「風は翠」 


ぐるっと地平線が見えるなんて初めてだった。
あんまり気持ちよくって履いていたものは放り投げた。
思い切り走ってみた。風が後押ししてくれて舞い上がりそう。
草ばかりと思っていたら小さく花が揺れているのを見つけた。
可愛らしいから摘むなんていけないかなと思ったけれど
よく見ると他にもちらほら、思いのほかたくさん生えていた。
なので一本だけ失敬して、それを身体の後ろに隠した。
律儀に私の履いていたミュールを持ってやってくる人を見た。
のんびりした歩調のその人をじっと見詰めながら待った。
お花をあげたらどんな顔するかなって、わくわくしながら。


ほのかは喜んだ。予想通りの反応でほっとする。
天気も上々で、心地よい風に自分も吐息を洩らし空を仰いだ。
案の定ほのかは靴を放り出して走り出していった。はしゃいだ声を纏って。
気持ちはわかるのでオレも脱いでしまおうかと思ったがやめた。
荷物が増えるからだ。ほのかの履いていたものを拾い上げて後を追った。
あとで弁当を食う場所に戻って、オレも裸足になろうと思いながら。
追いかけずにのんびりと声のした方を見ると、ほのかは花を摘んでいた。
それをオレに隠すように背中に持っていったが、丸見えなので可笑しかった。
驚いてやるべきかどうか悩んだ。けど、どちらだって怒ったりしないだろう。
それくらい穏やかで何もかもどうでも良くなるほど風は優しかった。


目の前まで来ると、ほのかは摘み取った花と同じ色の頬をしていた。
思わず口元が弛む。だらしなくて自分が嫌になるほどその色が目に染みる。
風が弄んだ髪のせいにしようなんて思いながら、その頬に釘付けになる。
同じようにオレをじっと見つめる瞳も今にも笑い出しそうで、釣られてしまう。
オマエも摘んで欲しいのかよなんて心の中で呟くと花は目の前に差し出された。

「ハイっ!あげるっ!!」
「・・これをどうしろって?」
「えっ!?えーと・・とりあえずもらってよ。」
「ふーん・・持って帰るつもりか?すぐに萎れるぞ。」
「むー・・なんてロマンのない・・」
「それとどういう関係があるんだ?」
「なっつんてこう、もう少しろまんちっくを学ばないと。」
「そんなものいらん。」
「もうあげない。これほのかのにした。」
「すぐ萎れるって・・」
「べーっだ!」

盛大なあかんべをして、ほのかはくるっと向きを替え走り出した。
それほど気分を悪くしてはいないらしい。笑い声がしたからわかった。
白いスカートの裾が舞う。たまに風が吹いて高く舞うとどきりとする。
見えそうだな・・と思わず眉を顰めた。見えていいのか悪いのかと考えた。
これもどちらでもいいということにした。考えるのがバカらしくなって。
やっぱオレも脱いじまおうかな・・とそっちを悩んでいると・・こけやがった!

「はぁ・・転ぶんじゃないかとは思ったが・・」

泣き声も悲鳴も聞こえなかった。怪我でもしてないかと駆け寄ると、
こけたのではないらしい。寝転んで手足を伸ばし、大の字で呑気なもんだった。

「気持ちいい〜!・・お昼ねしちゃおうか、なっつん。」
「・・そうだな・・確かにそんな気分になるな。」
「おおっなっつんが素直だ。」

ごろりとオレも寝転がってみた。ほのかが驚いてひょいと覗き込んだ。
だが嬉しそうに笑った後、再び元通り仰向けになって、「ふー・・」と息を吐いた。
しばらく何も考えずに空を眺めた。雲は風に吹かれて薄く綿を引き伸ばしたようだ。
こんなにのんびりしたのは久しぶりだ。ほのかの能天気がうつってしまった。
しかしほのかと違ってオレはこんなところでは眠れない。ふと気になって様子を見た。
目を閉じて、本当に昼ねをするつもりなのだろうか。そっと覗き込むが動かない。

「なぁに〜?影になるじゃんか、どいてよなっつん。」
「なんだ、本気で寝てるのかと思ったぜ。」
「・・寝そうだけどね・・」

ほのかはそう言ってまた目を閉じてしまった。手元に零れていた花を摘みあげた。
その淡い色の花びらを猫じゃらしみたいにほのかの頬の近くで振ってみた。
くしゃみでもしやがるかなと思いながら、そうっと軽く触れるか触れないかの所を。
しかし期待に反し、ぱかりと目を開けたほのかは目の前の花にさらに目を丸くした。

「わあっ!なっつん何イタズラしてんの!?」
「くしゃみでもするかと思ったんだが。」
「そりゃ残念だったね。なっつんが無邪気だぞ。可愛い!」
「なんだと?!取り消せ。じゃないとくすぐるぞ?」
「ぷぷ・・いいよう!すればあ!?」
「ツマンネェな。やめた。」
「あれま、お兄さんもっと遊んでよ。」
「誰がお兄さんだ。」
「嬉しそうな顔して?」
「うれしかねェよ。」
「ふふ・・あはは・・なっつんてなんて可愛いんだ!!」
「このっまだ言うかよ!」


憎らしい口をふさいでやった。驚いてはいたが、抵抗はなかった。
オレの髪に手先が触れた。ゆっくりとほのかの腕がオレの首に巻かれる。
風が揺らす草の音しか聞こえなくなった。それも次第に遠ざかってゆく。
夢中になっていたんだろう、二人で。耳にはほのかの吐息しか聞こえない。
軽い抵抗を感じて長いこと重ねていた唇を離すと、閉じられていた瞳が開いた。
花よりも濃い色に染まった頬をしているくせに、オレをきゅっと睨んだ。

「・・んだよ、怒ったのか?」
「・・何しに来たの?」
「じゃあ続きは帰ってから。」
「そうじゃなくって!!」

ほのかを身体を起こすついてでに引っ張ってやる。勢いでオレに凭れ掛かる。
怒っているのかと思えば、そのままオレにしがみつくので少し意外だった。

「なんだよ、止めるんじゃないのか?」
「・・・・」
「返事がないってのは・・続きを要求してるんだな?」
「ちがう・・けど・・ちが・・くもない・・」
「珍しいな。」
「あんまりその・・ここが気持ちいいから、仕方ないんだよ。」
「・・言い訳を横取りすんなよ。」
「なっつんもなの?なら、許す。」
「へェ・・?」
「ちょっ!違うちがう!さっきのことをだよ、押し倒さないで!」
「嫌じゃないんだろ?」
「イヤだよ!こ、こんなとこで〜・・・」
「誰もいねえけど?」
「なっつん〜!もうちょっと前のなっつんに戻って!」
「無理言うな。」
「だって・・・」
「わかったわかった、もうしない。」
「う、ウン。ここではね?」
「そう、ここでは。」

ほっとした顔なんかするから、嬉しくて胸の奥まで染みる。
何もかもがここにある。零れ落ちそうなほどの幸福も。
小さな指がオレの手に触れた。握ってやるとまた頬を染めて。
なんでそうオレを喜ばせるのがうまいんだろうな、と溜息を吐いた。
二人してのんびり空を見上げた。どこかで鳥の声がしてほのかが笑った。


差し出したはずの花をどこかへなくしてしまったの。
そう呟いたら、もうもらったからいいんだと言われた。
見せようとしてたところを見てたって、それでいいんだって。
なっつんは私に甘いんだから。甘やかすのがとても上手。
お花にかわいそうなことしたかな、と思ってごめんねと謝った。
さわさわと風に揺れてた。なっつんは髪を撫でてくれた。
また来たいとねだった。約束してくれて嬉しかった。
二人で見た青い空も、風に光る翠も、花たちの優しさも忘れない。
繋いだ手のあったかさも。唇に残る余韻も。お弁当も美味しかったね。

「夢に見てた場所よりずっと素適だった。」
「そうか、よかったな。」
「だってなっつんがいるもの!」

そう言うと目を細め、嬉しそうに微笑んでくれた。
夢に見てた、そして叶った。ありがとうと私も微笑んだ。