花の香り 


季節ごとに香る花のなかでも代表格なのかもしれない。
夏が過ぎ涼やかな風の吹く頃に金木犀は花を咲かせる。
街を歩けばそこかしこから漂う馴染みの深い香りの元。
しかし夏はそれらを特に好んでいたわけではなかった。

ただ ”ああ・・金木犀か・・”と思っただけだ。

花に埋もれたような気分だったが実際はそうではない。
それはほんの小さな花弁だったに過ぎず、髪に溶け込んでいて
誘われるように顔を近づけただけなのだ。なんとはなしに。

そして香りを確かめるように手を伸ばし、やんわり引き寄せた。
花の香りをまとった髪は柔らかく夏の手と顔とをそこに埋めた。
目を閉じ、髪に口付けるように顔を埋めたまま香りを確かめる。

夏がそうしている間、引き寄せられたほのかは混乱の渦中だ。
状況を把握するのに少々手間取り、包み込まれた腕の中で身を
硬くした。じっとする体の内は反対にやけに慌てふためいている。
つんと自分の鼻の奥が痛い気がした。何かの香りを思い出す。

ああ ”さっきの・・金木犀が・・”残っていたかと思う。

金木犀の咲く場所を猫のように潜り抜けたのはつい先刻だ。
だからといって、その花の香りを夏が好んでいたとしても
このような事態に陥るなどとはほのかに思いも寄らないことだ。
硬くした体が音立てる。内側からどんどんと扉を叩くかのように。
何故抱き寄せてこんな風に?包まれて一輪の花になったみたいだ。
頼りなく折れてしまいそうで、ほのかは言葉も出せずにいる。


「・・・大人しいな。」

ぽつんと声が落ちた。はっとしてほのかが顔を上向けると
夏がいつの間にか離れてほのかを頭上から見下ろしていた。

「だって・・なんだか・・」
「お前、近道して来ただろう。」
「うん・・早く来たかったし。」
「金木犀が凄いだろ、あそこ。」
「そうだよ、良い匂いだよね!」
「・・そうだな。」
「?・・好きなんじゃないの?」
「好きじゃねえよ、キツイし。」
「ほのかは好きだよ。ならどうして・・」
「金木犀かって確かめたかっただけだ。」

夏は嘘付きだがその言葉に嘘は感じられなかった。
ほのかは不思議そうに夏を見上げ、首を傾げる。
好きでもないのに香りを確かめて、そのためにあんな風に?解せない。
はっきりと答えが見えないのにほのかはどこか何かがおかしいと思う。
しかし言葉にならないので諦めた。解放されたことで動悸も鎮まった。


「なんでキライかなあ・・いい香りなのにさ?」
「しつこいな。どっちだっていいだろ、そんなこと。」
「すごく好きみたいだったもん!さっきのなっちは。」
「・・・・そりゃ・・・そうだろ。バカで助かるぜ。」
「ハイ!?いかんよ、そういうバカにした物言いは!」
「バカになんかしてねえ。ほんっとバカだな。」
「何度もばかばかと・・寛大なほのかでも怒っちゃうぞ!?」
「フン」

鼻で笑われてほのかは顔を赤く染めて怒った。にも拘らず夏は笑う。
ほっとしたような表情さえ浮かべ、ぷんと膨れたほのかの頬を突いた。

「きつくって臭いが・・秋が来たってわかる香りだな。」
「臭くなんかないやい!いい香りだよ!失礼しちゃう。」
「お前が臭いなんて言ってねえ。」
「金木犀がかわいそうだよ!臭いなんて言うなっ!!」
「ま、似てるけどな・・うぜーくらい主張するとことか。」
「ほのかのこと臭いって言ってるようなものじゃんか!?」
「くくっ・・・」
「もー許さないじょ!ちみなんてこうしてやるーーっ!」

笑う夏の首に巻きついたほのかはそのままぎゅっと腕を締めてみた。
夏の髪が波打つ黄金の穂のように見えた。美味しそうな気がする。
なのでそのまま抱き締めてお返しに夏の香りを堪能することにした。
夏は金木犀ではなかったが、鼻を擽る香りは悪いものではない。
真似るように顔を埋めると、ほのかの体がまた夏の両腕に抱えられた。
気付いたがそのまま抵抗せず、夏のことも解放せぬままじっとした。

しがみついたままなので思うように言えなかったが

「くやしい・・なっちは・・なっちもいいにおい・・」

ほのかの呟きは本気で口惜しそうなので夏は苦笑するしかない。
そうかと言って抱きすくめる。ほのかの体からも花の香りがして
夏は目を細め愛でるように背を摩る。花に埋もれた感覚が再び夏を襲う。

きょとんとした目つきのほのかが夏を覗き込む。覗いたほのかは
顔も耳も赤くて不思議そうな瞳がなければ誘っているかのようだ。

「なんだよ?」
「ほんとにキライ?」
「好きじゃないと言ったが・・キライじゃねえよ。」
「?わかりにくいこと言うなあ・・つまりどっち?」
「さぁな?」

誤魔化されて面白くないが再び体を包む動悸の嵐でほのかは黙り込む。
愛おしそうに抱き寄せる夏は何が好きでキライじゃないのかわからない。
ただ金木犀と自分は似ていると言ったことを思い出し、それは良しとした。

”確かめたかったって。好きみたいに抱っこしたのはほんとうで・・?”

「ああもーわかんない。なっちのおばか!」
「お前だって俺を抱かかえたじゃねえか。」
「ほのかはお返ししたんだもん。けどなっちはドキドキしてくれないでしょ?」
「してんのか?へえ・・」
「やっぱりバカにされてる気がする!」
「してねえってのに。どうすりゃわかるんだよ?」
「じゃあね、ほのかにどきどきして。香りをもう一回確かめてさあ!」
「えらい注文だ。マジで天然だな!?」

心なしか夏が照れたような顔をしたのだが、一瞬で見失った。
不満を露に唇を尖らせるとそこに何かが触れて目をぱちぱちと瞬いた。
なんだったのか考えているほのかの髪から夏は一片の花弁を摘んで見せた。

「こんなにちっちぇえのに・・誘いやがる。」

秋を告げるという山吹色の花を摘み、くるくると揺らしながら夏は言った。

「ねえ・・さっき何を確かめたの?」
「・・・まだ早いかなって・・な。」
「つんって当たっただけだけどあれもキス?」
「さぁ?そうかもしれんし・・違うかもな?」
「じゃあちゃんとしたのをしてよ。」
「ちゃんとって・・どんなのだよ。」
「そんなのわかんないけど・・」
「俺も知らんぞ、いいんだな?」

再びほのかの不満気に尖り気味の唇を夏の唇がつんとノックした。
それを合図にほのかは瞼を下ろしてみた。ただなんとはなしに。
すると遠慮勝ちに夏の唇がほのかのそれを包むのがわかった。
さっき香りを確かめるためにそうしたように優しくゆっくりと。
髪に埋もれる代わりに唇同士が崩れる。初めての感覚に背筋がぞくりとした。
それは夏もほのかも同様だったらしく、ぞくぞくとする感覚を持て余して
お互いの体で支えあった。幸いどちらもそのことで心のどこかが安息を得た。

一度ふわりと離れた二人が異常に近い距離のまま見詰めあう。

「金木犀って甘いの?」
「知らん。食ったことない。」
「だってなっちの髪の色と似てるよ?」
「そうか?あれはお前にそっくりだ。」
「じゃあ・・やっぱり・・すきなんだ。」
「確かめたいのか。」
「うん・・でもなんか・・どうでもいい」

とろんとほのかの両目が眠いときのように落ちると夏も目を閉じた。
鼻腔に花の香りを感じながら、舌でほのかの甘さを味わうために。
そして唇はどちらも花の波に漂うように揺れ続けた。




「・・いい香りだな・・」
「うん・・そうでしょ?」
「お前のことだ」
「なっちもだよ」




  埋もれたかったのはお互いの香り








季節ものですかね、これ。(汗)