日々の挨拶 


 ぱたぱたと尻尾を振る仔犬のようにやってくるほのかを
夏は読みかけの本を脇に退け、内心可愛いと思いながらも
ポーカーフェイスを崩さないままで迎えた。待ち合わせは
ほのか指定のカフェ。そこの外にあるテラス席で待っていた。

 「なっちー!」と呼びながらテーブルまでたどり着くと、
ほのかは席に座らず夏を正面から両手でとらえ挟み込んだ。
どうしたと尋ねる暇も与えず、ほのかがしでかしたことに
ポーカーフェイスは崩れ、夏はぽかんとして目を見開いた。

 強く押し付け過ぎのせいか、ほのかの唇は弾力的だった。
夏が事態を把握したとき、くらりと目が回ったことも確かだ。

 定かではないが、数秒間二人の唇は重なっていたと思われる。
人目どころか場所も考慮されず、前後の脈絡もない暴挙だった。
押し付けた時と同じくらい勢いよく唇が離れていった。呆然とした夏と
対照的に、ほのかはふうと息を吐いた後満足気に口角を上げて笑った。

 「よーっし!やったーっ!大成功!!」

 意味がわからない。夏はほのかの制服のスカーフを片手で握った。
やや乱暴に手前に引いて、バランスを崩したほのかがつんのめる。

 「あれっ?!なにすんのさ、もしかしてもっと?」
 「こ・・・この・・大バカもんっ!!」

 公衆の面前で堂々とキスを披露するとは!?の言葉は飲み込んだ。
周囲の興味深々な視線を受け、夏は椅子をひっくり返す勢いで立ち上がり、
飼い犬の首輪を掴んで引っ張るような格好でほのかをレジへと連行した。
猛烈な勢いで清算を済ませ店を出た。その間もずっとほのかはスカーフを
捕まれらまま、引きずられるように夏に引っ付いていた。きょとんとして
大きな眼を見開いてはいたが、特別不服そうな顔はしていなかった。

 夏が何処まで行くのかとほのかが不安を覚えた頃に路地を曲がり、
いい具合に人目につかない場所に出たので解放されることとなった。
 
 「乱暴だなあ!ほのかお茶するヒマもなかったじゃないか。」
 「乱暴だ!?そいつは俺の台詞だ。お前何したかわかってんのか!?」
 「あんなにじっくりしてあげたのにわかんなかったってゆうのかい?」
 「ふざけんな!怒るぞっ!」
 「もう怒ってるじゃん。やだなあ・・ちゅーくらいでさ。」
 「ほのかっ!ちゃんと説明しろ。」
 「何を説明するの?”挨拶”をしたんだよ。」
 「誰だ。またあの宇宙人の入れ知恵か、それとも」
 「NET授業のオリバー先生。ちゅーは挨拶なんだって。」
 「ここは日本だっ!あれは挨拶なんかじゃねえっ!」

 そこでほのかは両手を天に挙げて米国風の呆れポーズをしたものだ。
イラついた夏に拳骨を食らってしまい、涙目になって頭を押さえた。
 
 その後夏の自宅までの道すがら、ずっとほのかに説教が施された。
但しほとんどほのかは耳に入れていない。家に着いてお茶を飲む段になり
やっと夏の気持ちが落ち着いた時、ほのかは何故か再び夏の頬にキスをした。
危うく茶器を落としそうになった夏だったが、なんとか最悪の結果は回避し、
悪びれずにお茶を呷るほのかに非難とも取れる複雑な表情でもって告げた。

 「お前・・今のも”挨拶”なのか。何を企んでやがる。」
 「なっちはちっとも喜んでくれない。ほかの人にちゅーすればよかった。」
 「なっ・・!?」
 「今日は”キスの日”なんだよ。だからなっちに最初にしたげたのにさ。」
 「最初だと!?なんなんだよ、そのキスの日ってのは・・」

 くだらないことが好物なのは何もほのかに限った話ではない。好奇心の強い
思春期まっさかりならばたいていちょっとくらいは興味を持つようなことだ。
しかし夏はそういった判例も世の中のムードも一切合切どうでもよかった。

 「次に誰を襲うつもりだ。知ってるか?それって犯罪だぞ。」
 「おにいちゃん。しぐれ。あぱちゃい。秋雨と・・傷ぽん。でもって・・」

 バシンと大仰な音を立てて夏の片手がテーブルに落とされた。
驚いて茶器の並ぶ高級そうなテーブルを繁々眺めたほのかだったが
ひびが入ったかはわからぬまま後ろのソファへと居住まいを正した。

 「今日は日が暮れるまでここにいろ。どこへも行くことは許さん。」
 「ええ〜・・・!?・・・でも帰ったらおにいちゃんにだけは・・」
 「兼一には俺が話を付ける。お前携帯で今すぐに兄貴を呼び出せ。」

 さすがに文句を言おうとしたほのかだが、夏のあまりな迫力に押し切られた。
コール中の携帯をひったくり、兄の「どうした?ほのか」という呑気な声がした。
電話の兄の声が殺気を感じて怯えだすのをほのかは見守っているしかなかった。
会話は短く終了し、携帯はほのかに返却された。ほのかは恨みがましい顔をして
夏を上目で見てはみたものの、夏は動じることなく険しい顔のままだった。

 「どうせ師匠たちはさせてくれないと思うよ。剣星のおいちゃん以外はね。」

 ほのかの言い訳が始まって剣星の名が出たときにはぴくりと反応した夏だが
話を最後まで聞いてからと思ったのか、口を引き結んでほのかに先を促した。

 「だから師匠たちはついでみたいな感じ。したかったのはなっちだよ。」
 「お兄ちゃんもどうせダメって言うだろうなって思ったしさ。そんでね」
 「今日はちゅーをしてもおっけーな日らしいし。なっちにリベンジなのさ。」
 「前にちゅーしたことあるかどうかきいたら教えてくれなかったじゃん!?」
 「これは前にしたことがあるのだなってほのかわかっちゃったからくやしくって」
 「ほのかも負けないくらいたくさんちゅーしちゃえっ!・・って思ったのだよ。」

 「でも・・いやだったんなら謝るよ・・ごめんなさい。」

 話はそこで終わったようで、ぺこりとほのかは頭を下げた。そしてまた顔を上げ
説教モードがどうかなるべく短く終わりますようにと祈りながら夏の回答を待った。

 「嫌だったから怒ったんじゃねえよ。」

 予想して身構えていたほのかだが、夏の返した声は意外に優しかった。
おやっと目を瞬いた。相変わらずむすっとしてはいるが、怒っていないようだ。
なのでほのかもようやくほっとした。少々緊張していた体から力も抜いた。

 「だが師匠たちをからかうような真似はするな。兄貴も・・勘弁してやれ。」
 「うん、わかったよ。でもなっちとはもうちょっとしないと。」
 「俺は過去にキスしまくったなんて話はしていないぞ。」
 「会長さんとあと誰だか忘れたけどなっちはいっぱいしてそうだって言ったよ。」
 「ははあ・・・にしても呆れるぜ、毎度毎度・・何でもかんでも信じやがって。」
 「じゃあと何回したらほのかの勝ち?!」
 「勝ちってなんだよ。数か?そんなもの競うもんじゃないぞ。」
 「それはそうかもだけど・・」
 「つまりお前の気が済めばいいんだろ。」
 「うん?」

 立ち上がった夏が自分に覆い被さったのは一瞬で、唇を奪われたのもそうだ。
テーブルに片手を置いて乗り出した夏を座っていたほのかは目を見開いて見た。
落ちた夏自身の影にすっぽり包まれた瞬間どきっとしたのは勘違いではない。
あまり意識していなかった体格の差を目の当たりにしてちょっとぞくっとした。
ほのかが押し付けた時とは違って触れた感触はまるきり違う。何故かぬるっとして
変だなと感じた。濡らされた唇の訳にはまだ気付かない。ほのかはぼんやりした。
目を開けたままだったのだが視界がぼやけると同時に頭も白くなってしまったのだ。
ぼんやりとした視界、意識の次は感覚。生温くてきっと意識がぼやけていなければ
不快ではないかと思う感触に背筋がまたぞくぞくとする。夏のもう一方の手が頬を
撫でたのでびくっと体が揺れた。顎に滑るように降りた手がそこを軽く持ち上げた。

 「ん・・」

 一度離れたので大急ぎで息をした。知らない間に止めていたらしい。しかし
すぐにまた覆われ息を呑む。変な声が喉から漏れた。いつしか目蓋を下ろしていた。

 ”なんだろう・・これ・・・へんなの・・・キモチいい・・のかなあ・・?”

 されるがままにされているほのかが無意識に反応を返し始めた。そこでやっと
踏ん切りを付けたらしい夏が名残惜しげにほのかから唇を離した。目尻に涙が光るのに
気付いてそれをぺろっと舐めた。ほのかはまだ何をされていたのかわかっていなかった。
ふやけて蕩けそうな上気したほのかの焦点の定まらない両眼を夏はじっと見ていた。
見ていると徐々に眼が夏を捉え出した。目線が合うとほのかははっとして我に返った。

 「なっち・・?!」
 「これに懲りたらバカなことは止めろ。」
 「懲りるって?今のって”キス”だった!?」
 「わけもわからんままだったのか。」
 「なっちってば今みたいなのどこで覚えたのっ!」
 「こんなこと初めてした。」
 「ホントに!?だってなんか・・えええええ!?」

 ほのかは自分の頬を両手で挟むと、恥らうようにぽっと顔全体を赤らめた。

 「変だ。なんかほのかがしたのとぜんぜんちがうし!それにさあっ・・」
 
 自分の身に起こっている状態を説明しようとしていたほのかはそこで固まった。
口も開いたままで目に映った光景に心を奪われていた。夏が顔を真っ赤に染めて
途方に暮れた風に立ち尽くしていたのだ。ほのかは初めて見たかもしれなかった。
小さな子供が悪いことと知らぬまま悪戯をしでかし、意味を知って呆然としている。
ほのかはそんな気がした。多少身に覚えのある懐かしい風景と一緒だったのだ。
当惑する夏にソファから腰を上げて近づいてみると、さっと後退りされてしまった。

 「なっちもくらくらしてどきどきしたの?ほのかはちょっと落ち着いたけど。」
 「!?!・・・そっ・・いや、うん;しかし・・」
 「えーと、上手だったのじゃない?・のかな。それともやり直すかい?!」

 夏はぶんぶんと大げさに首を横に振った。さっきキスしてきた男とは思えないほど
狼狽している。しかしそのおかげでほのかはなんとなく気持ちが軽くなったようだ。

 「なっちもしたことなかったんならよかった!ねえ、またしようね?!」
 「っ・・まだ懲りないのかよ!お前・・」
 「懲りるってなんで?なっちとほのかはこれからいっぱいするんだよ!」
 「どういうことだ。」
 「そうじゃなかったらがっかりだよ。なっちにはほのかだけにしてほしいの。」
 「・・・・俺は・・・俺もそうしろって・・・」
 「わあっ!よかったあ!?うん、ほのかもなっちとだけするよ!ねっ!?」
 
 夏の目の前でほのかが嬉しそうな声を上げ、腰に抱きついた。おずおずと夏は
手を伸ばしほのかの髪を撫でた。さっきはまるでそうするのが当然のようにして
ほのかの唇を奪ったというのに。いったい何がそうさせたのかが理解できていない。
ただ、ほのかがほかの男にそうされるのだけは許せなかった。断じて、どうあっても。
ほのかが顔を上げてにこにこと夏を見上げる。可愛い。口にしたことは一度もないが。

 「・・人前でするのはなしだ。ほのか。いいな?」
 「らじゃっ!じゃあふたりだけのときだね。」
 「そうだ。誰にもするんじゃねえ。していいのは」
 「ほのかとなっちだけ。わかってるさあ!」
 「わかってりゃ・・いい・・」


 『キスの日』でなくてもいいかとほのかが尋ねた。夏はそんなもの関係ないと
言うのに安心したほのかはじゃあもうそんな日はいらないねと言って又笑った。
その後ほのかは挨拶みたいに会えばするっていうのはどうかという提案もした。
そういう時は軽くほのか式でするという決まりも作られた。
 
 「ただし押し付けすぎたらダメ、と。らじゃらじゃっ・・それでもってえ」

 夏式のは特別な場合のみ、とした。少し不満そうなほのかに夏が真面目に訴えた。
危険だからよほどの時じゃないといけないのだと。では先程は余程だったのか?
 
 「そうなんだよ。だから・・あんまりせがむなよ。」
 「ちえっ・・今からもう一回ってリクエストしようと思ってたのに。」


 ほのかの言葉に夏はぞっと青ざめて身震いした。不思議そうなほのかに

 「特別だって言っただろ。じゃないと・・お前が危ないんだからな。」
 「よくわかんないけどなっちが困るんだね。まあいいよ、ほのかは。」

 大人しく譲ったがほのかは”困ったってたまにはおねだりしていいよね?”と考え、
”っていうかしたくなって堪らんことになりそうで・・そっちが怖えぜ!”と夏は思った。









※6/17ラスト一文の「夏は」が抜けてましたので訂正しました。ごめんなさい。

夏君は自分のしでかしたことにのた打ち回ってその晩寝られなかったのは言うまでもありません。