がたんごとん 


 列車の振動とはどうしてこうも眠気を誘うのだろうか。
学校帰りにいつもの待ち合わせ。各々の自宅までたった二駅。
ところが今日だけはその二駅を幾つも通り過ぎて列車は走る。
終点には二人の行きつけの水族館があるのだ。といってもまだ
一度行っただけだが、気に入った片割れが行きつけに認定した。

列車は普通の各駅停車。扉が開けば当然止まる。しかし片割れの
ほのかは全く目覚める様子が無い。寝ていないもう片方の夏は
普段寝入ることなど滅多にないが、瞬時油断し、ふと覚醒した。

我に返って自分の醜態に気付くも無表情は崩さない。真っ先に
確かめた隣に眠るほのかは相変わらず気持ち良さげに眠っていた。
終点のアナウンスに列車が速度を落とすとようやくお目覚めだ。

 「起きたか。着いたぞ。」
 「ふ・あ?!ちゃんと着く前に起きたじょ!エライ!」
 「あー、エライエライ。」

おざなりの返事と共にハンカチを差し出す夏。あっと気付いて
ほのかは居眠りの功罪である濡れた口元をそれで急ぎ拭った。

 行きつけに認められた水族館は平日ということもあって比較的人も
少なめだった。部活がなくなったからと突然今日の学校帰りに行こうと
誘ったほのかはご機嫌で夏の前を歩く。どちらかというと引率者の夏は
意気揚々と歩くほのかの少し後ろにいることが多い。往路は特にそうだ。

仄暗い館内、ほのかはおしゃべりも小声ではしゃぐのは控えている。
展示に夢中になることもあるが、静かで穏やかなこの場所が夏にとっても
好ましかった。ひっそりとほのかの小さな背中のやや後方から覗き込むと
展示されている生物から瞳を輝かせているほのかへと視線を滑らせる。
時折ほのかが夏に何か話しかけようとして振り向くが、その度にさっと
ほのかから視線を前方へずらす。だからほのかと目が合うことはなかった。

 そんな折、ほのかが珍しくじっと夏の横顔を見ていた。
怪訝な顔で夏がゆっくりと目線をほのかに戻す。すると

 「なっちって時々・・天使みたいだねえ・・!」

感心するような、幻を見たかのごとき呟きが夏の耳に届いた。
女からの賛辞には辟易している夏でも不意を突いたほのかの
媚のない賞賛に戸惑うことがある。言葉に詰まった夏だったが

 「発光生物というか?」などと付け加えられると力が抜けた。
 「ヒトを未確認生命体にすんな!」とうんざりしながら返す。

動揺を隠さなくともほのかはもう他に気を取られてそこにいなかった。
らっこはどこだっけと呟きながら先を行くほのかを夏は溜息混じりに追う。
暗い館内を抜け、吹き抜けのある明るい展示場にラッコは展示されていた。
張り付くようにしてほのかはラッコの様子を見ている。好奇心の強い固体が
寄ってくると、嬉しそうに「元気かい?」と知人のように声を掛けている。
揺らぐ水、動物達の動きに起こる波。小さくまとめられた世界の中にも
不満に満ちた固体もあれば、のんびりと狭さを享受する固体もあるだろう。
そんなことを考えるとなんとなく夏は自分とほのかを思い浮かべた。

 「休憩しよっか?ほのか飲み物買ってくるじょ。」

ほのかがいつの間にかラッコではなく夏を見ていた。さっきと違い
見蕩れているのではなく心配が少々顔に描いてあり、夏は首を振る。

 「喉が渇いたんなら俺が買ってくるから待ってろ。」
 「・・もう今日は帰ろう、なっち。」
 「まだ全部見てないだろ?俺なら何も心配ない。」
 「心配してない。なっちとお茶したくなったから帰る。」
 「今から俺んちに来るつもりか?遅くなるからダメだ。」
 「遅くなるって連絡するからいいの。行こ!」
 「どうしたんだよ、いったい・・?」

無理やりに夏の腕を引っ張るようにして館を出た。ほのかの機嫌を損ねた
理由を推し量る夏だが、よくわからない。駅まで着くと腕を放したほのかは
意外に機嫌の悪い様子ではなく、夕刻が近く混んできた構内に文句もない。
いつもの学校帰りに似た雰囲気だった。やがて列車がホームに入ってきた。
帰宅する様々な人に囲まれ、二人は仕方なく車内の隅に立つことになった。

 「思ったより混むね〜!」
 「これから更に混むぞ。」

小柄なほのかは列車のすし詰めが苦手だが、夏が一緒なら平気だった。
うまい具合に囲んでくれるからだが、一つだけ難点を挙げるなら夏との
身長差だ。懐というか腹の辺りに顔が来るので会話がままならなくなる。
近過ぎて顔を持ち上げているのが辛いのだ。会話は当然途切れがちだ。
ギリギリで体は触れない。目の前で護られているほのかは夏のシャツを
くいっと引いた。

 「気分悪いのか?」
 「ううん、なっちいつもありがと。」
 「・・たいしたことじゃないだろ。」
 「けっこうたいしたことだじょ。」
 「そりゃどーも。」

涼しい顔で夏が顔を上げてしまうとほのかには何も見えない。
照れているのかと思っても確かめようがないのが悔しかった。
そこで夏の胴にぎゅっとしがみついてみた。さすがに驚いたらしい
夏が眉間にたっぷり皺を刻んで下を向いた。ふふっと笑みが漏れる。

 「何してんだ・・暑いぞ。」
 「ほのかは暑くないじょ。」
 「やめろ」
 「やめない」
 「放せよ」
 「やだね」

短い言葉の応酬をほのかは楽しみ、夏は一層眉間の皺を深めた。
目一杯腕で抱えても夏を抱きしめるところまでいかないほのかは
こういうときにしかできないことだとしがみつく手に力を込める。
甘えるように腕に捕まってくることも多いほのかだが、正面から
抱き合うようなことはない。夏もそれだけは意識して避けていた。
なのにこんな状況にあっては避けようもなく、ほのかの髪や腕、
弾力と柔らかさの混じる体と香りは紛れも無いほのか自身を伝える。
夏の腕は固定して車内の壁に貼り付けてはいる。夏も動かない。
意識はほのかに集約されてしまうため、尚更体は動かせなかった。

 「めったにないからセクハラしとくんだじょ。」
 「・・ヨダレ付けるなよ。」
 「立ったまま寝ないじょ、いくらほのかでも。」
 「どうだかな。」
 「ちぇ・・やっぱしなっちは天使様じゃないよね。」
 「おまえだって小憎らしいから天使じゃあないな。」
 「じゃあ悪魔?」
 「どっちかっていうとな。」
 「まあいいや、どっちでもなっちとお仲間さ。」 
 「俺とおまえが!?」
 「え?そうでしょ。なんで驚いたの?」
 「同じじゃない・・だろ。」
 「おんなじだよ。変なの。」

 がたごとと列車は揺れた。だが夏は動かない。ほのかもだ。
二人して黙ったまま、体をくっつけて揺られた。やがて大きな駅に
停車して人が多数降りると、席もまばらに空きすし詰めは解消した。
しがみついていたほのかも夏から体を放し、腕は所在無げに落ちた。
空いた席には座らず、二人はまだ無言のまま立っていた。

 「そういや・・どうして急に帰りたくなったんだ?」

夏の問いにほのかは不思議そうな顔で「なっちがつまらなさそうだった。」
と答えると今度は夏が腑に落ちない様子で「おまえは楽しそうだったぞ?」
お互いに噛み合っていないことに気付く。降りる駅が近付いていた。

結局二人の最寄駅を出て、なんとなくいつもの流れで夏の自宅へ向かう。
日は落ちて薄暗く、水族館の館内に似ていた。ほのかはそこで天使を見たと
告げ、勘違いだったと否定した。夏が詰まらなさそうだったから帰ったこと
など、夏にとって不可解なほのかの言動。押し黙ったままのほのかにも
違和感がある。おそらくほのかも噛み合わない原因を思案しているのだ。

 「ほのかなっちが楽しいことしたいんだ。」

 唐突に沈黙を破り、回答したのはほのかだった。自宅手前の路上
やっとわかったとばかりに誇らしげに。夏は「俺は・・おまえが楽しけりゃ」
それでいいと答えそうになり途中で止めた。それが間違いだったのかと。

 「いやなことガマンしなくていいんだじょ!ほのかにそう言うでしょ。」
 「我慢してた訳じゃねえ。俺は・・」
 「天使様じゃなくてよかったってほのか思ったの。いっしょがいいの。」
 「?・・飛ぶなあ・・それとどう繋がるんだよ。」
 「ぜんぶいっしょ。なっちといっしょがいいんだってば!」
 「わからん。悪魔でも、とか言ったか?」
 「うん、なっちとほのかでここにいてよかったってことだじょ。」
 「なんか・・おまえ・・俺のこと・・・」
 「すきだじょ?なっちだってすきでしょ?」

 話は繋がらなかった。ほのかの中では全て同じことらしいとだけ理解した。
ただすきだと云われ、夏もほのかをすきだろうと肯定されたこともわかった。
もう地上に降りているというのにがたごとと列車に揺られている心地がした。
ぼうっとして地面に固まって立つ夏は実際には揺れてなどいない。そこへ
ほのかはととっと走り寄り、鞄を放り出してしがみついた。車内のように。
鞄を持って列車の壁に繋げていた夏の腕は思考するより先にほのかを受け止め
大事そうに囲う。そのことにほっと溜息が落ちた。夏の胸と腹の辺りにだ。

 「怒らないの?セクハラだじょ?」
 「これはそうじゃねえ・・ばかだな。」
 「そっか。ならよかったじょ。」
 「調子狂うんだよ、おまえは。」
 「ほのかのせい?」
 「そう、居眠りしたり、煽てられて舞い上がったり・・かっこわりい。」
 「かっこつけてばっかおるから疲れるのだじょ。ほのかに見せなさい。」

 格好の悪い夏が好きだとほのかはダメ押しのように笑顔で胸元に囁く。 
天使でも悪魔でもない、夏を好きだと囁くほのかを夏は初めて抱きしめた。

 「誰にもいうなよ、ほんとうの俺のこと。」
 「ほのかがすきなこととか?う〜ん・・わかった!」
 「おまえな・・約束はちゃんと守れよ?!怒るぞ。」
 「だってもう知ってる人結構いるじょ?遅いのだ。」
 「まっまさか・・おまえあちこちでいってんのか?」
 「いわないけど・・会長さんもお母さんもしぐれとか秋雨とか・・」
 「な・・に・・」
 「みーんな、知ってるって。なんでだろうね?」

 夏が動揺を露にすると、ほのかはハンカチを取り出して汗を拭いた。
よしよし、大丈夫かい?なっち。お茶でも飲んでゆっくりするといいよと
夏の家の門を開けようとするのを「俺の家だ。」と突っ込む。そうして
二人でお茶を飲んだ。揺れて揺られて短い旅は終わると帰路に着くものだ。

「おかえり、なっち。」ほのかは優しく夏にそういった。







ほのかに勝てない夏くんv