またあした 


一瞬、一瞬で色も音も消えた。だからわからない。
なのに知っていたような気がする。わかりたくないのに。
ゆっくり、ゆっくりと立ち上がるのを見ていた。はずだ。
ノイズで掻き消えた音楽みたいに言葉は小さくなって

”どうして?”とか、”いやだ!”とかが浮かんでも
声にならない。代わりに苦しくて頬を冷たいものが落ちた。

「    な。」

”え?なんて?”聞えなかった。ほんとに。なのに
頬を伝ったものが正座していた膝の上をぽたぽたと濡らす。
目を背けることもできずに、握り締めた拳が膝上で震える。
”足が痺れて立てない”そう言ってみようかと思う。

思っただけでやはり声にはならなかった。なのに何故?
大きな掌が腕を包むと、体は簡単に浮き上がった。腰が泳ぐ。
立ち上がりたかったんじゃない。けれど今は立っている。
足は鉛のように重い。とても歩けそうにない。はずだった。
歩くつもりだってない。なのにそこは何時の間にか玄関だ。

「ここで見送る。一人で帰れるな?」

送って行ってくれないのは初めてだなと思った。ぼんやりと
まだ頬は熱いまま、制服には染み。拳は冷たくて石のよう。
目をはなさずにずっと見ていた。瞬きもせず只管にまっすぐ。

こんなに簡単にお終いなんてありえない。そうでしょう?
今までのことが夢のよう。出逢ったことも忘れようと言うの。
こんな約束は交わしていない。オセロはそういうゲームじゃない。
たくさんお願いを叶えてくれたけど、こんなこと願うはずはない。
負けたから?引き下がれって? もうここへ来てはならないの?
どうしても呑み込めない。一体全体どうしてこうなったのか。
昨日と同じようにオセロして、勝ったらあそこに連れてってって

そうなる未来はもうないの?あしたからずっと・・・ずっと?

”勝ち逃げは許さん”って言ったじゃない。勝ちも負けもない。
『終わり』だけはないと思ってた。いまこのときも思ってる。



「またあした」

いつもの台詞が零れ出る。僅かに驚いて見開いた瞳。

「明日はない。来ても扉は開けない。」

酷い追い討ちに瞬きを忘れていた瞼が痙攣したように数度瞬いた。
お芝居が下手過ぎる。能面より表情のない彫像のような顔を睨む。
私は世界から取り残されたと錯覚していた。やっと視界が戻ってきたんだ。
持たされた通学鞄から手を離すと落ちて鈍い音がした。大丈夫、聞こえる。

「明日が来ないならずっとここにいる。」

宣言して直ぐに制服のタイを解いて捨てた。次に上着。そしてブラウス、
ボタンを外していたら腕を捕まえられた。振り解くか噛み付くか一瞬迷う。

「なにしてんだ!?」
「学校辞める。今日からここに住む。」

息を呑む様にほっとする。制止が弛んだので再びボタンを外そうとした。

「ば・馬鹿言ってんじゃねえっ!正気か!?」
「本気さ。離してよ、脱げないじゃないか。」

精々慌てるといい。お返しだよ、世界が終わるかと思ったんだから。
止めろと邪魔をしても絶対止めない。明日が来なけりゃ何の意味もない。
今度は迷わずに阻んでくる腕を噛んだ。足を蹴り上げるのは痴漢対策だけど
この際それも辞さないと思っていた。なのに男って卑怯だ。力じゃ敵わない。

押し付けられたドアは硬くて冷たい。腕がじんじん引き攣って痛む。
喉がこくんと鳴った。同時に鎖骨に涙が落ちて冷たさに身が跳ねた。

いつごろ瞼を開けていいものか。わからないままじっとしていた。
反撃は唇が離れてからにした。のだけど・・息が弾んで・・ちょっと待って。
呼吸を整えているうちにドアから背が離れた。助かったよ、痛かったんだ。
背中を摩るように腕と手が覆う。あれ、まだ・・続くの?これって。

さっきまで私を追い出そうとしていたくせにまるで逃がさないみたいに
取り込まれて動けない。ああそうか、受け止められないから離そうとした?
なんて馬鹿なんだろう。逃げられると思うなんて。凶暴な私を忘れてる。
けど今はちょっとだけ・・捕らわれておく。苦しくて堪らないけどでも、

”明日は来るよね?”あなたとでなければ意味がない。それが事実。

長い間捕まっていたので足が震え出した。抱き上げてもらえて助かる。
このまま二人で明日が見たい。なんて思っていたのに居間で座らされる。
目の前に跪くから何かと思えばブラウスのボタンを・・はめてくれてる。

「なんで・・?外すんじゃなくてはめるの?」
「・・・学校は辞めるな。人を脅しやがって。」
「脅したのはそっちじゃないか。そうでしょ!」

非難を認めた。そうだよ、正当防衛だ。・・たぶん。
ブラウスのボタンを苦々しい顔ではめ終わると
私の膝に頭を垂れた。・・・泣いているの・・?
膝は私の涙で冷たいはずだ。けれど今は温かい。
私の膝に蹲る小さな子供みたいな大きな背中を抱いた。

泣いているように見える。けど泣いてはいない。
泣けばいいのに。大声だって構わないのに。難儀な子供。
無防備な顔を晒してくれたら、私だって見せるのに、どんな顔でも。
そう思っていたらやっぱり泣いているようだった。良かった。
背中を摩って髪を撫でた。あなたは世界を壊したかったの?
明日なんて要らないってさっきの私みたいに思ったのかな。

けどね、誰も受け入れられない人に世界は微笑まないんだよ。

すすり泣く声は雨音のよう。穏やかな時が二人を包む。
時計の針を一旦止めて、また動き出すのに似ている。
同じように進んでいるようで違う。一人の時と二人の時は。

「なっちぃ・・お腹空いた。」
「・・!?・・俺は空いてねえ・・」
「そうか。ならほのかが作ろうかな、久しぶりに。」

何気なく言った言葉に顔を上げた瞳は予想以上に綺麗だった。
その頬に残る光を指で辿るとその指を吸われてちょっと引く。

「俺が作る。だからお前は大人しく待ってろ。」
「ええ〜・・しょうがないなぁ・・せっかくやる気だったのに。」
「また今度な。」

自分で言って驚いている。ほら、私とおんなじじゃないか。
終わりを望んでいないんじゃない、終わりが怖かったのかな。
吸って舐めて美味しそうに・・それ私の指だよ、わかってる?

「地球最後の晩餐はほのかが作るからね。」
「・・・それは・・悪くねえな。」

私の指を大事そうに包んで、手の甲にも口付ける。
素直なあなたは可愛らしい。頭を包み込んでみた。
驚いたことにあなたは頭を私に凭れさせて目を閉じた。

「甘えっこなっちぃ・・よしよし。」
「ホントは・・」
「ん?なぁに?」
「今日で終わりだと思ってた。」
「何が?この世が?」
「こんな世界なくなっていいんだ・・お前がいないなら。」
「それならほのかをポイしちゃダメじゃないか!?めっ!」
「なんでこんなことになってんだ・・」
「ほのかから逃げようなんて思うから。」
「うん、そうか、無駄か。」
「無駄だよ。諦めなさい。」
「ほのか」
「なんだい?」
「”二度と此処へは来るな”なんて言って悪かった。」
「此処は、なっちだけのおうちじゃないんだからね。」
「いつから?」
「制服を脱いだその日からほのかのお家でもあるの。」
「そうか、だから脱いだんだな。」
「今頃気付いたの?鈍い男じゃのう!?」
「うん、そうだ、鈍いんだ。だから・・」
「だから?」

「ここにいてくれ。”二度と一人になりたくない”」
「当然なんだけど・・”了解!”」

重なった唇はまたひりひりするだろうか。
喉を熱くして息が弾むのかな。それでも
世界が廻るためには必要なことなんだとわかった。







ほのかは高校生になって色気が増し、大いに弱る大学生の夏。