「ポケットの中」 


木枯らしという北からの突風に身を竦ませ、立ち止まる。
あんなに暑かった季節が嘘のように思える寒さだった。
大好きなその季節もいい加減長すぎるだなんて文句を言ったことを
後悔してしまうような凍りつくような風の冷たい日だった。
元々薄着な上に、急な天候の変化でいくら元気な風の子だとしても
思わず手をこすり合わせてしまうのも無理はないと思う。
自然と足取りも早めになって、目的地へと急いでしまう。

「う〜!なんてさむい日だ・・朝の方がマシだったよ。」

ついそんなグチを口にしつつ、ほのかは谷本邸へとやってきた。
ピンポンという耳慣れた呼び鈴の音までも耳に痛く響いてくる。
一刻も早く温かいこの屋敷の中へと入りたくて足踏みして待つ。
ところが一向に返事もなく、主人の姿も現われなかった。
昨日のことをほのかは思い出してみた。どこかへ出掛けると言っていたか?
しかしそんな会話は思い当らず、いつものようにまたね、と手を振った。
こんな急な留守の場合、古風にもこの屋敷の主人は手紙を残す。
生垣のある一部に細い手を伸ばして奥を探る。ところが何もない。

「あれっ!?おかしいなぁ?」また思わずほのかは呟いてしまった。
恨めしい。やっと温かい場所へとたどり着いたと思ったというのに。
ほのかは隠すこともなくそんな目で大きな先の屋敷の窓を見上げた。
こんなところでじっとしていても夕暮れで益々温度は下がるだろうと
ほのかは仕方なく元来た道をのろのろと歩き始めた。
住宅街を抜け大きな通りにやって来たとき、見知った姿を捉えた。
あっと小さな声を上げほのかは駆け出した。恨み言でも言ってやろうと。
目標の人物にこの仕打ちの見返りを要求しようとまでほのかは考えた。
ところが、どうも様子がおかしい。もしや具合でも悪いのだろうか?

「なっちー!」ほのかは寒さも文句も忘れて、その人物へと駆け寄った。
ほのかに気が付くと、なっちと呼ばれた男は「すまん・・急用でな。」
そう短く留守で行き違ったことを詫びた。その顔にはやはり疲労が見える。

「・・なっち、怪我でもした?お家帰って手当てしてあげる。」
「いや、今日はもう帰れ。オレはまだちょっと用が残ってる。」
「嘘吐いたってほのかにはわかるじょ!ねぇ、理由は訊かないから!」
「・・・・しょうがねぇ・・もうじき暗くなるしな・・・」
なっちこと夏は溜息とともにほのかの言葉を受け入れてくれたようだった。
帰れと言って素直に帰るほのかではないことと、夕暮れと寒さのせいだ。
夏はいつもほのかに優しい。薄着のほのかにおそらくは何か着せて、
すぐに暗くなるであろう帰り道を家まで無事に送ろうと思ったのだ。
たとえ自分の具合が良くなくても彼はそうするだろうとほのかは思う。
思いあがりではなく、夏はそうした男なのだとよく知っているから。
逆にこのまま帰った方が夏に心配をかけそうだとほのかは判断した。
彼の優しさが冷えた体に染みた。具合の悪さは思ったほどでもないのか
ほのかといる間に顔色は段々と良くなってきているようだった。

「いつもよりゆっくり歩いてたからおかしいなと思ったんだ。一人だったのに。」
「それで具合でも悪いかと・・・オマエ中々観察力あるな。」
「ちょっと顔色も良くなかったしね。今は普通に戻ってるけど。」
「心配するな。たいしたことない。」
「いやいや逆になっちのたいしたことないは信用できないじょ!」
「・・・オマエ帰るんならどうしてこの道にした?遠回りだろ。」
「カンが働いたのさ。もしかするとって・・会いたかったから。」

ほのかは拗ねたように唇を尖らせながらそう言い、夏は苦笑を漏らす。
そしてプイと横を向いていたほのかの片方の手を夏が突然握った。
ほのかが驚き夏の方を振り向く。その顔には信じられないといった表情。
手など繋ごうと言ってもめったにそうしてくれない夏だからだった。

「・・寒そうだからだ。」言い訳するように無愛想に夏は言った。
「ウン・・あったかい!」ほのかは微笑んで素直な感想を返す。

内心では”おかしいな!手を握られたくらいでこの動悸はなんだろう”と訝る。
しかし動揺するのも嫌がるのもいけないように思えたほのかは平静を装った。
気にしないようにしようと思うと余計に握られた手に意識が集中してしまう。
ほのかの焦りを他所に夏は握った手を自分の上着のポケットに突っ込んだ。

「わっ!さらにあったかいじょ!?」
「今日のオマエは薄着過ぎる。帰ったら暖まれ。上に羽織るものも貸すから。」

予想通りの台詞だった。なのでほのかは嬉しさが増して笑顔が零れた。
さっきまでは寒くて薄着だったことを反省していたが撤回することにした。
今日が寒いことも、それに合わない服装だったこともラッキーだったのだ。
でなければこんな風に手を握ってもらえたりはしなかっただろうと確信できる。

ほのかは歩きながらチラチラと夏の様子を窺った。いつも通りだなと感じて少し落胆する。
ほのかがそうしていることに気付いているだろうが、夏は無表情のまま何も言わない。
夏にしてみたら妹にするようなもので、特に感じることもないのだろうとほのかは思った。
というより今自分がこんなに焦ったりどきどきしていることが不思議でならなかった。
心当たりはある。しかしこんな風に簡単に自覚させられるものとは知らないほのかだった。

”なっちの手って大きいな・・それにあったかくって・・いい気持ち・・”

思ったままをよく言葉にするほのかだが、そのことは言えなかった。
照れてしまって顔を背けがちなせいで、夏の頬にも赤みが差していると気付かない。
一方ほのかの反応と自分の行動に途惑い、夏も似たような心境に陥っていた。
嬉しそうに、そして恥ずかしそうにそわそわして見えるほのかが可愛い。
どうして躊躇せずに握ってしまったかと問われれば単純に寒そうだったからなのだが
ほのかの反応に驚いたからと離すのも気が引ける。冷たい手を温める方が大事だと思った。

”コイツ何を照れてんだろうな・・・手を繋げといつも言ってくるくせして・・”

二人は黙っていた。ほのかのおしゃべりのないこんな状態は珍しい。
しかし沈黙に耐え切れなかったのはやはりほのかの方が先だった。

「なっちの手当てもするけどお茶も淹れてあげるからね!?」
「怪我なんてたいしたことない。オレが淹れるからオマエは待ってろ。」
「やっぱり怪我してたのか・・ウウン、たまにはほのかにさせてよ!?」
「かじかんで冷たいとうまく手が動かないだろ。」
「冷たくないよ。だって・・」

ほのかの言葉はそこで途切れた。”手を握ってもらっている”からだと言おうとしたのだ。
ところが夏の方を向いて目が合った途端にかっと全身が熱くなり、言葉を飲み込んでしまった。
夏にはほのかの言わんとしたことがすぐにわかった。思わず握る手の方向に視線が行った。
真っ赤になったほのかに自分もおかしな気分が込み上げる。握った手に力が入ってしまった。

「い・一緒に!一緒にしない!?」
「・・じゃあオマエは湯でも沸かせ。茶器はオレが用意するから。」
「そう、そうだよ。二人で準備すれば早いしね!?」
「何焦ってんだよ・・」
「なっちだって・・釣られて固まったでしょ!」
「そんなことない。」
「あるよ!見てたもん。」

頬を染めていては逆効果なのだが、ほのかは夏を睨みつけた。

「なんか・・ちっとも寒くなくなったね?」
「そう・・だな。」
「なっちが変だ。」
「オマエもだぞ!」
「そうかなぁ・・変?」
「オレも・・か。」
「ウン・・」
「そっか・・」

途切れがちな会話に二人して途惑う。歩調もかなり遅くなっているが二人共気付いていない。
意識されてしまって逆に離せなくなった互いの手はポケットの中でしっかりと重なっていた。

お互いの存在で一杯になっている夏とほのかに車のクラクションが大きく鳴り響いた。
驚いた拍子にほのかが夏にもたれるように体を預け、夏も通り過ぎる車から庇うように引き寄せた。
ほんの一瞬のことだが抱き合うような格好になって、はっと我に返り二人は離れた。
そのとき繋いでいた手も外れてしまい、夏とほのかは文字通り距離を置いて向き合った。
今度こそ困った。向き合ったまま言葉を探す。もう一度手を伸ばしていいのかどうか迷う。

「離れてると・・やっぱり寒いね。」

呟きは小さくて頼りなげだった。俯いたほのかを見つめて夏はショックを受けた。
ガキだと言って突っぱねていたほのかがまるで・・・女に見える。いや女にしか見えない。
しかもただの女ではなく、愛しくて大切だと夏の目前に突きつけられたような衝撃だった。

「寒いんなら・・ほら・・」

夏は片手をほのかに躊躇い勝ちに差し出した。ほのかは手を伸ばす前に夏の表情を窺う。
困っているか、照れているかと予想をしたが、裏切られてほのかの胸がどきりと高鳴る。
ほんの少しだが、夏は微笑んでいたからだ。思わず自分も口元が弛み、手をそこへと伸ばした。
ほのかの手は夏の手に掴って、またポケットの中へと仕舞い込まれた。決まりごとのように。
そうして再び歩き出した。風が冷たく吹き付けても火照った顔には心地良いと感じた。

「・・あったかい・・」
「・・・だな・・・」

二人で恋人同士のように寄り添って帰っている。夏にもほのかにもまさかの成り行きだ。
ほのかにも、夏にも相手に対する好意は隠していなかった。しかし今の気持ちはそれではなく
どうしても特別なものだと思わずにいられない。高鳴る鼓動も熱い頬も誤魔化し様がないのだ。

”どうしよう・・好きだってこと・・なっちにわかっちゃったかな・・?”
”どうすんだよ・・こんなじゃ・・もう・・ほのかにだってバレバレだろ!?”

夏の家に着くまでずっと二人は黙ったままだった。何を話せばいいのかわからなかった。
高い門の前で同時に見上げる空。鉛色で重く暗い。夏は握っていた手をようやく弛めて離す。
そして自宅の門扉を開けた。離れてしまった手がより一層門の冷たさを夏に伝えた。
ほのかも離れてしまったことに寂しさを感じていた。何も言わない夏の背中が遠い。
何事もなかったように夏が門をくぐり玄関の扉を開錠するのをほのかはぼんやり見ていた。

「どうした、なに突っ立ってんだ?」
「あ、ウン!お帰り、なっちー!」
「・・ただいま。」

短くて長い旅から戻った。ほのかはそんな風に感じて一つ溜息。
一つ、いや三つほど階段を飛ばして昇った。そんな感覚に似ていた。
けれど確かにさっきまでの途行きは兄と妹とは違っていたと思う。
手を洗ってしまうのがもったいないなとほのかは洗面所で掌を見つめた。

「ポケットの中に・・置いてきちゃったかな?」

ほのかが手を洗って台所にやってくると夏は昨日に逆戻りしたように普段通りだった。
ほのかの家へと送るときも夏は手を握ってはくれなかった。借りた上着は大きい。
小柄なほのかが着ると手は袖に隠れてしまい、手袋をしなくても温かだった。
寂しさを紛らわすようにおしゃべりに気合を入れて歩いた。泣きそうになるのを堪えて。
家に着くとほのかはがっかりしたような顔をした。それを見ていた夏が最後に手を出せと言う。

「手?ウン、はい。」
「なんだ、結構冷たいな。」
「そりゃそうだよ。・・手繋いでなかったもん・・」
「そんな顔するんなら、遠慮しないでそう言えよ。」
「・・・もしかしたらなっちも手繋ぎたかった!?」

夏は返事をせずにほのかの手を握った。おどけたように言ったほのかが真顔になる。
ほのかは夏の顔を見るのが怖い気がした。しかしそうっと確かめるように顔を上げると
夏は目を細め、ほのかには図りかねる表情をしていた。

「なっち・・?」
「すまん。オレの手も冷たかったのにな・・」
「・・じゃあ今度はほのかから繋いでって言うよ!」
「言わなくていい。いつでも・・」

そこまで言って夏は口ごもった。

「わかった。明日から遠慮しない。あのね、ほのか嬉しかったんだ・・」
「あぁ・・あんまりオマエが嬉しそうな顔するから・・・困ったんだ。」
「困ってたの?そうかぁ・・」
「・・じゃあ、またな。」
「ウン、また明日ね!?」

ほのかは離された手を握り締め、もう片方の手を帰っていく夏に向かって大きく振った。
ポケットの中に置いてきてよかった、そう思いながら。夏も帰り道ポケットに手を入れたら
そこにもほのかの”嬉しい”が残っているはずだ。「気がついてね?」とこっそり呟いた。
夏もまた、気付いたくせにアイツ・・と心の中で呟いた。ポケットの中で自分の手を握り締める。
そしてもう離せなくなっている存在を掌の熱で確かめた。大人びて見えたほのかから受け取った
この想いがこんなにも温かい。もうアイツに隠してはおけないのだと夏は全身で感じていた。







寒い季節に気付かされるお話。