春の嵐 


 ”桜が嫌いだ” 彼はそう言った。


風が強くせっかくの花は吹雪となって舞い踊る。
それなりに幻想的で心捉える光景であったけれども
冷たい風に散りゆく花の儚さが寂しさを呼び起こす。

桜の木々が咲き誇る季節の狭間は殊に短く、それが
辛いと観る人は彼に限らずともあるかもしれない。

 「・・髪が伸びたな・・」
 「・・え?あ、ごめん。何て言ったの?」

 尋ねたが彼は答えない。なんでもないと流された。
口を噤むと背を向けて歩き出した。歩みは速くない。
追いかける背中は遠い。身長の差もあれ昔はそれ程
遠いなどと思わなかった。この距離は心の隔たりだ。

私が髪を伸ばすことを彼は歓迎しなかった。さっきの
言葉は髪のことを言ったのかもしれないと思い当たる。 
風の強さで桜の花と一緒に髪が盛大に揺れているのだ。
妹さんを思い出しているのかもしれない。花もその人を
彷彿とさせるので・・だから嫌いなのかもしれない。

 ”私のことも嫌いかな・・比べるわけじゃないけど”

髪を切らないまましばらく経った後、そう思うようになった。
なんとなくだ。彼の孤独も苦しみも私には分かり得ず、
かといって遠ざける機会を失った。私も彼もおそらくは
二人で一緒にいることが心地よくなっていたからではないか。
いけないことなのだろうか、ぬるま湯に浸っていることは。
私は彼の重荷だろうか、負担でいることは躊躇われる。
黙り込む彼の背中に問いかける。いつも彼を待っている。
何処へ何をしに行くのか知らぬまま、彼は幾度も帰ってきた。 

 突然彼が振り向くと私に向かって寒くないかと問うた。
笑って首を横に振り、彼に駆け寄って距離を縮めた。
以前の私がよくしたようにその腕にすがったりはしない。
物分りがよくなったのじゃなく、単に気まずく感じるからだ。

 「寒くないよ。寒い?お花見誰もいなくなったね。」
 「ここは花見するにも座る場所もねえし・・寒い。」
 「寒がりだねえ、じゃあ帰る?」

帰ると言うと逡巡するのは彼の家か私の家か迷うのだ。
私は当然のように中学の頃毎日通った彼の自宅を思い
浮かべていたが、彼は違ったようだ。送ってはくれるだろう。
少しでも私と別れ難いと思ってくれたら嬉しいのだけれど。
期待すれどもそうではないと思う。顔色を見る限りはそうだ。

 「確かに風が強すぎてまるで嵐だね。」
 「スカートが・・なんでそんな薄着で寒くないんだ?」
 「スカートだけど、そんなのいつものことじゃない。」
 「・・・子供体温なのか、未だに。」
 「ふふ・・そうかもね。」

笑って誤魔化す。髪だけのことではなく彼は私のことを
いつまでも子供でいて欲しいような口ぶりをする。父や兄が
大きくなったなと感慨深そうに言うのと似た口調で言うので
ああ、大人になって欲しくないのかと感じるのも仕方がない。
大人でも子供でも私には大した違いではないのだけれど
彼にとっては大きな問題なのだ。二人の距離は広がるばかり。

 「子供体温であったまる?それとも確かめてみる?」

お茶らけてそう言ってみる。彼の手はポケットに収まったまま
ひょっとして今日は一度も外気に触れていないのではと思ったが
ぴくりとも動かない。落胆を大げさにそうと見せたりしない程度には
私も成長したのかもしれない。かといって大人にも成り切れない。

 「なっちの家でお茶したい。あったまるの。」
 「・・今日はだめだ。掃除してない。やっぱり寒いんだな。」
 「そういえば久しぶりに会うよね、お仕事忙しいんだねえ。」

あぁと気の無い返事をしながら彼は首のストールを外し差し出した。
私が寒いと気遣ってだ。断り切れずに受け取ると彼は川沿いの
桜の木々を見上げていた。釣られるように満開のそれらを眺める。
ハラハラと川面に花びら模様は広がり、まるで千切り絵のようだ。
埋め尽くされそうな勢いでも決して埋もれない。川も流れている
のだから。定まらない、落ち着かない、留め置けないものたち。

 「どこかであったまって行くか?」
 「ううん・・なっちの家がダメならいい。」

痛そうな顔をするのは卑怯だと思う。私とおんなじ。
二人の想いはどこでかみ合わなくなったんだろう。いつからか
というと私が恋と知った頃か。それは川面を彷徨う花びらより
一つ場所になく、自分でもどうする術もなく痛みだけは確かなもの。

 「嵐みたいだけど嵐じゃないものね。」
 「・・・帰りたくないのか。」
 「でも行く所もないしねえ。」
 「俺のところしか思い浮かばないのかと聞いたんだ。」

問いに足が竦んだ。それを聞くの?わかってて聞いてるの?
思ったことが顔に出たかもしれない。目は彼に縫い付けられ
反対に口は閉じられた。返事の代わりに首を縦に落とした。

 「なんで俺だ。ほかにもあるだろう、おまえなら。」

酷い言い草だ。ちょっともてるからっていい気になってない?
そんな風に責め立ててやりたいのに口は開かず足も動かない。
そろそろ振られ時だったのか。予感はあったのに無視していた。
こじ開けられ止めを刺されるのはこんな気分なのかと考えた。
桜の花びらの一片が目の前で川に飛び込んだ音を聞いた。

 「ほのか・・いまでも”帰る”って言うんだな、俺の家に。」

こくりと再び首を落とす。胸に痞えた何かが熱く苦しみを増す。

 「それが不思議だった。おまえには家も家族もあるってのに。」

いつの間にか向き直っていた彼が迷いなく真っ直ぐ見つめていた。
視線を交わすのも久方振りで、彼の深くて美しい瞳に酔いそうだ。
その瞳が熱い。胸奥と反応して焼け付くようで怖い。でもなぜ?

 「俺は家に帰りたくないと思わなくなった。おまえと会ってから」
 「否、出会ったからだ。俺はおまえをいつも連れて帰りたかった。」

 「・・・・・え・・?」

 「毎日手を振って帰ってゆくおまえを引き留めたくてもがいた。」
 「どうして俺の家にはおまえがいないんだと白浜も家族皆を恨んだ。」
 「兼一は欲張りだ。護りたい女がいるのにほのかもだなんて・・」
 
 「お兄ちゃんの悪口・・だめ・・だよ!」
 「おまえが一番好きなあいつが嫌いだ。」
 「なに子供みたいなこと言ってるの?もしかして・・桜は散るから嫌いなの?」
 
 「知ってる。俺は子供だ。だからやめたんだ。欲しがることを。」
 「欲しがってあたりまえだよ?やめてどうするの?諦めるの!?」
 「恨まずに妬まずにいるのは難しい。欲するのも諦めるのもだ。」
 「じゃあ・・じゃあどうしたいの?あなたは。」
 「待っていた。大人になって選べるようになるまで。」

 「私はこどもでもおとなでもどうでもいいって・・・思ってた。」
 
いつの間にか声が出ていた。気付かないまま想いが口から零れていた。
今度は彼が首を横に振った。否定した後もう一度私の瞳を覗き込んだ。
息まで苦しくなった。足が震える。一生懸命堪えても伸ばす手が揺れた。

その手を掴んだのは彼で、引き込まれて閉じられた。腕の中に。
これはなに?夢でもない。痛みがリアル過ぎる。ただ現実味も乏しい。

 「待ってた?あなたが?私のことを?」
 「俺だってまだまだ大人でもないがな・・」
 「私ね、帰りたかったんだよ。ずっとずっと」
 「俺が帰りたいのは家じゃない、ほのか。」


 それはやはり嵐だった。雨は降らずとも花の雪が降りしきる。
花びらは散って暖かい新たな季節を呼ぶ。力の限り、命ある限り
明日に向かって手を伸ばす。それでよかったのだ。それだけで。
帰ることができた。私と彼とが手を取って未来に旅立つために
この季節は避けて通れなかったのかもしれない。抱き合うと涙が出た。

涙が熱さを軽くしてくれ、寒さも拭い去ってくれた。笑顔になると
彼の瞳もまた潤んでいたことを知り、お互いの辛かった日々を想う。
それらもなんと愛しい日々であったことか。私たちの歴史はこれからが
始まりだったんだ。始まりのための助走の月日を過ごした。そうして
嵐はまた何度か襲うのだろう。手を握り合い、二人で乗り越えるために。







両方が片思いしていた日々。過ぎればそれも美しい想い出。
※4/12に数箇所改稿しました。