鬼ごっこ 


突拍子のないことを言い出すのはいつものことだ。
だからそれもそんな類の話だろうと構えもしなかった。
違和感は最初からあったのだが、受け流してしまった。
それは自宅の庭を散歩し乍二人で鳥を探していたときだ。
仲睦まじい様子に見えたであろう、和やかなひとときに
思いがけないほのかの告白はゆっくりと始まった。

鵯の声が長く耳に響いた。林の中を飛び立つ羽音もした。
それで聞き取りにくかったのではない。寧ろ辺りは静かだ。
夏は思わず立ち止まり、ほのかの顔を見ようと振り返った。

「だからほのかの役目もお終いかなって思うんだ。」

唐突な始まりから夏は僅かながらも不安は感じ取っていた。
少女を過ぎてほのかはどこの誰が見ても美しい女になった。
相変わらずな部分に縋り、現実から目を反らしたものの、
そのツケが当に廻ってきたのかもしれない。なぜならば

ほのかの横顔は見惚れる程大人で、知らぬ他人のようだった。

「男同士ならよかったのにって思ったことあるの、昔ね。」
「でもお兄ちゃんがいたからそれも無駄だってわかった。」
「それならほのかにしかできない役目があるはず、って。」

静かで落ち着いた語りはほのかの永い苦労をしのばせている。
ほのかは自ら夏の”妹役”を演じてきたと言っているのだ。
夏は知り合った当時酷い人間不信の子どもだった為であろう。
ほのかもまた幼かったので、二人共に都合の良い関係が成立した。

世話の焼ける妹役のほのかと孤独に蝕まれた兄役の夏とのことだ。
居心地の良い関係で二人は一緒に思い出を作った。数えきれない。
どこでそんな関係に亀裂が入ったのか定かではない。しかしながら

「そろそろしんどくなっちゃったの。ほのかもう限界。」

笑いながらさらっと重い言葉を口にするほのかに夏は何も返せない。
頭が思考を拒絶していて、何も考えられない、否考えたくないのだ。

「今までたくさんありがとう。なっち・・好きだよ。」

ほのかは夏に向き合って握手を求めた。差し出された手をぼんやり見る。
それに応じたらこれまでの関係に終止符が打たれることだけはわかった。
夏は手を伸ばせない。ほのかは少し考えその手を引っ込めると、くるりと
背中を見せて走り出した。夏が呆気に取られていると振り返ったほのかは

「鬼ごっこしよ!捕まえてくれたら最後のお願い一つきいてあげる!」

そう叫ぶなりほのかは再び駆け出し、木々の隙間を急ぎすり抜けてゆく。
呆然としていた夏がようやく足を踏み出した頃には随分距離が開いていた。
夏の足取りは重い。捕まえていいらしいが、願いは一つだけ。何を願うか。
考えなくとも答えはわかっている。しかしそれは叶うかどうかは疑わしい。
最後にとほのかは言った。終わらせたいのだ、これまでの兄妹ごっこをだ。
けれどその先を望んでいるのは自分だけなのではないかと、夏は疑うのだ。

ほのかは逃げる。夏は追いかけたが木々はうまい具合に行く手を阻んだ。
気持ちに焦りと困惑があるのも追い詰めきれない理由かもしれなかった。
捕まえていいのだろうか、ほんとうに。それでほのかが拒んだらどうする?
夏はほのかの告白の意をなんとか飲み込むと、恐怖に囚われてしまった。

逃げるほのかの息が弾んだ。必死の想いで逃げて目には涙が滲んでいる。

”ほのかは意気地なしの卑怯者だね。なっち・・ごめん・・ごめんね!”

堪えきれず涙は零れた。それを見せない為にも一生懸命に走り続けた。
ほのかもまた怖かったのだ。夏から逃げようと思ったのは辛かったからで
秘め続けた恋心に決定打を打たれるのが怖い。ふられるとわかっていた。
夏が欲しかったのは家族や友人や仲間、師や生きる希、全部知っている。
その手助けができれば幸せだと思ってきた。それ以外できることがない。
兄が羨ましくて妬んだ。どうしても近づけない壁の前に無力感を覚えた。
愛する兄が憎い。男達の友情はちっぽけな恋心を吹き飛ばしてしまうから。

”もう会えなくなるなら・・明日からほのかは・・どうすればいい!?”

兄からも夏からも、ほのかと夏のことを知っている全てから逃れたかった。
やり直すことも取り戻すこともできない。初めからほのかはほのかでしかなく。

”・・もう・・絶対に出会えない。こんなに好きになる人には二度と!”

行き場のない想いを振りほどいてもそこに夏がいないだけで未来は耀かない。
何もかもから逃れたいほのかは心臓や足が壊れても止まりたくないと思った。
しかし足掻いても永遠に逃げてはいられないのだ。結果はあっけなく訪れた。

伸ばされた手は緊張で冷たかった。夏の腕がほのかを捉えたがすぐに離され、
代わりに背中から夏は縋るようにほのかを包み込んだ。両の拳は震えていた。
荒く苦しい息が治まるまでそのままでいた。お互いに何も言えない時間が過ぎる。
やがてほのかは目の前で交差している夏の腕と握り締めた両の拳の震えに気付く。
その腕を優しく撫で、ほのかは「怖がりだね。人のこと言えないけど」と呟いた。

「捕まっちゃった。なっち、お願いは・・なに?」

台詞は走ったせいではなく掠れて小さい。自信のないほのかの本心だから。
何もかもわかっていた。自分の小ささ、できることの少なさ。心の弱さも。
だけど夏が愛しくて。なんでもいいからしたくて。取るに足らないことであっても。
ほのかの耳元に夏の息がかかった。熱くて切ない。泣いているような息遣いだった。

「・・ほのか。俺が願うのはお前しか・・知ってると思ってた。」

「・・ほのか?ほのかのこと・・ほしいと思ってくれるの・・?」

夏の言っている意味と自分のとでは違う。そうは思っても尋ねずにいられずに
ほのかは曝け出した。女としての自分がほしいのとは違うのだろうと確かめた。

「ほしい。ぜんぶ。なにもかも。」
「・・・・うそ・・でしょ・・?」

ほのかの発したのは本気で驚いた声だった。そのことに夏はどこか切れたように
両手を離すと、ほのかを強引に自分と対面させ、怒りすら滲ませながら訴えた。

「お前こそっ!なんで今頃言う!?俺を散々待たせておいていまさらっ!」

「待ってた!?嘘、噓つき!知ってるよ、待ってる振りしてただけだって!」

ほのかも負けじと声を荒げた。一体何年傍にいたと思っているのかと責めた。
怖がっていることもわかっていた。それでもほのかも待った、気が遠く成る程。
言葉を受け止めた夏にこれで終わりとばかりにほのかが喚いた。どうせ終わるなら
ぶちまけてしまうのも自分らしいと自虐と理解しつつ腹の底から夏をなじった。

「ほのかにはわからないよ!なっちの苦しみなんてこれっぽっちだって!」
「それでもほんの少しでも笑ってくれたら嬉しかった。だからずっと・・」
「離れられなかった・・傍にいていい、許されてるって胡坐をかいたの。」
「騙されたと思っていいよ、いいこでもなんでもないよ、ほのかはねえ、」
「なっちが誰のことも好きじゃないならそれでいいって思ってたのさっ!」

醜い心。浅ましい気持ち。ほのかが抱いていたのはそんなどろどろしたもの。
無邪気を装って夏を騙した。付け込んで甘えて我侭で夏の人生を踏み荒らした。
けれど耐え切れなくなった。どこまでも騙されて優しく遠い夏を追いかけることが。
どこまでも追いつけない。くたびれて蹲りたくなった。届かない憧れに似た存在。

「お前なんてどこまでも貪欲で我侭でどうしようもない女だって知ってた!」

好き放題に言い放っていたほのかに夏が反論してきた。勢いのぶちまけ合戦だ。

「図々しくて馬鹿で、悪気がなきゃなにしてもいいわけじゃねえってのに!」
「ずるいこと考えてたってなら俺もだ。俺はお前なんて何度だって犯した。」
「馬鹿だから俺が何度言っても誘惑してくるだろ!?そのうち開き直った。」
「何をどう想像しようが自由だ。滅茶苦茶にしてやったぜ、殺す勢いでな。」
「願いを叶えてくれるんだったら、最後に抱かせろよ。そ・・」

夏の頬を平手が打った。大した威力ではないがほのかに屈みこんでいた夏に
届いたのが幸いとばかりに思い切り小気味良い音が響いた。鳥が驚き羽ばたいた。

「・・怒るのかよ?お前が欲しいって意味ならそのまんまだと教えただけだ。」
「嘘つき・・そんなに別れたいんだね。わかったよ、一人で好きに生きてなよ!」

怒りに震えるほのかは今までで最高に美しいと夏は思った。以前から怒った顔が
いいと思って意地悪いこともしたが、自分の嗜好だったのかもしれないと悟る。
この思い上がった女神のような高慢な女が好きだとこのとき素直な感情に気付く。

「離して!お願いはやめ。最後に抱かれてもいいって思ってたけど気が変わったよ。」

強く拒絶するほのかの腕を夏はなんなく捉え、後ろ手に併せもって抵抗を奪った。

「!?痛い・・なにすんの!?」
「逃げられると思うのか?本当に馬鹿なんだな。」
「いやだ・・嫌っ!否っ!厭っ!はなしてっ!?」
「見込み違いだったな。俺は最低な男なんだよ。」
「嘘だ・・きらい・・そんななっち・・でも・・ほんとに・?」
「ほんとうだ。妹なんて思ったことねえ。最初っから今まで。」
「な・・んだ。じゃあ”いいかっこしい”してたの?!ばかじゃない!?」
「お前が大学を出るまではと思ってた。手を出すのはそれから・・」
「ばかでしょ・・一体いくつまで待たせるつもりだったの・・?!」
「法に触れなけりゃお前のアニキや親父も口出せねえだろうが!?」
「あのねえ・・なっちがこんな・・びっくりだよ・・力抜けちゃった;」
「抵抗しない方が痛い思いが少なくて済む。そのまま力抜いてろ。」
「・・・なんかいやらしい・・こんなとこでなにする気・・・?!」
「ここではさすがに・・けど抵抗力を削ぐって意味なら少しは・・」
「・・??」

ほのかには意味がわからなかったが夏の片手に頭をわしづかみされ気付いた。
目を閉じるタイミングを外したまま口付けされ、然も遠慮なく舌が入ってきた。
驚きで自然と体が抵抗を試みるが執拗な口付けにほのかの体が弛緩していった。
足からも力が入らなくなったのをちゃんと見計らったかのように夏が抱き上げる。
鳥が舞い戻ってきたらしく、近場で鳴声がした。辺りは変わらず静かだった。

「もう一度気が変わるまで帰さないからな。」
「・・・抱いていいって言うまでってこと?」
「話が早くて助かる。ばかのふりしてたのか。」
「ううん・・ばかはばかだよ、なっちと一緒。」
「そうか。もっとわからせてやるよ、俺のことも。」
「それ口説き文句?なっちって・・ベタなんだね。」
「・・捕まえたから俺のもんだ。これからずっと。」
「今度はほのかの番じゃないの?追いかけるの・・飽きたけど。」
「もうお前から追う必要ない。鬼は一生俺でいい。」
「それじゃ・・捕まったまんまじゃない。」
「だからそう言ってんだよ、ベタだがな。」
「・・ふふ・・あはは・・くさーい!べたべただ!なっちかっこわるい。」
「言っとけ。これからたっぷり泣かせてやるから。」

夏の首に腕をまわし、ほのかは泣き笑いしながら身を任せた。
夏はほのかを抱いて自宅へと足を運ぶ。迷いなくやや急ぐように。
最初で最後の鬼ごっこは永遠に続くらしい。捕まえられてほのかは泣いた。
鬼に縋ってその後も何度も泣く羽目に陥った。しかし未来は耀きを取り戻した。

「ねえ、いつからほのかが欲しかったの?もういらないとか言わない?」
「忘れた。俺をいらないってお前が言うのなら・・息の根止めるからな。」
「なーんだ・・そんなのこわくないよ。言わないもん。」
「ふーん・・もう一回泣かせていいか?」
「なっちって・・えっちだね。ほのかと一緒。」
「おまえと一緒だからだ、わかってねえなあ。」

部屋の窓からも庭の林と飛び交う鳥のさえずりが窺えたが、二人は知らない。
お互いを確かめるのに一生懸命で、それこそが夏とほのかの仕事といわんばかりに。

怖がりだった二人は目隠しのまま互いに鬼を追っていたのかもしれない。
目隠しを外せばお互いの想いが瞳に映っていた。これからも一緒でいいのだ。
それが当たり前のような顔で鵯が一羽、高い声で鳴いて仲間の元へ戻った。