My dear 


幼い頃に見た光景を思い出した。眼の前に広がる淡く儚い球体群。
楓がシャボン玉で遊んでいるのだ。幸せそうな笑顔を浮かべて。
乾いた心に染み渡る、大いなる恵み。遠い記憶の中の懐かしさ。

”おにいちゃん、見てみて。キレイだね!”

”楓、楽しそうだね。”

妹の微笑の方が何倍も綺麗だと思った。その顔を見るのは幸福そのもの。
失う前のオレの願は妹の微笑みをずっと傍で見ていたいということだった。
はじけて消えるシャボン玉のように、残像は周囲を揺らめかし、煌いた。
あの微笑は今もこの胸に在る。それさえあれば生きていけると思っていた。
眼も眩むような大切な日々。オレはいつの間にか再びそれを手にしていた。


「夏くん、夏くんってば!なっつん!?」
「!?・・オレをそう呼ぶなと言ってるだろう!」
「うおっ!?っとっと・・君がぼうっとしてるなんて珍しいね。」
「オマエのことを無視してたからだ。とっとと視界から消えやがれ。」
「わ〜・・君ってさぁ・・あからさまにほのかだけ差別してるよね。」
「・・・」
「ほのかだけに甘いというか。」
「煩い。」
「ほのかって甘え上手なのかな?ねぇ?」
「さっきから・・何が言いたい?」
「君が周囲の目もお構いなしにそんな顔してるのはほのかのせいなんでしょ?」
「・・・オレの顔はいつもと同じだ。」
「全然違うよ。皆だって心配してたじゃないか、元気出しなって。」
「オレは元気だ。」
「はは・・そんなに心配しなくても大丈夫だよ、ほのかは。」
「・・・呑気なヤツだな、アニキのくせして・・」
「君ほど心配してたらやってられないよ。」

相変わらず人の踏み込まれたくない部分にずけずけと入ってくる男だ。
放っておいて欲しい。あの笑顔が戻ってくるまで。オレのすぐ手元に。
アイツを放って旅に出たことがオレには以前から数度ある。しかし・・
待たされる立場というのがいかに辛いかと思い知り、以前の自分を省みた。

”なっちー!”

もう数え切れないほど再生している。というか再生されるのだ、自動的に。
あの笑顔に何日遠ざかってるんだ。それも数えたくないので眼を背けている。
こんなになるなんて・・・これほど渇望するなんて予想を遥か上回っていた。
声が聞きたい。生の声を。顔が見たい。笑っている顔が。

「・・・気休めにしかならないけど・・元気出しなよ、ねっ!?」
「・・・オマエの笑顔じゃ・・確かに気休めにもならんな。」
「言うようになってまぁ・・じゃあ僕は行くね、なっつんv」

ぶん投げてやろうかと思ったが、身体が動かなかった。なんだかどうでもいい・・・
離れてたからってどうってことないってアイツを慰めた自分を嘲笑ってやりたい。
早く帰って来いよ、ほのか。足りなくて・・息が詰まりそうなんだ。



「まさか夏くんがあんなに消耗するなんてね・・!?」
「心配ってのもあるんだろう。まぁ予想以上だったがな。」
「帰ってきたら・・タイヘンかな?」
「ケケッ・・だろうな。面白い絵が手に入るかもしれん。」
「新島、盗撮はやめろ。」
「・・で、帰国はいつだ?」
「予定だと・・あと2日。」
「ふむ・・空港へ迎えに行くのは家族でか?」
「多分彼も行きたいと思うんだけど誘っても行かないって言うんだ・・」
「そりゃそうだろう。けどきっとこっそり行くに決まってるぜ?!」
「素直じゃないよね。もう公認なんだからそんなに照れなくてもいいのに。」
「そうじゃなくて、かっこ悪いんだよ!わかんねぇヤツだな。」
「どうしてかっこ悪いんだい?」
「オマエ・・・・さすがは白浜兄妹ってか。」
「なんでだよ、教えてくれよ!」




ほのかとのやりとりは毎日メールだった。ほんの数週間のことと言えばそうなのだが、
何年も経ったような気がする。アイツのメールもオレの返事もあっさりしすぎていた。
それはお互いに辛かったからだ。お決まりの確認だけで詳しい話はあまりしなかった。
それでも多少は滞在している甲斐があって簡単な会話はできるようになったらしい。
ともかくなんでイタリアなんだとオレも尋ねたが、親戚が居るってんだから仕方ない。
あの国の男なんて女と見ればもう・・手当たり次第だとか・・知りたくない情報ばかりだ。
しかしそれも終わりだ。やっとアイツが帰ってくる。迎えに来てくれないのかと言われて
家族の手前辞退した。父親もオレに負けず劣らず心配でたまらないだろうと予想できた。
けどこっそり顔を見に行く。オレのところへは翌日土産を持って来ると言っていたから
久しぶりの自宅でゆっくりしてからでいいと・・・返信してしまった。



「ほのかは!?母さん、ほのかは無事に着いたのか!?」
「ええ、さっきの便ですよ。少し落ち着いて!あなた!」


案の定父親は挙動不審になっていて母親が必死で宥めていた。
これだけ離れていれば誰にも気付かれることはないはずだ。
到着便がかなり遅れたせいで父親はパニックを起こしかけていた。無理もない・・
だが事故もなく無事に着いたのだ。やれやれ・・どんだけ心配してんだ、オレも;

遠目でもほのかのはねっ毛はすぐわかる。父親も気付いたようだ。


「夏くん、やっぱり!」
「兼一!?オマエは来ないんじゃ・・」
「実はね、ほのかに頼まれちゃって。」
「何をだ?」
「荷物運びとか。それより新島が付いてくるとこだったんだ。」
「!?・・あの宇宙人どんだけ野次馬なんだよ!」
「新白のメンバーに取り押さえてもらってきたから安心して?」
「・・借りができたな。」
「ふふ、それより堂々と迎えに行けばいいじゃないか。なんで?」
「・・うるせぇ。無事に着いたみたいだからオレは帰る。」
「新島がさ、かっこ悪いからだろうって言ってたけど・・?」
「ああそうだよ!」

”なっちーっ!!”

「!?」


一瞬幻聴かと思ったが違った。ほのかがオレに飛びついたのはその数秒後。
反射的に抱きしめてしまった。夢に見た本人に間違いなかった。

「絶対来てくれてるって思ってたんだ!」
「・・探してたのか?」
「すぐ見つけたよ!あ、お兄ちゃん。タダイマ!」

「遠慮しなくても良かったのに、谷本さんったら。」
「ほのか。離れなさい!いつまでひっついとるか!」
「すっすみません・・;」
「荷物持って帰ってやるよ、ほのか。夏くんち行くんだろ。」
「ありがと、お兄ちゃん。お父さん、お母さん、ごめんね?」

父親の寂しそうな顔に申し訳無さがこみ上げた。ほのかは兼一とすでに話を着けていたらしい。
兼一が両親を説得してくれたと後で聞いて、珍しく”親友”めいた行動に感謝の気持ちを抱いた。


「は〜・・会いたかった!会いたくて死にそうだったよ。」
「いいのか?オレの方へ直行とか・・」
「ウン。前からそれは言ってあったの。お兄ちゃんも加勢してくれたし。」
「悪いことしたな・・」
「何?なっちだって帰れって言わなかったじゃない。」
「オマエだって離れる気なかっただろ!?」
「えぇ〜!?」
「ちっ・・」
「ふへへ・・なっちってば泣きそう!?」
「・・・」
「あれっ、否定しないの?」
「・・・あんま変わってないな。」
「え〜!?もてもてだったんだよ、ほのか。」
「浮気したってのかよ。」
「ううん?なっちこそ、浮気してない!?」
「できたら苦労ないってんだよ。」
「ん〜・・この声!聞きたかったの、生で。」
「ほのか」
「!?はいっ・・なぁに?なっち・・」
「笑え。」
「はい?」
「足りなくて・・まいってたんだよ。」
「そうかぁ・・なっちもかぁ!?」
「だから笑ってくれ。」
「ウン。なっち、もっと抱きしめて?」
「当たり前なこと言うな。」

ほのかの微笑みは久しぶりで胸に染みた。痛いほど響いた。
抱きしめて離せなくて弱った。ずっとそうしていたくて。





夜、ほのかが家に連絡を入れると「まだ嫁に出した覚えはない」と父に怒鳴られた。

「・・お母さんも今晩は帰ってきてあげなさいって。」
「父親も相当我慢してたみたいだしな・・送ってく。」
「ウン。そういえばなっちもお仕事お休みしたの?」
「ああ。休暇取るためにめちゃ働かされたぜ。」
「でもほのかに会いたくて頑張ったんでしょ!?」
「・・・そうだよ。」

どんなに憎らしい口をきいても腹が立たず、逆にほのかが照れていた。

「なんだか・・めちゃめちゃ愛されてる気がする!」
「愛されてないなんてぬかしやがったら殺すぞ。」
「お〜コワ!そんなこと思ってないよ、なっちv」
「ならよし。とっとと服着ろよ!帰るんだろ!?」
「はぁ〜い!!」


ほのかを送って行って頭を下げると、母親がにっこりと微笑んで、
「良かったわ元気になったみたいで。ほのか効果ね。」などと言われていたたまれない。
「すみませんでした!連れて帰ってしまって・・」
「今ほのかがお父さんの相手してくれてるんで、あなたがお母さんの相手してくれる?」
「でも遅いですし・・」
「泊まって行けば?いいわよ、別々の部屋ならお父さんも許してくれるから。」

ほのかの母親も娘と似たり寄ったりで見た目より強引にオレを引き留めた。
少々お小言を食らうのかと覚悟を決めたが、意外にも母親は穏やかだった。
どこか懐かしい母親の眼差しにふわりと妹の楓とシャボン玉の映像が脳裏を掠めた。

「・・気が気じゃなかったでしょう?お疲れ様。」
「え・・いえそんな・・」
「私も心配したのよ、従姉妹から様子を聞いたりしていたけれど。」
「心配よりも・・」
「正直ね。そんなに寂しかった?ふふ・・顔に書いてあるわよ。」
「・・・・」

言葉に詰まり、出されたお茶を飲んで誤魔化した。見透かされて居心地が悪い。
しかし互いに通じるほのかが戻ったことへの安堵感がそれを紛らわせていた。

「・・傍にいるときも大切だとわかっているつもりでした。」
「そう、・・ほんとにそうね。」


それ以上母親は何も言わなかった。オレも他に言葉が見つからず時が流れるに任せた。
結局泊まらずに帰宅したのだが、帰り間際の父親の台詞が長く心に尾を引いた。

「・・・今日は帰してくれてありがとう、谷本くん。」

頭を下げる以外にできなかった。父親はもうとっくに娘との距離を受け入れている。
もしも楓が生きていて、嫁に出したらこんな気持ちだろうかと複雑な想いが交差する。
おそらく母親よりもオレの方がその気持ちを理解できるだろう。大切な日々への想い。
離れていても平気なわけはない。それは父親だって同じことだ。それでも・・・

オレはほのかを・・誰がどんなに想っていようと・・はなせない。

眼の前で微笑むほのかを想い出にも幻にもしない。きっとずっといつまでも。
そのかわりに誓うのだ。大切にすると、ほのか自身と一緒に過ごせる日々すべてを。
ほのかが傍にいると誓ってくれたように。
帰り道の夜空は震えるほどに美しかった。抱えきれないほどの幸せを噛み締めた。