?」 
「う・うん・・いい・よ・・」 
「いいのか?」          
「う、ん・・!?」 
頬の涙の跡に夏の唇が柔らかく押し当てられる。 
言葉を失い、目を丸くするほのかに苦笑する夏。
「大丈夫か?」
「っ!へ、平気だもん。」 
強がるほのかに夏は「いいんだな。」と念を押した。
こくりと首を縦に落としたものの、動悸が烈しくて困惑する。
やがて今度は反対の頬に熱い感触が走った。
軽く触れるだけだが、その後も繰り返し唇は押し当てられた。
頬だけでなく、額に、鼻に、口元に。
「な、なっつん。なっつんてば、ちょ、ちょっと待って!!」
「いいんだろ?」
「そ・・」
夏の腕に閉じ込められ、ほのかは身体の自由を奪われた。
囁かれる夏の声も腕も全てが熱くて溶かされそうだった。 
唇の触れる場所もその熱を帯びて、触れられる度に全身が粟立つ。
とうとう目を閉じてしまったのはそのときだった。
「!?」
ほのかは呼吸の仕方を忘れ、息を止めた。
身体中の何もかもが機能を停止したかのようだった。
手指が痺れて胸が焼けるように痛い。
解放されたときにむせてしまって涙が滲んだ。
「また息を止めてたのか?」
「う・うん・・」
「今度はちゃんと息しろよ?」
また夏の顔が近づくのをほのかはぼんやりと見つめる。
「なっつん・・・好き・」
一瞬夏の動きが止まった。
そして見たことも無い優しい笑顔が目に映った。 
「ねぇ、好き。なっつんが好きなの。」
スローモーションのようだとほのかは思う。
夏の綺麗な瞳と唇が耳元へと向かってくる様が。
目を離せないでいると耳元に「好きだ。」と確かに聞えた。
その囁きと同時に二人はまた目を閉じた。
ゆっくりと時間が流れていくのを感じる。
二人は今日がいつもと同じ一日ではなかったことを知った。
もう昨日には戻れないのだと。