幾千万の約束


 それは少々硬過ぎた。焦げ臭さに目を瞑っても
丈夫な歯を以ってしても、咀嚼には相当難儀な程。
だが辛抱強さを自認する夏は顔色を変えることなく
その難題を片付けた。つまり全てを飲み込んだのだ。

それらの様子を固唾を呑んで見守っていた幼な顔に対し
硬さ苦さを微塵も感じさせない無表情で静かに告げる。

 「75点。」

結果を耳にした少女はやった!とばかりガッツポーズ。
一息吐くと、件の評価対象を一つを摘んで口に入れた。

 ”がちっ!”という痛々しい音が台所中に響いた。
少女の目はたちまち潤み、崩れた口元から欠片が落ちる。

 「こんなの・・クッキーじゃないじょ・・」
 「否、噛めんこともないし味も悪くない。」
 「うう・・採点が甘いじょ・・」
 「最初に比べれば格段の差だ。」

冷静に裁断を下す夏はお茶でも飲めとポットから注ぎ入れて
優雅な仕草で目の前に押し出した。一口飲むと実に良い塩梅で
崩れて泣き出す手前だった顔が見る見るうちに蘇っていった。

 「お〜いし〜!なっちはお茶淹れるのも上手になったねえ。」
 「まぁ・・上達は感じるな。」

自らもお茶を吟味しつつ、謙遜するでもない夏に対し改めて
尊敬の目を向けるほのか。彼女の修行はまだまだと嘆息する。
初対面で夏に振舞った彼女の料理はとんでもないシロモノだった。
それを躊躇なく平らげてくれた夏。その感動をほのかは忘れない。
その後、夏の食生活向上を名目として始まった二人の料理修行は
夏の方だけがぐんぐんと上達を見せ、ほのかとの差は開く一方である。
そんな現状において、ほのかは一つの決意を抱いたのだった。

 ”ほのかもお料理マスターになる!”

 家では料理上手な母親の元ではありがちに食べる専門だった。
全体的に母親似を公認されていたせいか、無闇に自信だけはあった。
ところが料理に関しては母親から受け継がなかったと直ぐに判明した。
しかしそんなことで諦めないほのかは、決意の炎をより燃え立たせた。
夏の手ほどきを請いつつ、料理は才能でなく努力と云わしめんがため、
ほのかの挑戦は始まったばかりなのだった。

 週に最低一回は料理教室が開かれた。谷本家にはほのかと夏の
揃いのエプロンのみならず、計量器なども二つずつ常備された。
難しい理論は苦手なので、見よう見まねで覚えていこう作戦だ。
不幸にして数々の失敗を招いたものの、数をこなした甲斐もあり、
師匠である夏の言うように初めに比すればそれなりに進歩していた。

 「でも今日のはかたすぎる・・なっちよく食べれたね?」
 「ああ、大丈夫だ。」
 「なっち・・ちみってやつは!ほのかもっとがんばる!」
 「俺のためじゃなくていい、おまえ自身の修行と思え。」
 「だってこの前さ、何百回だって失敗するかもしれないってぼやいたら」
 「ああ、俺が付き合ってやる。何千でも何万回でも失敗すればいい。」
 「そう、そう言ってくれてほのか・・どんだけうれしかったことか!」

思い出して感動に身を震わせながらほのかは言う。

 「いつかほのかの料理が世界一って言ってもらうんだじょ!」

気合に満ちた大きな瞳が少年漫画のように燃えていた。夏はというと
目標は高く持つのがいいと嘯いた。やる気に水を差すのもなんなので
黙っているのだが、夏はほのかの個性的な料理を嫌悪してはいない。
寧ろ上達して個性が失われるとすると、寂しささえ感じてしまう。

 「なっち!ほのかが上手になっても飽きたりしないでね?」
 「えっ!?」

まるで心を見透かしたような発言にポーカーフェイスが一瞬崩れる。
しかしほのかはそんな夏のことには気付くことはなく

 「ほのかのお料理がないと生きていけないってくらいになるじょ。」
 「そ・・そうか。がんばれ。」
 「うんっ!だからヨロシクね☆なっち。何万回でも食べてね!?」
 「しょうがねえ、おまえのは俺が全部食ってやる。」


 後から思い返せば、それはなんと甘ったるい約束だっただろう。
ほのかの作る失敗作を含めた全ての手料理を食い尽くすだなどと。
小耳に挟んだだけならば将来を誓ったとも解釈できるではないか。
二人の間にはそんな未来を予想するまでもなく、何もありはしない。
そう思い一人苦笑を浮かべた夏だが、口の中のほろ苦さが後を引いた。


 なんの気なしの二人の約束はしかし、深刻に受け止める者もいた。
それは夏の予想外の人物で、それだけはないとさえ思っていたのだが
約束の夜、眠れないほのかはとうとう夜中に起き出して台所に立った。
たまたま目の覚めた母親に見つかり、真夜中のティーブレイクとなる。

 「そうなの、それで嬉しくって眠れなくなったのね。」
 「うん!だからほのかなっちんとこにお嫁に行くね!」
 「・・ちょっとそれは早いんじゃないかしら?」
 「んと・・でもほら、ぜんはいそげって言うでしょ?」
 「落ち着いて。お料理ができたらお嫁になれるのと違うのよ。」
 「あ・そうかあ・・う〜・・いっぱいあるよね、ほかにも・・」
 「そうよ、夏君は今すぐって意味で言ったんじゃないと思うの。」
 「そうなの?」
 「焦らずに一つ一つ努力しなさい。待っているからってことよ。」
 「・・そういやなっち、よくあわてるなとかあせるなって言うじょ。」
 「さすがよくわかってるわね。仲の良いこと!」

興奮を母親に鎮められ部屋に引き下がったほのかはそれでも寝床で考えた。
どきどきはきっと期待のせいで、楽しいことが待っている気がするのだ。
一番嬉しかったのはお嫁になることよりも、何回失敗してもいいと言った
夏がとても自然で素顔のままだったことだ。失敗作さえ彼は構うことなく
受け止めて飲み込んでくれると言ったこと。だからこの先もそうであって
欲しい。そのためならどんなことでもしよう。何でもがんばろうと思えた。 

 ”そっか・・なっちがとってもうれしいこと言ってくれたから・・”
 ”だからお嫁さんになってずっとそばにいたいって思ったんだね。”

ようやく母親や夏が慌てるなと諌めたことに思い当たって舌を出す。
慌て者なんだなあ、ごめんねと胸に描いた顔に謝って眠りに着いた。

 

 翌日は料理教室の予定ではなかった。だが勝手知ったるほのかは
秘密の鍵の在り処で夏の自宅に上がりこむと早速台所へと向かった。
当主はまだ学校から帰宅していないので、予定通りに孤軍奮闘する。
濃密な格闘の時間を経て、やっとの完成品を目に安堵しているところへ
夏が帰ってきた。ほのかは急いでそれを冷蔵庫に仕舞うとエプロンを
むしるように外しながらお出迎えに走った。驚いている夏にダイブする。
慣れたものでほのかの体を易々受け止めると、一応の小言を落とす。
本気で怒っていないことはばれているのでほのかは全く気に留めない。
それよりこっちに来いとばかりに夏の腕を引っ張って台所へ急かした。


 「じゃかじゃ〜〜〜ん!!おかえりっなっちいっ!!」

 目を丸くしている夏に満足するとほのかは食べてくれとせがんだ。 
慌てるなとまたしても言われて手を洗う夏にまとわりつくほのかは
飼い主にじゃれつく子犬もどきだ。夏もやれやれというのはポーズで
すっかりほのかの浮き浮きした気分に釣られて高揚した頬をしていた。

 「これ・・おまえ一人で?」
 「えっへん!そうじゃよ!」
 「どうしたんだよ、これじゃあ何千回も食う必要ないな。」
 「えっ!?待って待って、やっぱりそういう意味なの!?」
 「???」

 それは昨日とはうって変わってとろとろの食感だった。
固まりが足らないのでひっくり返せずにボールのまますくう。
おそらくはプリンのつもりだったのだろう。一応それらしい香りが
甘く漂っていて食欲をそそる。ただ甘さには苦さも付加されている。
カラメルが混ざってしまった為だ。黄色いはずが茶色の外観だった。
それよりも急に涙目になったほのかに気を取られ、夏は珍しく慌てた。

 「どうしたんだよ!?うまいぞ?上出来だ!」
 「・・・うん・・ありがと・・でももう食べたくないって・・」
 「そんなこと言ってねえだろ。俺に食えってんならいくらでも」
 「ホント!?食べて。ほのかのはぜんぶ食べるって言ったよ!」
 「何心配してんだ。確かにそう言った。約束は護る。」
 「よかったあ!!」

ほのかは安心して泣き笑いのような顔で夏に再び飛びついた。その
拍子にプリンをすくった匙が飛んで台所に舞ったがそれどころでなく。
夏はしがみつくほのかをどうしたものかと悩みつつ抱かれるのに任せた。

 「もういっかい言って。ほのかのは何千回も何万回でも食べるって。」
 「・・・おまえの作ったのは全部食う。・・でいいのか?」
 「うん、約束ね!」


 満面の笑顔で小指を差し出すほのかに応え、夏は指きりをした。

 ”ずっといっしょにいたい” そのとき胸に浮かんでいた想いは

 甘くてほんの少し苦い香りと共に二人の記憶に永く残った。