MUSICA (V) 


誰かと旅をするのは初体験だ。一人旅なら割合慣れている。
一人の方が気楽と言わざるを得ない。しかし今回は主旨がまるで違う。
ほのかもそうだろうが、オレにとっても初めて尽くしの旅になる。
二人であること、結婚前であること、海外なのはたまたまだが、それも含めて、
二度とないであろう一生に一度の旅とも言える。大げさでなく事実そうだと思う。

出発前から胃が痛かった。ほのかが張り切って期待を膨らませればするほど。
とにかく第一に無事で帰ること。そして出来る限りほのかの期待に応えること、
それがオレの必須条件であり、目標だ。滞在時のあれこれを手配するうちに
どんどん現実味を帯びてくる。ほのかとオレとで食い違うビジョンとプラン。
荷物一つを取ってももめた。骨の折れる作業だった。仕事よりよっぽど疲れる。

離陸して機上でやっと一息吐いたが、先が長く感じられた。
興奮気味の小学生・・もとい、婚約者を宥めたり落ち着かせるだけでも一苦労。
飛行機を降りたらさっさとチェックインしたかった。ほのかは空港でぐずったが。
帰りに空港内を探索すると約束してやっとホテルに到着。迷子にならなくて良かった。

宿泊する部屋は気に入ってくれたようで、目を輝かして喜んでいた。
オレ好みではなかったが今回は仕方あるまい。探検させておいて社用をこなす。
どたばたや歓声をBGMに仕事を進めていると、しばらくしてオレの処へやってきた。
見たことのない黒いドレスとやけに開いた背中を見せびらかし、オレを誘惑すると言う。

そのことを忘れていた訳ではないのだが、意図して閉じた蓋は呆気なく拡げられた。
今夜ほのかと迎える夜のことだ。考えると・・仕事にならんので早々に諦めた。
期待に応えられるかどうかなんてのは・・どんな自信家の男でも100%とはいくまい。
というかオレはそんな自信家でもなく、寧ろまるでそんなもの持ち合わせていない。
どうってことないそこいらの女相手なら、芝居の要領でどうにでも遊べるかもしれないが。
けれど今となってはそれも自信がない。ほのかと付き合い始めてからマジでダメになった。
他の女じゃどうにも・・そうかといって相手はほのかだ。思うようにならないのが基本で。
妄想だけは逞しくなったかもしれない。笑えない話だ・・なんの役にも立たん気がする。

なるだけ考えないようにした。それが経験上一番効果があるとわかっていたからだ。
しばし開いた蓋を閉じる努力をしているとき、ほのかの悲鳴が風呂場から上がった。
慌てて駆けつけるとバスに湯を張ろうとしていたらしく、腕を赤くしてべそをかいていた。
肝が冷えたが、たいしたことはなく胸を撫で下ろした。こんなことはしょっちゅうだ。

しょげるほのかを慰めると、散歩に出ることになった。すっかり好奇心で怪我を忘れている。
街中をぶらぶらしたのはオレも初めてだった。観光という意味ではほのかと同じだ。
おのぼりさんよろしく目をあちこちに向けるほのかがオレになんでもかんでも質問する。
一応説明はするが、すっかりガイドと勘違いしてやがる。オレだって知識があるだけだっての。
けれどこんな風にオレも興味をそそられるのは、おそらくほのかのおかげだろう。一人なら見ない。
そういう意味ではほのかがオレの案内人だ。どれもこれも魅力的に見せる結構な腕利きだ。
ふいに静かになったな?と思うと少し落ち込みモードになっていた。
意外に劣等感の強いところのあるヤツだから、その辺りが原因だろう。
オレの腕にぎゅっと縋るようにしたからだ。何か余計なことでも考えたんだ。
外国ではそんなことはまぁどこでも見られることと割り切って、ほのかにキスをした。
日本ならこんな人通りのある場所では考えられない。オレも開放感を味わってるらしい。
しかし、思い切った分の見返りは大きかった。ほのかの表情が途端に明るくなったから。
のんびりとした歩調で夕刻まであちこちを散策した。満足気な足取りは軽やかだった。

ホテルに戻ると、戦闘開始だから待機しろと命じられた。
要は食事のために着飾るってことらしい。予想以上に待たされて仕事の方は捗った。

「まだなのか?ほのか。」
「・・・いいよー!お待たせ〜!」

期待半分怖さ半分でとゆっくりドアを開けるとほのかは背中を向けて立っていた。
跳ねているいつもの髪はまとめられていて、髪飾りの花が白い項を際立たせている。
近づくと、顔だけ振り向いて微笑んだ。演出効果抜群だ。母親の入れ知恵だろうか?

「へぇ・・どこのお姫様だ?驚いたな。」
「うふふ〜vどお?大人っぽい!?」
「そうだな、成功してる。」
「やったあ!ウレシイー・・とと、大声はダメだったっけ。」
「随分念入りに打ち合わせしてきたみたいだな?」
「え、わかる?!」
「いや・・化粧してんだよな?」
「当たり前だよ。そんなに厚塗りはしてないけど・・似合わない?」
「そんなことねぇ。・・・後で訊く。」
「何を?ちゃんと言ってよ、気になるよ。」
「たいしたことじゃねぇ。気にスンナ。」
「うもー!相変わらずなんだから・・!」

詰まらないことだったから訊かずにいた。化粧したままキスしていいのか?と思ったのだ。
艶めいた唇を拭いたかった。、それは気に食わなかったのだ。普通の男なら喜ぶところかもしれない。
一生懸命オレのためにと奮闘してくれたのだ。がっかりさせたくないから言わない方が正解だろう。
本音は”やりすぎだ!普通に男の目を引いてしまう。ちゃんと大人の女に見えるじゃねぇか!”だ。
大人気ないというか、わがままというのか。オレの知ってるほのかでないことにも少し苛立った。
今すぐいつもの唇や肌を覆っている化粧を剥がして、服も飾りも剥いでしまいたい衝動に駆られた。
怖れていたんだ、当たり前に綺麗になるオマエに出会いたくないって。だから・・・
なるだけ大人にしたくなかった。それは抱かないでいた本当の理由かもしれないと気付いてはいた。

「どうしたの?あんまり・・なっち好みじゃなかった・・?」
「え?いや、誘惑に耐えてんだ。食事の後までもつかなって。」
「ふえっ!?ちょ・・なっち・・ウソっぽいよ、それは〜!?」

普通の女なら誤魔化せるのに、ほのかはばっさりと”ウソ”だと言いやがる。さすがだな。
それでもそんな言葉だけで頬を染めるほのかは、初心で可愛い女そのものだった。見事に。
食事中は眼の前のほのかばかり見ていた気がする。誰にも見られていないかと気になった。
男は見るなと看板を立てたかった。いつもより大人しいほのかはデザートで無邪気な顔を見せてくれた。

「う・・美味しい・・セトレボン!」
「ワイン大丈夫だったか?オマエ一気に飲むからヒヤッとしたぞ。」
「だいじょうぶさあ!ちょっと熱くなっちゃったけども・・」
「さっきから顔が赤い気がして気になってんだよ。」
「酔っ払いみたいに言わないでよ!せっかく美味しいデザート食べてるのに。」
「・・オレだってこれくらい・・帰ったら作ってやる。」
「わお!負けずキライの谷本シェフ出た。お願いしますわv」
「フン・・これ酒入ってるな。ホントに大丈夫か?」

オレの心配はレストランを出た直後現実味を帯びてきた。ほのかの足元がふらついている。
初心者だからと弱いものにしたのだが、そのせいでありがちだが飲みすぎたようだった。
支えるように部屋に戻るなり、ほのかが履いていた踵の高い靴を放り投げたのでびっくりした。

「おっ・・足どうかしたのか!?」
「足痛い・・高すぎたよ、ヒール。それに・・気持ち悪い・・」
「なに!?やっぱりか!」

顔色が見る間に悪くなったので慌ててトイレへ連れて行って・・吐かせた。
実際に飲んだのはグラスでたった3杯だってのに・・まさかと思うほど弱い。
しかしこれで教訓ができた。背中をさすってやったりでなんとか落ち着いた。
ところが今度は頭が痛いと言い出し、ほのかはソファにへたり込んだ。

「ホラ、薬だ。飲めるか?」
「ありがと・・なっち・・ごめんなさい・・」
「そんなに落ち込むな。初めてだから加減なんてわからないだろ?」
「くすん・・なんか・・哀しくなってきた。」
「誰にも迷惑掛けてないし、気にするな。」
「なっちに迷惑掛けてるじゃん・・」
「オレなら気にしなくていいだろ?いつものこった。」
「それじゃほのかっていつでもなっちに迷惑掛けてるみたいじゃないか。」
「絡むなよ、まだ酒が残ってんのか?」
「なっち・・なっちはこんなおばかなほのかのどこがいいわけ!?」
「まさか絡み酒なのかよ、オマエ・・!?」
「う・・なっちぃ・・頭いたい〜!たすけて・・」
「もうすぐ薬が効いてくるから焦るな。」

オレにしがみついてほのかは本格的に泣き出した。こっちまで泣きたい気分になる。
えんえんと泣きながらも、途切れる毎にオレが好きだと言いはじめた。泣き上戸でもあるのか?
こうなったら寝かせてしまおうと、ほのかの口を塞ぎ、少し強引に深く吸った。
長く口付けているとほのかの体から力が抜けてきた。いつもならもう少しで寝息が聞こえるのだが、
一旦離した唇からは熱い吐息が漏れただけで、ほのかいつもと逆に正気に戻ってきたようだった。

「なっち・・ドレスが皺になるからほのか着替えたい。」
「わかった。着替えどこだ?取ってくる。」
「お風呂・・入りたい。」
「もう少し待て。頭痛いなら治まるまで止めておけよ。」
「治まってきたから平気。お風呂入らせて。」
「・・湯を張ってくる。一人で大丈夫なんだな?」
「なっちも一緒に入る?」
「オレは後でいい。」
「・・入りたくないってことじゃあ・・」
「ない!それどころじゃねぇだろうが。」
「だって・・はぁ・・ほのかが悪いよね・・酔っ払ってさ。」
「すぐ湯を入れてきてやるから入って寝ろ。服も掛けておいてやる。」
「なっちがお母さんのようだ・・」
「うるせぇよ。」

風呂から上がってきたほのかは当たり前だが、化粧も落としていていつものほのかだ。
オレはそれを見てほっとしていた。不釣合いな胸の開いた服さえ着けていなければ。

「オマエそれって・・寝巻きにしちゃ豪華というか・・」
「え?パジャマだよ。可愛くない?」
「へぇ・・それより何か飲んだか?ここにも水置いといたぞ。」
「あ、ありがと。飲む。」
「飲め。」

「うわー・・おいしい・・のど渇いてたんだ。」
「水分切らすなよ!酒飲むときは特に気を付けろ。頭痛はどうだ?」
「ウン・・わかった。もう大丈夫。ぼんやりしてるけど。」
「薬のせいだ。寝たら治るさ。」
「ウン・・」
「オマエのお気に入りのベッドだぞ?どうした?」
「・・なっちこのまま寝かせる気でしょ・・!?」
「・・無理することないだろ?体調悪いのに・・」
「そんなに・・イヤなの・・?」
「ただでさえ心配症なんだ。わかってくれよ。」
「ほのかもう平気だもん。」
「けど・・」

ほのかが左右に首を烈しく揺すった。「そんなにゆするな!」と咎めたほどだ。
泣きそうな顔はもう決壊寸前の涙が光ってみえた。進退窮まった心地がした。

「ほのか間違った?失敗だったかな・・色々・・」
「何も間違ってない。泣くな!オレが・・悪いんだ。」
「今日もほのかのこといっぱい助けてくれたし、何が悪いの?」
「・・綺麗にしてくれたのに、心底喜べなかった。」
「それは仕方ないよ。ほのか普段からあんまりおしゃれしないしさ。」
「そうじゃなくて、綺麗だと嫌なんだよ。いつものオマエがいいんだ。」
「・・・ほのか・・大人になっちゃダメ?いつまでも・・してくれないのってそのせい!?」
「・・・ちがう・・!」
「間があったね。なっちウソ吐いた。」
「う・・ウソじゃない。抱きたいっていつも思ってる。」
「怖いの?ほのかのこと。」
「オレはオマエを失ったら・・もう・・誰も・・」

ほのかの細くて小さな体に縋るようにして、搾り出した声は震えてさえいた。
そんなみっともないオレの頭に手が置かれた。優しく優しく指がオレの髪を梳く。

「絶対だよ、約束する。ほのかはなっちの傍にいる。どこへも行かない。」
「・・・オレがどんなことをしても・・か?」
「ウン。そう。なっちだってそうだよ。ほのかのことほっぽってどこかへ行ったら許さない。」
「・・・そう、そうだったな。そう約束した。」
「忘れないでよ、やだな・・大人になるくらいでほのかのこと捨てないでよね!」
「大人になったら、オレみたいな男・・見捨てられるかもしんねぇだろ・・!?」
「ばかだね・・なっちみたいな人はほのかじゃないとダメなんだから。でしょ?」
「ああ、オマエじゃなきゃ・・嫌だ。」
「だからさ・・大人になろうよ、二人で。先になっちだけなるのもほのかイヤなの。」

俯いていた顔を上げると、優しい顔のほのかが笑っていた。
世界中の誰よりも綺麗だ。こんなときのほのかは、人の形をした神のようだと思える。
愛しくて息が詰まる。不埒な想いだってたくさん隠してる。けど全部・・お見通しなんだろ?

撫でてくれていた手を取って甲に口付けた。反対の掌にも。指の一本一本にも触れてゆく。
ほのかは少し慌てたように身構えたが、黙ってオレのすることを見ていた。息を潜めて。
オレが立ち上がるとほのかの背を簡単に越してしまうが、ほのかはずっとオレの顔を見ていた。
両の頬を挟むようにして包むと、揺らめいた海のような広い瞳に長い睫が下りていく。
それを追うようにオレも目蓋を下ろした。同時に触れた唇は温かくてそれは頬も同じだった。

触れ合うだけの口付けでも眩暈がする。何かの始まりの鐘が鳴ったような気がした。
ゆっくりとだったのだが、抱き上げるとほのかはひゅっと息を飲んだ。軽い羽のような体。
それをベッドに横たえる。縋る目に不安が湧き上がったが、閉じるようにと再び口付ける。
天蓋ではなく、オレの腕の中に囲まれたほのかは白い寝巻きの胸の前で祈るように手を組んでいた。
それを外させ、ほのかの顔の両側に置いた。オレの手によって磔にされたように。
仰向けのほのかの胸が大きく上下した。怖いのはオレもそうだ。どうしようもない。

何か安心させてやれる手立てはないものかと思うのに言葉が出てこない。
こんなに一杯一杯なのにどこにも逃げ場はない。目を開けたほのかと声もなく向かい合った。







えええっと〜!マズイですね。(笑)で、どうしましょうね、次回は。
すいません!最後の一行改稿しました。m(_ _)m