オレンジ 


 いい香りが鼻どころかシャワーのように全身を包んだ。
無残にも捻り潰されたオレンジの残骸から滴り落ちる液。
舌がすっぱいような錯覚を起こし、ほのかは肩を竦めた。
すぐに濡れたタオルを差し出し、ずいと夏へと手渡した。

「おいしそう!」
「そのままを剥いて食う方が衛生的だぞ。」
「そうかもしれないけど手絞りのジュースも良いよ。」
「これは譲ったがもうひとつの提案はなあ・・」

 手絞りの生ジュースを製作した夏は渋い顔を作って見せた。
ほのかの口に直接オレンジを絞って飲ませろという提案に対してだ。
わくわくして夏を待ち構えるほのかはそんな躊躇をものともせずに
新しいオレンジを夏に捧げると、あ〜んと口を開け待ち構えてしまう。
首を軽く振って不本意の承諾を示したままほのかの上に手を伸ばす。
慎重にした。飛沫が飛んで顔中に掛かってはいけないと判断してだ。
先ほどの生ジュース製作でコツは掴んだので夏は自信を持って臨んだ。
果たしてほのかの口に流れ落ちた瑞々しい果汁にほのかの口元は弛んだ。

「おいしいい!」

 うまく零さずに飲み込めたことを夏とほのかの両サイドで喜ぶ。
しかし「おかわり」を要求されて再び渋面になった夏は肩を落とした。

 何が楽しいのかわからないままにほのかの思いつきに従うのは
最早夏の慣習になる。結果が100%最悪とならないとわかってもいる。
何故ならどんな成り行きであったとしてもほのかは満足を示すのだ。
夏にしてみれば失敗ではないかと思う結果であろうと構うことはない。
そしてほのかが是とすることで夏も己の役割に満足を得るのだった。

「お行儀悪いって家ではダメだしされたんだ。」
「そりゃそうだろ。」
「なっちはしてくれたv」
「俺も一応窘めたぞ。よく思いつくなこういうことを。」
「してみたいと思ったこともないの?ほかに牛から直でお乳を飲むとか。」
「想像すらしたことはない。」
「想像力が貧困というか・・感受性に乏しいのかね?!」

 言いたい放題のほのかの頬をぎゅっと摘んでやる。多少悲鳴はあがるが
痕が残る程の力ではない。夏はちゃんと計算して加減しているのだから。

「部屋中オレンジの匂いがする。」
「そうだな。」
「好いにおい!どれどれ・・」

 ほのかは鼻をくんくんさせて夏に擦り寄ると、シャツに顔を引っ付けた。
そしてしたり顔で「なっちもオレンジの匂いだじょ!」と嬉しそうに告げた。
「そりゃお前の方だってしてるだろうよ。」と投げやりに言い捨てる夏だ。
そうかなと自分自身の腕の匂いを嗅ぐほのかに夏は苦笑が漏れてしまった。

「おそろいだね。」
「・・匂いがか。」
「次はなっちにほのかが飲ませてあげるじょ。」
「遠慮する。腹いっぱいだ。」

 夏の拒否権は見事無視された。ほのかは小さな手で新しいオレンジを
迷うことなく両手に捧げ、夏に屈めと命を下した。しかしはたと気づいて
あわてて脚立代わりの椅子を持ってくると、夏に座らせて手を洗い直した。

「さあっ口を開けたまえ。ってほのか歯医者さんになったみたい。」

 夏は口を開けるのを渋った。顔どころかフロア中、衣服も着替えねばなるまい。
数秒後の惨状が目に浮かんだ。しかしもうどうとでもなれと目を閉じて口を開けた。
目を閉じるのは果汁が襲うのを防ぐためである。そして心にも軽い鎧を着けた。

「むむ〜・・・意外にかたいのだ・・!」
「お前の場合は切れ目を入れるか半分に割っとけ。じゃないと無理だ。」

 冷静な突っ込みを受けてほのかはぱたぱたと作業に向かった。一旦目を開けて
様子を確認する。戻ってきたほのかの手には半分に切られたオレンジがあった。

「お前その服、汚れるのがいやならなんか・・・エプロンでもつけろ。」
「どうして?なっちは上手にしたじゃないか。ほのかも汚さないじょ。」

 何の根拠もない自信をもってほのかは挑んだ。夏に溜息は落ちたがそれも無視だ。
しかしほのかは真剣に取り掛かった。目を閉じていたのでその額の汗に気づけない。
その甲斐があってか、夏の思い描いた最悪の結果とはならないで済んだのだった。
多少零れはしたが、概ね夏の口に果汁は落とされた。成功を喜ぶほのかは手を挙げた。
わーいと両手を挙げた拍子に片手に持っていたオレンジの残骸を握ってしまった。
束の間の成功の後、周囲はほのかの片手から降ってきたオレンジの果汁まみれとなった。
夏とほのかはお互いの顔を見合わせるとしばし呆然とした。

「・・・ぷっ・!」
「あ・あははっ!」

 最初に吹いたのは夏だった。釣られてほのかも笑う。部屋には笑顔と香りが漂い
オレンジで充満した。おかしさがとまらないほのかはくたくたと体をくねらせた。
いつまでも笑っているほのかの手から残骸を取り上げ、夏が濡れタオルで拭こうと
ほのかの顔を覗き込む。その瞬間ほのかは夏の胴にタックルした。

「コラ!なにしてる。拭かないとべとべとだぞ。」
「いいじゃん。いっそのこと一緒にシャワー浴びようよ。」
「シャワーならオレンジだけでたくさんだ。」
「そんなつれないこといわないでさあ!?」
「いいから顔向けろ、拭くぞ?ほら、こっち向け。」
「うむうう」

 何故かほのかは顔を拭くのを嫌がった。自分でしたいのかと夏が一旦離すと

「ほのかがなっちを拭いたげる。タオルちょうだい。」などと言い出した。
「先に拭いてやろうと思ったのになんなんだよ・・」と言いつつタオルを渡す。

しかしそのタオルはポイと投げ捨てられた。ほのかの行動に目を瞠る。すると
飛び上がったほのかは夏の頬をぺろっと舐めたのだ。残念ながら背が足りず頬より
顎に近かった。あわや唇だったので夏は内心動揺した。ほのかはぺろっと舌を出して

「なっちいオレンジ味だじょ。」

 不敵な面構えで舌なめずり。夏はそこでムキになった。お返しを施そうとして。
捕まえるのは簡単だ。ほのかはあっという間に夏に抱き寄せられた。頬を舐める寸前
夏は我に返り固まった。”いかん、なにしてんだ?なにしようとしてる!”


「あれれえ・・なっちー?報復しないのかい?」

 気付くとほのかが不思議そうに夏を窺っている。オレンジの匂いが髪からもした。

「やめた。」と言いつつほのかを解放した。つまらない顔をしたのはほのかだった。
夏はその顔を見なかった。下を向いて見れなかった。どこか後ろめたかったのだ。
ほのかは放り投げたタオルを拾うと、ジャーと流しで洗って再び戻ってきた。

「今度はちゃんと拭いてあげる。なっち、こっち向いてよ。」

 俯いた夏の顔を覗き込むと顔が赤かった。どうしてだろうとほのかは考えた。
それでも結論は急がずタオルで夏の顔を拭いた。ごしごしとかなり乱暴な手付きで。
きれいになったかなと確かめた顔はもう赤くない。夏は神妙な顔に変わっていた。

「変ななっちい。」

 呟いて自身の顔に同じタオルをのせたほのかだが、拭くことができなかった。
タオルを奪われたのだ。今度は夏の手で。驚いていると腰を引き寄せられた。
夏が何を思ったのか抱き寄せてほのかを腕の中にすっぽりとおさめてしまう。
顔は見えない。ほのかはそうしたまま抵抗もせずに夏にされるがままでいた。

「恥ずかしいの?どうして?何にも困ることないじゃん。」

 ほのかは言ってみたが夏は首を僅かに左右に振るだけで何も答えなかった。
まるで小さい子が拗ねてるみたいだなとほのかは思い、夏の背に手をまわしてみた。
抜け出せた両手で夏の背をぽんぽんと叩いてみた。かわいい子にする母のように。

「なっちーはいい子いい子。お顔を見せて?」

 オレンジの匂いがふわっと鼻腔をくすぐった。夏の顔が目の前に現れたので
いつものように笑顔を浮かべて視線を受け止める。ほのかは夏をそのまま受け入れた。
もう一度抱き寄せるんだなと理解したとき、すれ違うはずの顔がそうならなかった。
ほんの少しだが唇が引っかかった。というかちゅっと音がしたかと思うが定かでない。
ただやっぱり抱き寄せられて夏の腕の中だ。顔はまたしても見えなくなってしまった。

「・・ちゅーしたように思ったんだけど・・違った?」

 今度の質問にも答えが返ってはこない。夏はどうしてしまったのだろう。
けれどほのかは居心地の良い夏の腕に抱かれてそれでもいいかと口を閉じ、目も閉じた。
お互いに寄りかかるようにして抱き合っていた。多分結構長い間だと思うがもしかして
それほどでもなかったのかもしれない。そこは曖昧だった。

 困っていたのはどうやらどんな顔をしたものか、いつもの無表情が作れなくて
夏は弱っていたらしい。それで長いことほのかを抱きながら思案していたのだ。
しかしそれもほのかが予想しただけのことで事実はどうだったのか。とりあえずほのかは

「ちゅーしたかったのだけどそうだとわかんなかったので恥ずかしかったのだね?」

 確かめるほのかに夏は「お前なんでもわかった風に言うんじゃねえ!」と声を荒げた。
途端不機嫌になってしまった。多分予想が当たっているのだ。実に子供っぽい態度だった。
しょうがないなとほのかは歩み寄りを見せる。「いいよ、ほのかもしたかったんだもん。」
そう告げてやると、夏は少しほっとしたように見えたので大いに満足したほのかだった。







ほのかのほうがちゃんとわかってるんですよ。”ほのなつ”なんです。