「 If 」 


別段胸騒ぎもなかった。つまらない理由だろうと思った。
ある意味正解だったがその日ほのかは顔を見るなり抱きついて
大声で泣き出した。訳はもちろん知らない。慌てて連れ帰った。
普段ならお茶でも飲んで一息吐けば収まるのにしがみついたまま
玄関で靴を脱げと言っても首を振って余計に強く抱き締めてくる。
そこらでようやく大事だったのかと不安になりそっと頭を撫でた。

「・・・一応家の中だ。気の済むまで泣いてろ。」

ほのかが落ち着くのを待つつもりでそう言葉を掛けた。
長いことしがみついていられると落ち着かないのはこっちだったが。

「・・・ゴメンよ、怖かったんだ。これって現実だよね?」

鼻を啜りながら零した声は恐怖の欠片を含んでいて生々しい。
仮に特定の誰かが原因ならそいつを地獄に落としてやるくらいは容易い。
しかしそういった懸念は直ぐに払拭された。ほのかがようやく顔を上げ、
説明をする気になったらしい。おそらく要領を得ない説明だと覚悟した。


「・・・・タイムスリップだと・・?」
「なっちなんだけどなっちじゃなくてね?!怖かったんだよう!!」
「待てよ、それって夢なんだろ?」

夢見ごときでここまで怯えるとは尋常じゃないが本人は至って真面目だ。
学校で部活後のためくたくたのほのかは着替えのあと居眠りしたそうだ。
あっさりと目覚めると辺りの様子がおかしい。学校ではなかったという。
要するに未だ夢の中だったのだが、現実と勘違いするほどリアルだった。

「見たこと無い場所でさ、外国みたいなんだよ!焦ったよ〜!」

おかしいと慄きつつうろついていると不穏な輩にからまれている子供を見た。
例によって弱いものいじめするなと飛び込んだほのかは当然標的にされる。
危ないところを助けた男というのが・・・俺にそっくりだったという。

「そしたらねえ、びっくりだよ。人違いだったの。」

そいつはほのかのことを自分の知り合いと勘違いしていた。行方がわからず
探しているという。とりあえず言葉も通じるとほのかはその男について行った。
自宅はうちと張るくらいデカイ邸だったそうだ。そこで写真を見せられると
ほのかはまた驚いた。自分そっくりの女が眼の前の男と一緒に笑って見ている。
男が探しているほのかそっくりの女のことを、そいつは「妻」だと言った。

話があまりに長いので玄関先から居間に移動することにした。
お茶を淹れて飲む頃にはいつも通りに落ち着きを取戻していた。

とにかく帰りたくてもどうすればいいのかわからず日も暮れていたので
食事と一晩の宿を借りた。妻を心配する男を逆に励ましたりもしたそうだ。
目が覚めると学校だったというオチだ。怖くなって走ってここへ飛んできた。
小一時間ほどしか経っていなかったらしいが、ほのかは当然もっと長く感じた。
あのまま帰れなくなったらと思うと怖さで中々眠れなかったと身震いした。
タイムスリップか何かそういう体験をしてしまったのかと思ったのだった。

「そういうドラマとか漫画とか見たんじゃねぇのか?」
「見てないよ、ほのか普段からそんなに見ないしさ。」
「ま、タダで映画出演したとでも思っとけよ。」
「それはこうしてるから思えるんだよ・・もしもって考えたら」

ほのかが怖かった一番の理由は知らない場所を行き来したことよりも
そこに「俺」と「ほのか」の存在がないかもしれないと思ったことらしい。
当然だがそうなると「出逢い」もない。怖ろしくて戻りたくて堪らなかった。
思い出すとまた恐怖を感じたのか、ほのかはじわりと目を潤ませた。

「どうしよう、なっち。今晩寝るのが怖い。もしまたあっちに・・」
「ないない。あったとしても目が覚めれば戻ってるんじゃねぇか?」

「なっち・・・今晩泊めて!ほのかのこと見張っててよ!!」
「はあっ!?・・・バカなこと言ってんなよ。そんな・・・」

思った以上に深刻なのだろう。それなら親に頼めとなんとか説得した。
家まで送っていったとき、ほのかの親に打ち明けると莫迦にせず引き受けると言った。
別れ際、ほのかは俺に必死な顔付きで言った。「どこにも行かないでね。」と。

「行かない」と約束をした。「もしも」だなんてばかげたことではある。
ほのかがそんな恐怖に取り付かれた原因をふと思う。思い上がりだろうか、しかし
俺がどこかほのかの手の届かない場所へと、足を踏み入れて帰らないことは
「有り得ない」ことではないからだ。一度は書置きをして別離をほのめかした。
結局そうできずに戻ったのは俺の甘さだとわかっている。ほのかにも甘えた。

「もし」俺がほのかと出逢わなかったら、今こうしていただろうか。
兼一との邂逅、闘う理由、これからのこと。何もかもが違っていたかもしれない。
ほのかの日常の平和を思うとどちらが良かったのかと迷いが生じることもある。
しかしもう遅い。出逢う前のどちらも存在を知らない時へは戻ることはないのだ。

ほんとうは

この身を隠してしまいたかった。武道だけを共にしてただの一人で。
関わることが怖かったからだ。それが俺の弱さそのものかもしれない。
何もないと教えられて直観する。関わりのない世界など存在しないのだ。
俺はどうしたい? 兼一のようにはとてもじゃないが生きられない。
師父のように流離いの武道者にも、友達だなんだと群れの中に飛び込むことも。
どっちつかずの愚か者。かつては確固としていた自分というものを失くした。

ほのかにどう言えば安心させてやれただろう?以前「またな」とだけ書いた手紙は
書き残すかどうかも悩んだ。何を書いても嘘になるのではないかと便箋を睨んだ。

「あの『またな』ってどういう意味よ?」

「そのまんまの意味さ、また会ったろ。」

三文芝居もいいところだ。兼一も新島も気付かないはずはない。
どんなことになってもほのかは裏切れない、それだけが唯一確かなことだった。
卑怯でも莫迦でも・・・・俺は

ほのかからだけは逃げられないのだと思い知った。あのときから
この選択はほのかの不安を煽ったのかもしれない。黙って消えたりはしない。
けれど別れは無いとは言えなくなった。幸せを他の誰より祈っているとしても。
嘘はいくら重ねても同じだ。真の答えはほのかにしかわからない。


翌日、心配していたような事態にはならなかったらしい。
ほのかは恥ずかしそうに、そして嬉しそうな顔でやってきた。

「やー・・心配かけたね。もう大丈夫さ。」
「久しぶりに親に甘えて満足したんだろ?」
「ごほん、ま・それはともかく。なっち、お返しとお礼。」
「なんだそれ?」
「なっちだってたまには甘えたらいいと思うんだよ。だからハイ!」
「はいと腕を広げてるのは、まさかお前が・・?」
「他の人じゃあなっちは素直にできないでしょ、だからおいで!?」

「・・・・俺がそんな子供に見えるのか?」
「ノンノン、大人子供男女関係なし。誰でも甘えていいんだから。」
「・・・・」
「誰だっていいんだよ、相手は選ばないとだけど。なっちの場合はほのかさ。」
「お前・・」
「知ってるよ、なっちがほのかのこと女だと思ってないことくらい。」
「・・・・」
「だけど譲らないよ。あっちの世界でもね、なっちの顔した人は奥さんが大事だった。」
「俺は」
「大事に思われてるって知ってる。だから、ね?いつでもほのかが抱き締めてあげる。」

躊躇していたのではなく呆然としていた。どこか現実でない気すらして。
どちらが現実かはもしかすると無意識に選んでるのだろうか。俺が選ぶのは


腕を広げて俺を待っているほのかに手を伸ばす。一瞬も迷わずに抱き締めた。

ほのかの腕は優しく背中を上下した。忘我しそうな心地良さに力がこもる。
何も言わないほのかは俺の腕の中で子供のような安心した顔を覗かせた。

「どんなことがあってもほのかなっちを待ってるから。忘れないで。」
「・・・ああ、わかってる。そんときは『またな』としか言わない。」
「そうだよ、絶対にまた会うってことでしょ?!許さないよ、お嫁に行き遅れちゃヤダし。」
「嫁って・・そこまでは約束してないぞ?」
「どうせ他の女なんか無理。ほのかにしときなよ、そのうちイイ女になるから。」
「怖え・・現実になりそうな気がする。」
「なるもん。絶対。ほのかはなっちがいいんだから。」
「兼一が駄目だと言ってもか?」
「お兄ちゃん?!なんだ、そんなこと気にしてるの?だいじょぶでしょ、美羽がいるから。」
「へぇ・・あんなに悪口言ってたのに風林寺も出世したな。」
「お兄ちゃんをとっちゃうんだから多少はしょうがないんだい。」
「なら俺もアイツにお前のこと文句言われてもしょうがないな。」
「うん、そーゆーこと。」


俺は笑った。珍しいとほのかが目を丸くする。可愛いから頬に口付けした。

「なにすんの!?乙女の肌にやすやすとそういうことしちゃいかんのだよ!」
「そんな安くねぇ。俺の場合随分待たされるだろうからそんくらい許せよ。」
「・・・納得していいのかどうか迷ったじょ。えっと〜・・怒るとこかな?」
「怒るなよ。甘えていいんだろ、お前になら。」

ほのかはまた少し驚いた顔をして「素直でよろしい」と笑った。眩しく弾ける。
そうさ、俺たちはどの世界でもきっと出逢う。もう離さなくたっていい。







恋も種は落ちてると思うんで、いつか芽生えて育つ日を待ってる、そんな感じです。