薔薇色の約束 


 黄昏の燃えるような茜空に思わず目を細めた。
逢魔が刻とはよく言ったものだ。陽が大地に隠れ
入れ替わり闇が空を支配するまでの狭間の時刻は
人の心を宙に浮いたような不安へと誘い惑わせる。

まだ家々に明かりは灯っていない。茜色が主役のまま
じりじりと闇は大地から顔を覗かせる機会を窺っている。
自宅前まで着て見上げると薄闇が滑り落ちようとしていた。
無人の家に帰宅するのは慣れているとはいえ、この時刻は
以前なら妙な不安に苛まれる為帰宅を躊躇したものだった。

玄関を潜り居間で上着を脱ぐと机上に一片の紙を見つけた。 

  『おかえりなさーい!お疲れ様だじょ!』

丸まっちい字と笑った顔の落書きにふっと口元を弛めた。
書置きはほのかに違いなく、部屋全体が一瞬で明度を上げる。
小さな灯りは自動で点灯するようになっている。気のせいだ。
それでも夏はいつもこの時に部屋は一段明るく感じられた。

  『今日はバイバイだけど明日はお出かけだからね!』

笑顔の落書きの下には怒った顔も書かれている。コロコロと
変わる表情を思い浮かべながら夏は居間のソファに座った。
紙片には最後にほのかの署名と四葉のクローバーがある。
いつからかほのかのトレードマークのようになっていて
そんなメモ書きは夏の書斎の隅にひっそりと増えていった。
明日こそは会えるとほのかはきっと期待に目を輝かせている。
そう思うと約束を違えるわけにはいかないと夏は自戒した。

 待っていろと言ってはいない。ほのかは合鍵を持っているので
谷本邸に出入りが自由な夏以外に唯一人の人物だ。そしてそれを
いつでも待っているようにと解釈したほのかが毎日やって来る。
学生の頃と違い毎日などとても会えない日が増えているというのに。
しかしほのかの方はまだ学生だ。夏に比べれば時間はあるにはある。
だからといって毎日来る必要はないのだ。ふうと夏は肩を落とした。

 ”待ってろなんて・・一度も言った覚えはねえってのに・・”

背筋を伸ばして今度はソファに腰を沈め、背もたれに頭を預けた。
腹が減っていたはずなのに食い気が霧散して一つの感情がもたげる。

 「明日・・か・・遠いな・・」

夏の小さな呟きが居間にぽつりと浮かんだ。窓の外はもう真っ暗だ。
薄暗い部屋を見渡して、先ほど感じた明るさを探すが見当たらない。
部屋に入ったときから照明の明度は一定だったはずなのだ。それでも
ほのかが居たと思うだけで明るかった。錯覚だが夏には事実でもあった。
どんなに顔を思い出してみても実物には適わない。やはり会いたい。
会って顔を見て、目を合わせて・・どんどん会いたくなって弱った。
夏は目を閉じて頭を大きく振り回すと、ソファから立ち上がった。
明日を迎えるのに必要なことを色々と準備をする為に。


 鮮やかな夕焼けをほのかは窓からじっと見詰めていた。
もう少し待っていたかった。おつかいを言い付かって帰宅を早めた。
走り書きのメモを夏はちゃんと見てくれるだろうか。見てはくれる。
しかし会いたかった気持ちはちゃんと届くかどうか自信がなかった。
頬杖をついて見上げる空は見事で、美しい分だけ寂しい気がした。

 鍵を預かった時から待っていないといけないと思うようになった。
夏がそうしたのは門の前で寒さに震えていたほのかを見つけたから
どんなに言っても来るならと鍵を渋々といった風で渡したのだった。
そして予定が在って会えない日は来るなと釘を刺すのも忘れない。
ほのかは了解した。しかし毎日来る用を作って訪れるようにした。
何故なら、待っていた自分を見つけた夏が泣き出しそうに見えた。

帰宅した夏のその顔を一目見てしまったら、もうどうしようもない。
直ぐに普段の顔を取り繕う様までもが痛々しかった。彼は待っていたのだ。
あの時も待っているはずのないほのかを見つけたのだから驚いただろう。
寒さでかじかんだ手を握って「ばかやろう!」と怒鳴りさえしたのだ。
怒られながら胸を詰まらせた。自分でいいならいくらでも待ちたかった。

 「なっちってば・・さびしがりやさんだから・・」

ついそう呟いてしまうほのかだったが、それは自分のことでもあった。
本当は自分は寂しがりやで甘ったれなのだ。兄の後を追ってまわったり
したのも一人になるのが嫌だったからだ。置いていかれたくなかった。
それは幼い頃の話だが、大きくなったからといって変わっていない。
一人でいるのが詰まらなくていろんな場所を探してさ迷ったりもした。
一緒にいてはぐれることもよくあった。そういえば夏と出遭った時も
兄とはぐれた折だった。ほのかは夏の心中に似た部分を垣間見たのだ。

その後夏は幼い頃に家族を亡くしていつも一人で家に帰るのだと悟った。
ほのかの訪問はそんな逢って間もない頃から続いている。鍵のない間は
仕方なく門の前で待ったりもよくした。会えない日の方が多かったが。
空が茜色に染まる頃、烏が鳴く声に後ろ髪を引かれつつ家を後にした。
たまに会えると今来たばかりだと誤魔化したりもした。心配するからだ。
見つかった時は嬉しくてほのかも泣きそうだった。だからやっぱり同じ。
だから約束をする。何度かはすっぽかされた。夏は結構忙しい人なのだ。
書置きは会えない時に思いついてそれからは定番になった。いつでも
書き出しは『おかえりなさい!』だ。それが言いたいから待っている。
それだけ言ってすれ違いで帰ったこともあるが、言えたら満足だった。

 「あした・・早くあしたにならないかなあ・・」

 寂しいから会いたいのではない。そう自分に言い聞かせる。逆なのだ。
私達は家族ではないが、そんなようなものなのだ。だから一緒に居ない
ことが不自然。なので会う。お帰りなさいは二人には当然の挨拶なのだ。
夕飯の支度の匂いが漂って我に返ると、空はとうに夜の闇に変わっていた。
明日の為に早く眠ろう、ほのかはそう決めて台所の手伝いに降りていった。




 「なーっち!おかえりい〜!!」

 ほのかは大声で片手をぶんぶん振り回して駆けて来た。
夢にまで見た様子に目を細める。夏の時間が正しく刻み始めた。
駆け寄るほのかに「おかえりは書いてあっただろ!」と言ってみる。
それでも直接言わないととほのかは笑顔を惜しみなく夏に向ける。
夏がほっとしたような仕草をするとほのかも胸がすっと軽くなった。

 「やー・・会えたねえ。よかった!」
 「俺がいなくてもちゃんとしてたか?」
 「お父さんじゃないんだから、その言い方はないよ〜!」
 「どうせ宿題とかさぼってたんだろ。」
 「ばれたか。なっち、後でヨロシクv」
 「そんなこったろうと思ってたぜ。」

呆れたような口の端は嬉しそうにゆるんでいてほのかはくすぐったい。
甘えて腕に掴まって歩くのも久しぶりで少し緊張した。そしてそれは
夏も同様なのか顔を微妙に反らしている。落ち着かないように見えた。

 「ちょっとなっち!こっち向いてよ。」
 「うるせえ。そっち見てたら歩けねえだろ。」
 「だってせっかく会えたのに。」
 「何度も会ってて飽きるくらいじゃねえか。」
 「え〜!?すごく会いたかったくせにーっ!」
 「それはおまえだろ!?」
 「そうだよ。でもなっちだって・・」

すんなりと打てば響いた「会いたかった」「そうだよ。」という声に
夏の足が止まる。心臓までが止まりそうだった。慌てて呼吸を整える。
慎重に息をすると夏は真面目な声でほのかを見ず前を向いたまま答えた。

 「俺も・・うるさい奴がいないと調子が狂うからな。」
 「後半が余計だよ。まあいいか。なっちにしては素直だね!」
 「おまえのも後半はいらねえよ。」

 二人で出かけた先から帰宅すると、空は昨日に負けない茜色だった。

 「わあ・・昨日よりずっとキレイ・・!」
 「・・・・そうだな・・・」
 「薔薇色って感じ。ね、なっちい!?」
 「まあ・・そう・・言えなくもねえ。」
 「不思議だねえ、二人で見ると寂しくないよね。」
 「・・・・寂しかったのか?ほのか。」
 「うん。二人じゃないと調子出ないもん。ね?!」
 「俺の台詞パクるんじゃねえ。」
 「調子狂うって言ったじゃん。アレンジしたの。」
 「口の減らない奴め。」

 夏がこっそりとほのかの顔を覗いたのはその時だった。
あんなに会いたかったというのにやっと目線を合わすのに成功した。
目が合えばにこりと微笑むほのかが薔薇色の空と同じに輝いている。

 「・・次に会うまで・・待ってろよ。」
 
初めて夏がほのかに”待っていろ”とストレートに告げた。
驚きと同時に襲った喜びにほのかの言葉が一瞬留まった。だが
急いで大きくうなずいて見せた。そして「うん、待ってるよ。」と
静かに厳かに言葉にした。まるで誓いのように。目を合わせたまま
夏は言葉を飲み込むと同じように微笑んだ。眩しげな瞳と共に。
夏とほのかの二人の影が路の遥か遠くまでながくながく伸びている。
空へまで続きそうな影も夏もほのかも優しい薔薇色に包まれていた。







ご無沙汰しておりました。私も彼らに再び会えて幸せです!