さくらんぼ 


 ぷっくりと赤くつややかな実を前にほのかは溜息を落とした。
それらの桜桃は特に有名なブランドの品種で白浜家の食卓ではめったと
お目にかからない代物だった。ここはつくづく宝庫だとほのかは思う。
だが当主たる夏はその恩恵を感じていないかのように極めて冷静だった。

「ちょっとこの宝石を目にしてなぜに目が輝かないのかね、ちみは。」
「・・・毎年送られてくるんだ。お前ん家でも食うなら持ってけよ。」
「いいの!?ちみってほんに恵まれておるのう!ホントにもらちゃうよ!」
「食いきれないのは会社に配るしかないし好きにしろ。」

 ほのかの頬も桜の実のようにつやつやと輝いた。嬉しさに飛び上がる。
ほくほくと家に電話すると、母親から夏の耳元に感謝の言葉を流し込んだ。
御礼に夕食に招待され、恐縮しつつ夏はなんとか電話口から脱出に成功した。

「ふう・・俺に断りなく母親に連絡するなよ!」
「だって早い方がいいじゃん。お母さんも大感激だったでしょ!?」
「そんなにありがたいものなのか?これ・・・」
「えっもしかして食べたことないのかいっ!?」

 信じられないというリアクションに夏は少しだけ顔を顰めた。そして
大急ぎで食しなさいと台所へダッシュしたほのかについていき皿に盛った。

「はい、どーぞ!」

 相変わらずどっちが主人か分からないもてなしを受け、夏は眉を顰めた。
それでも期待に待ちきれんといった風情のほのかに覚悟を決めて口に含む。

「・・・うまいな。」
「そうでしょうとも!」
「なんでお前が胸を張る?」

 実際に手を腰に宛がって鼻を高げたほのかに呆れる夏だ。そんなことは
どうでもいいと跳ね除けると、自分も食べていいかと夏に懇願した。

「食えばいいだろ?妙な遠慮すんなよ。」
「・・い・っただっき・まああああす!」

 幸せそうなほのかを眺めるのは悪くない。夏は満足そうにその様子を見守り
以前食べたことがあったかどうか忘れるくらい久しぶりな果物に視線を落とす。
果物は単に面倒なのでほとんど自ら食う習慣がない夏だった。皮を剥いたり、
食べ頃がどうだとかも煩わしいという理由で果物を遠慮する男はわりと多い。
しかし人が剥いてくれたり、どうぞと目の前に差し出されて嫌がる男は少ない。
そんな事情は知らず、ほのかは単なる食わず嫌いと思ったようでにこにこしていた。

「ちみはたまに好き嫌いするようだけどこれでまた大人になったのう。」
「食ったことないとは言ってねえだろ。いつ食ったかを忘れただけだ。」
「贅沢な。食べずに人にあげてたんでしょ!?それは偉いけれどもさ。」
「お前は果物も好物だって理解したから次からお前に食わす。」
「ひゃああ!ホント?ちみってちみって、気前が良くていい男なのだ!」
「調子の良いやつめ」

「そうだ、なっちー!さくらんぼの茎結べるかい?お口の中でだじょ。」
「はあ?・・なんでそんな真似・・行儀の悪い。」
「ほのかできないんだじょ。ちみならできそうだから挑戦したまえよ。」
「人の話をまったく無視しやがって・・茎なんぞ結んでどうすんだよ!」

 結局ほのかの言いなりなことは彼なりに呑み込んで、茎結びとやらにトライする。
あっという間に舌に乗っかった物を見せられるとほのかは感激し、拍手喝采した。

「こんなことくらい誰だって出来る。お前の舌が短いかなんかだぜ。」
「なんかって失礼な。短いかな・・鼻の頭舐められないもんねえ・・」
「何でそうバカなことばっかしてんだよ・・」

 言われても気にせずほのかも挑戦を始めた。もごもごと口を動かしている。
ハムスターかリスを連想して夏はちょっと面白いなと口の端で笑いを堪えた。

「ダメだっ・・!ねえなっち、どうやるのか教えてよ。」
「教えろったって・・舌の先でとしか言いようがねえ。」
「やってみるんだけど舌がしびれちゃうだけだよ!」

 ほのかがべーっと舌を出して見せた。舌の上に茎が無残に乗っかっていた。

「そんなことができたからってどうってことないだろ。あきらめろ。」
「そうだね・・・舌痛いし。なっちができるならそれでよしとする。」
「・・なんで俺ができたらいいんだ?」
「むふふ・・キッスが上手なんだって、これが出来ると。」

 にかっと笑いながら告げるほのかの頬が赤い。美味そうと夏は見て感じた。
馬鹿なことばっかり覚えてくると言ってやろうかと思ったのだがやめておいた。
代わりにポンと頭のてっぺんに手刀を落として小さな悲鳴を上げさせてやる。

 愚かで可愛いほのかは文句を言うが、直ぐに忘れて次の実を口に運んでいた。
横目で見ながら夏は考える。ほのかが期待しているようにも思える言葉について。
キスが上手な夏なら自分は下手でもいいと、意識して言っているのかどうかを。

 どっちだとしても夏にはどうしようもなかった。今ここで口付けたとしたら
甘酸っぱい桜桃の味がするであろうことは確かだ。もちろんそうしないけれど。
キスがしたくないわけではない。だが夏はそれほどしたいと思ったこともなかった。

 ほのかはなにかしら特別で素敵なことだと女子にありがちに思い込んでいる。
現実を知らしめて怖がられたり嫌われたりしたくないと夏は考える。だからしない。
では夏にキスどころかどこまでも許してしまう女子で適当に満足するかというと
そのほうが余程非現実的だった。夏は自分でも変だと思うくらい女とのそういうことに
意識が向かないからだ。だが興味が全くないこともない。そこらへんがおかしい。
おかしいことにはとっくに気付いていて、その理由も心当たりがあり過ぎだった。

 ”このままほのかが馬鹿なままだったら・・いつかは俺のもんだってことだ”

 悪辣なことも考える。ほのかがいい、ほかは要らない。理由など簡単だった。
そんなことを考えているとは露知らず、ほのかは無駄でもあり有効でもある誘惑を
繰り返しているのだ。無意識であろうがなかろうが夏にとっては同じことなのだ。

 ”いつが食べごろかなんて・・面倒なことを考えさせやがって・・”

 普通の男なら、差し出されたら食うだろう。上げ膳というやつなら常なのだ。
食わずに舌なめずりしている夏は自分が狼だということも重々承知済みだった。

「なっちはもう食べないの?おいしいって言ったのに。」
「お前がうまそうに食ってるの見てたら結構腹は膨れたぜ。」

 夏の言葉の意味がわからないらしく、ほのかはぽかんとした。
しかしほのかは深く考えることはしないまま桜桃を口に含んで幸せそうだ。

「ほのかを見ていてお腹いっぱい・・」
「無理に頭を使うな。無駄だからな。」
「なぞなぞかい?見てるより実際食べたほうがいいと思うけどなあ?」
「ふん・・いい線いってるけどなあ。」
「悪い顔しちゃって。時々なっちって悪い顔するよね〜!」
「・・・怖いか?」
「ううん、怖くないよ。」
「・・じゃあまだまだ・・」
「まだ?なにが?」
「さあな」


 いつか本当にキスが上手いかどうかほのか自身が知ればいいと夏は思う。
技巧などは問題ではない。その頃ほのかは変わっているだろうか、それが重要だ。
今のまま夏のことを闇雲に信頼して好きでいてくれるかどうか、そうでなければ
ほのかは夏の本質の暗い部分に恐れをなして逃げ去っているはずだ。そうなったら
夏は自分が正気を保っているられるか不安だった。それだけは自信がないのだ。
暗い闇の底から這い上がってきて、これからほのかの住む場所まで上り詰めて、
一生傍にいられるだけの資格を手にする確率を思うと気が遠くなる。それほどに

 ”ずいぶん・・・まいっちまったもんだ・・・責任取ってもらいてえぞ”

 骨を抜かれた己を哂う。ほのかは実を結んでくれるといい。そのためならば
なんだってする。してしまうだろう。重苦しいまでの想いが夏には既にある。

 もう一房だけ口に入れて、茎を結んで見せるとほのかはまた嬉しそうに手を叩いた。

「わーわー!なっちってばほのかがしてほしいこと全部してくれるよね!すごいじょ!!」
「全部かどうかわからん。お前のしてほしいことってもこんなんばっかじゃねえか。」
「馬鹿にするでないよ、これだって嬉しいもん!楽しみだね、いつする?!」
「・・・は・?」
「キス。練習とかほかの人としちゃだめだよ!ほのかとしてね。」
「・・・・うん」
「おや、素直。」
「お前もするなよ、たとえ兄貴でも。」
「お兄ちゃん!?しないよう、なっち危ないなあ!」
「ああ、俺だったら妹が望んだらしたかもしれん。」
「ふ〜ん・・じゃあほのかもねだってみようかな。」
「それはやめろ。」
「楓ちゃんもそんなことお願いしないんじゃない?」
「・・・・・ああ」

 ほのかがおかしそうに腹を抱えた。なっちのシスコンなどとつぶやきながら。

「お前だってそうだろ、ブラコン!」
「でもちゃんとおにいちゃんじゃない人を好きになったもん。」
「俺だってそうだ。」

 ほのかと夏の目が合った。お互いにしっかりと視線を交わすとほのかから笑いが消えた。
夏は次の瞬間、自分の吐いた言葉に耳を疑う。今の今までそれはしないと誓っていたはずだ。

「ほのか。・・いまから試してみるか?」

 今度は夏の言っている意味がストレートに伝わった。ほのかはぽっと頬を染め、頷いた。
誘惑に負けるのは夏にとって大いに不名誉なことだ。それでも彼はそのときしたくなった。
初めてかもしれない、二人同時にそう思った瞬間がこのときだったのだ。ゆっくりと近づく
二人のぎこちない、躊躇うようなキスは、予想通り桜桃の香りと味が漂った。







なっちゃんが我慢できなくなる話が続きましたあ・・;