personal-space  


ふんわりと鼻腔をくすぐった香りがいつもと違う。
猫のように擦り寄った柔らかな髪に視線を向けると、
夏よりも大分背の低いほのかの旋毛が丸見えだった。
注視されたことに気付き、彼をふと見上げた顔は
好奇心の詰った子供のあどけなさで思わず目を細める。
己の懐深くへと侵入させていることを夏は再確認する。

男女では他者の侵入を許す範囲に性差が存在するそうだ。
それを差し引いてもほのかは図々しく夏の領域を侵した。
我が物顔で夏所有の空間で振る舞い、遠慮なくスキンシップする。
窘めても心のどこかでそのことに満足感を得ている夏。
夏がほのかにとって特に警戒すべき対象でないとわかっていても
それを理不尽と感じてしまう。他のどの場所でもおなじように
甘えたり我侭を言っているかと思うと怒りさえ覚えてしまう。
そんな身勝手な嫉妬心や独占欲はとどまる気配を見せない。

ほのかの側からすると、夏は我侭を叶えてくれる都合の良い人間、
くらいにしかランク付けされてはいない。それを夏は承知している。
それによってどうしようもなくやるせない気分にさせられてもいる。
これ以上ほのかにしてやる義理も見返りも何にもありはしないのだ。
けれど逆らわず、傷つけぬ配慮をし、約束を違えない努力も怠らない。
滑稽なほどあからさまに”惚れた弱味”を晒していると言えた。

ほのかの成長度合いにじりじりとすることは日に日に増えた。
そうしつつも、花が育ち綻んでいくのを見る楽しみのように
毎日僅かずつ変化してゆくほのかに夏の目や心は囚われた。
警戒区域であくびする捕食対象のほのかはいつも無防備だ。
さりげなくほのめかしても効き目はなく、寧ろエスカレートして翻弄する。
夏には確実に限界が近付いてきていた。その足音さえ耳に響くようだった。


「お前シャンプー変えた?」
「おっ鋭い。そうなのだ。どお?いい感じかい!?」
「勝手に変えるなよ。今度のは匂いきつくないか?」
「なんでちみに許可を得ねばならんのだね。・・そんなにキツイ?」
「・・・きついってほどじゃないかもしれんが・・好きじゃねぇ。」
「前の方が良かったのか。ふ〜む、了解。これお母さんのなんだ。」
「・・・」
「買い忘れたから借りたの。だから明日は元通りだから安心して。」
「別に不安になったわけじゃねぇし。どっちでもいい。」
「だったらそんなことわざわざ言うことないじゃんか。」
「む・・前のが・・気に入ってるんだよ。」
「そうか。それは素直でよろしい。」

夏は心底憎々しい目付きでほのかを睨んだがあっさりかわされた。
これが飼い猫ならば躾がなってないとお仕置きの一つもしたいところだ。
穏やかでない心中を少しでも晴らそうと、ほのかの頬を抓りあげてみる。
当然だが反撃が来る。ほのかは怒って夏の腕に噛み付いた。

「好きなだけ噛んどけ。痛くも痒くもねぇしな。」
「えー!?ちぇっ・・なっちってヘンタイさん?」
「はぁ!?」
「ほのかが噛んでもちっともイヤじゃないの?!」
「そんくらいでダメージは負わねぇってことだ。」
「ほのかの必殺ワザだったのになっちにはきかないのか・・」
「フン、生憎猫に舐められたくらいにしか思えないぜ。」
「むむぅ・・生意気なのだ。なっちめぇ〜!」

猫のように髪が逆立って見えるほのかは目付きも悪く夏に毒づく。
そして何を思ったのか夏に抱きつくとぐいぐいと頭を押し付けた。

「何してんだ!?やめろ!」
「嫌いな匂いを染み付けてやるのだ。じっとしてろー!」
「アホか。おいっ・・この」

ほのかのとても攻撃と呼べるものではない攻撃に夏は眉根を寄せる。
それが夏に対しては効果があると、本能的に嗅ぎ付けているようだ。
口惜しさでいつもどうしてやろうか迷う。思い知らせてやる術を探す。
学業における難問においても、実戦での難局に陥った場面であっても
冷静に判断を下す自信が夏にはあったが、ほのかの前ではうまくいかない。
探っても見つからず、見つけたいと思うことすら放棄している自分。
そもそも彼は最初に砦の中にほのかを招き入れてしまっているのだ。
それも自ら、抱きかかえて懐へと。そこで既に勝負は着いている。

「ふぎゃっ!?」

悲鳴があがる。ほのかはいきなり夏の腕の中に閉じ込められた。

「〜〜!!?・・う・うごけないじょ〜〜っ!」

その声にざまみろ、と言いたくなる夏だが言わずに腕に力を込める。
今度は悲鳴すら上げられず、大人しくなるほのかに満足感を覚える。
抱いてしまったらお終いだと頭の隅っこで彼に勧告が言い渡された。
そうすることで後退は不能となる。知りたくもないと言っていたくせに
嘘だったことが露呈した。もうこれは誤魔化しようのないことなのだと。

しでかしたことは消せない。その重さに圧されるように更に抱き締めた。
苦しさでほのかの喉が鳴き、しがみつく手指が震えているのに気付いても
止めなかった。もう二度と出来なくなることに怯える故もあった。

ほのかはというと、身動きできないほど拘束されて当然途惑っていた。
他の誰でもない、夏なのだから怒りはしない。意外さに驚きはしたが。
それよりもどんどん苦しくなる息と胸が押し潰されそうな勢いが怖かった。
実際にこうなってみてわかる夏の分厚い胸板と太い腕。それらが圧迫する
貧弱な自分に少しばかり落胆し、じわじわと怖いのにどこか嬉しくもある。
困惑して動けないほのかの頬に夏の頬が重なってきたときやっと体が動いた。
ビクンとかなり大きく体は揺れたように感じたのだが現実はそうでなさそうだ。
夏が何をしようとしているのかわからなくて、けれど体は知っているみたいに
硬くなり縮こまる。無意識に閉じた目蓋に当たり前だが眼の前は真っ暗だ。

身構えて数秒、ほのかには数分に思えた時間が経っても変化は起こらなかった。
それでのろのろと目を開けた。閉じていたことにも気付かないままぼんやりと。
見えてきた視界いっぱいに夏の顔があった。長い睫の下の湖のような瞳に掴る。

何かを訴えているのだとほのかは理解した。しかしそれが何かわからない。
問いを返すほのかの瞳。思わず顔を上げてしまっていたほのかの顎に指が触れた。
いつの間にか片手で捉えられていたのだ。驚いたがそのまま顔が一層近付いて
ようやく何をされるのかがわかった。困ったことに悩む隙も拒む隙もなかった。
一瞬の躊躇、一ミリの距離で夏が囁いた。聞き取れなくてほのかは目を瞬く。

「え?なんて・・」

その声が夏の動きを止めた。ほんの少し軌道修正されたがほのかは気付かず、
頬に当たった弾力に気付いてから、今度はちゃんと意識して目を閉じた。
唇って当たるとこんななのかとほのかは思った。体の芯で何かが粟立った。
全身へそれが広がっていく。指先に至ったのを認めるまでに3秒程かかった。

「次は除けないからな」

夏の声がやっと耳に入った。しかし意味が把握できず眉を顰めてしまう。
どういうことか尋ねようと思うのに声が出ず、ほのかはまた夏を見上げた。

「・・いいのか?」
「だから何?言ってることがわかんないよ。」

ほのかの困惑がうつったのか、夏もそんな表情をした。
捉えられた顎から指が離れ、二人の至近距離も間隔を空けた。
訊いているのに答えてくれないことにほのかはむっとしてしまう。

「教えてよ!どういうこと!?」
「うるせぇ。わかんないならいい。」
「だからきいてるのに。勝手だなぁ!?」
「そうとも、勝手な話だ。悪かったな。」
「なんなのさ、その開き直った態度は。」
「そうするしかねぇだろ。」
「怒るよっ!なっちー!?」

夏がしたいことはなんとなくほのかにも伝わってはいるのだ。しかし足りない。
彼の舌足らずぶりに怒り、それをぶつけるようにしがみついていた手を握る。
拳になった両手を夏の頑丈そうな胸板にぶつけた。それも何度も強い力でだ。

「なんなの!おかしいでしょ!?順番とか。足りてないよ、絶対。」
「・・・・聞えなかったのかよ!言っただろ、『好きだ』って!!」
「聞えてないっ!聞いてなかった。ばか夏。いきなりなんなんだい、ちみは。」
「聞いてないって・・はっきり耳元で・・なんで聞えてないんだよ!?」
「そんなこと言ったって聞えなかったんだから聞いてないんだよ、ばかばか!」
「ちゃんと聞いてろよ!それと前から言ってただろ、不用意に抱きつくなって。」
「だってっ・・それはなっちが・・憎たらしいこと言うから!」
「お前はそんなつもりでなくたって俺はその気になるんだ。」
「好きでもないのに!?そんなのイヤだ。」
「好きでもないのにお前を家になんか入れたりしねぇんだよ。」
「そ・・え?・・だって・・」
「我侭言っても無茶な約束させられてもお前じゃなきゃきくか、そんなもん!」
「・・う・あ・そう・・なの?」
「それに好きでもない奴に警告なんざしねぇ。近付くなら覚悟しとけってんだ!」
「・・・言いたいことはわかったけど、一々言い方がよくないって思うなぁ・・」
「フン!懇切丁寧に説明してやったじゃねェかよ。」
「はぁ〜・・やれやれ。じゃあさぁ、聞えなかったところからやり直してよ。」
「やなこった。」
「ちみね、カッコ悪いと思わないの?普段は無駄にかっこつけてるくせにさ。」
「もう言わん。今日はもう品切れだ。」
「ケチくさいことをお言いでないよ!」

ほのかは夏の顔を見ていたらどうでもいい気はした。それでも言ってしまう。
照れが伝染したほのかは、自分も同様に赤い顔をしているとわかっていた。
夏が言葉を荒げているのも似たような理由だろう。視線も微妙にずらしている。
そしてそれはその通りだった。夏もみっともない今の自分に歯噛みしている。
目を合わせられないのはそれともう一つ、恥ずかしそうなほのかを見ていると
また衝動を抑え切れなくなって、今度こそは口づけてしまいそうだからだ。
当に急転直下。二人の間合いは期待と不安と途惑いで色鮮やかに染まった。
手を伸ばしてみると思った以上に近かった。ほのかと夏はそう感じていた。
すると今まで無自覚だったそれぞれを独占したかった行動に察しがついてしまう。
それで二人共が照れているのである。他者にとっては実に馬鹿馬鹿しい話である。

「なんだい・・ちゅーしたかったのならすればいいのに。」
「嫌がったんじゃないのかよ、さっきの・・」
「嫌がってないよ、聞えなかったんだってば!」
「・・絶対怒ると思ったからソコは除けたんだ・・」
「怒らせたくないと!ふむ、つまりほのかにぞっこんなのだね!?」
「俺にばっか言わせんな。」
「しょうがない人だね・・なっち、こっちこっち。」

空いていた距離を再び縮めてほのかが夏の腕を引っ張り耳元を手繰り寄せる。
応じて屈んでやるとこっそりと夏が聞き取れるかわからないほどの小声で

「好き」「だよ!」

「・・・聞えん。もう一回。」
「ぬおっ!?そうきたかい。」
「お前だって怒っただろ!?」
「怒ってないくせにぃ〜!!」

夏はほのかの様子に勝ち誇ったような顔をした。そして確かに聞える音量で
「好きだから、俺の女になれよ。」と断言した。呆気に取られたほのかだが
「う・・直球だね。そりゃあ・・・なるよ。」そう言うとぎゅっと目を瞑る。
「除けるなよ?俺も除けないから」と念を押すとほのかは黙って頷いた。

回りくどい経路をたどって夏とほのかはようやくにして互いの位置を知る。
軽く触れ合った後、またもや抱きすくめられたほのかが暴れるのを抑えて
”ようやく掴まえた”とばかり遠慮のない口づけがなされた。
暴れてもぬかに釘。諦めてぎこちなく委ねると思いのほか気持ちよかった。
夢心地で開いたほのかの目には見たことの無い夏が映った。血が頭に昇る。
なんて顔してるの?!と問いたかった。男女差を感じてぶるりと体が震えた。

「なっちぃ・・もの足りなそうだね・・?」
「けど一度にだと勿体無いからな。続きはまた今度だ。」
「ほのか・・どうなるのかな!?」
「俺はお前を悦ばせたいだけだ。」
「そうか。じゃあ続きはうんと優しくしてね?」
「素で言うから怖いんだよな、お前って。」
「なっちだって怖いのか。なら安心したよ。」
「好きな女が怖くない男はいねぇと思うぜ。」
「ぷっ・・おかしー!なっちヘン。すごくヘンだ。」
「お前のせいだ。まだわかんねーのかよ!?」
「わかんない。わからせてよ、たーくさん。」


いつの間にか準備を整えていたらしい見知らぬ女の顔がそこにある。
そういえば抱き締めたときにわかった。頼りなく華奢であるはずの体が
包み込むような大きさを感じさせたことも。ほのかはもう子供ではない。
重ねた唇でそれも確かめると警戒域は消え二人の空間は共有となった。









待ってた夏くん解禁日。危険なのはここからですケド?