ANDANTE  


「はぁ・・また失敗した・・」

ほのかは台所で大きな溜息を吐き、肩をがっくりと大げさに落とした。
ボールや泡だて器、たくさんの卵の殻、かなり悲惨な状況が眼の前にあった。
彼女が取り組んでいたのは”プリン”というごくごくシンプルなお菓子だ。
蒸し料理だが、最近はレンジでも作れて初心者にもハードルはそれほど高くない。
本人のやる気も満々だったし、失敗しても良いように卵のパックも多めに買った。
時間もたっぷりあると思っていた。慎重にレシピ通りに手を進めた。なのに何故。
ぶしゃりとへたっている物体を恨めしく眺めた。お世辞にも美味しそうではない。
どうしようと次のトライへの意欲を失いつつあったほのかに声が掛かった。

「・・・もう今日はその辺にしたらどうだ?」
「あ、なっち・・ごめん。あと一回だけ!ね、お願い。」

ほのかの『お願い』に夏は弱い。しかし自分の家の台所の様子は惨憺たるもので
夕食の支度ができるだろうかという不安も抱いた。そこは夏の家のキッチンだ。
スーパーの大袋を両手に抱え、扉を開けてとやってきたのが今日のお昼過ぎ。
そして当初の予定だった3時はとうに過ぎて、最早夕刻になろうとしている。
夏は自分の用事をしておいてと言われてそうはしていたものの気が気ではなかった。
怪我をしていないかというのが一番の懸念だった。時々覗きにきていたのは秘密だ。
夏が見ていても気付かないほど一生懸命なほのかだった。成功を祈っていたが、
とうとう待ちきれなくなって、夏はほのかに声を掛けたのだった。

「・・・どうしてうまくできないのかなぁ・・・」

その大きな瞳が切ない涙を浮かべてしまうのを目撃してしまったら最後、
夏はほのかの両腕をつかみ、必死の思いで元気付けようと試みた。

「今日は日が悪かったんだ!な?泣くことないぞ、好い匂いもしてるし・・」
「・・ぅ・・うえ〜ん・・」
「泣くなって!泣くなら最初からやるな。明日また挑戦しろ!」
「ウン・・ゼッタイなっちに美味しいのを食べさせてあげるからね?!」
「ああ。その意気だ。・・にしても今回はなんでまた・・?」
「・・ヒミツなの・・(お礼にならなかったけどね・・結局)」
「はぁ・・とにかくだな、お茶淹れてやるから代われ。後片付けもオレがする。」
「そんなの悪いよ。ほのかが使ったんだからほのかが片付ける。」
「いいから。涙拭いて居間で待ってろ。すぐに行く。」

夏は強引にほのかのエプロンを外させ、台所を追い出すのに成功した。
手早くお茶の用意を済ませ、本当にすぐに居間に現われたのでほのかが驚いていた。

「なっちってスゴイねぇ!?」
「よしよし・・もう泣いてねぇな。」

夏はほのかの様子にほっとして頭に手をのせてがしがしと撫でた。
昔からする夏のクセだ。子供扱いなのがほのかには少しばかり不満だった。
けれどそのことは言わずにいた。自分のことを気遣ってくれているのだから。
相変わらず優しいと思う。そんな夏にせめてものお礼をしようと思うのにままならない。
今回も友人の話を聞いて是非とも夏にそのプリンを食べさせたいと思ったまでは良いが
こんなにがんばっても上手くできないことに落ち込むなと言う方が無理だろうと思う。

夏が淹れたお茶は美味しい。お茶の淹れ方までもがどんどん上手になっている。
ほのかと夏は真逆だ。そうひしひしと感じられてまた少し気持ちが沈みそうだった。

「ちょっとオマエがもらったレシピを見せてみろ。」
「え、これだけど・・」
「これ・・オマエ用に書き直していいか?」
「ウン・・いいけど。」
「オマエが悪いんじゃない。レシピの表現が曖昧なんだ。」
「・・・ほのかの頭が悪いんじゃなくて?」
「そうじゃない。悪く取るなよ。」
「なっち・・ほのかってさぁ・・こういうセンスないのかな?」
「こういうってなんだ?全部慣れればできることだ。気にするな。」
「なっちならあっという間に慣れるしできるじゃないか。」
「早くできる奴より時間掛けて習得した奴の方が忘れないんだぞ。」
「そうなの?」
「そうだ。だから時間が掛かっても気にするな。」
「ふ〜ん・・でも時間が掛かるって・・しんどいねぇ・・?」
「ぼやくなぼやくな。」
「ほのかってなんでもできるのに時間掛かるみたい。」
「長続きもするって思え。」
「そう・・だね。」

時間が掛かると言われてほのかは自分の恋を思い浮かべた。
相手は夏なのだが自覚したのも遅かった。実るのも時間が掛かりそうだと思う。
夏はとても優しい。しかしその優しさが目隠しに思える。どこまでが好意なのかと。
好きだと以前は簡単に言えたことが言えなくなったり、自覚したことで出来た距離。
そして一番気付きたくなかったのだが、自分がトロくて幼くて色気もないという事実。
歳はそれほど変わらないというのに、夏と並ぶと未だに妹以外に見られることはない。
想いだけが育って膨らむばかりだった。そして膨らむほどにしぼむのが怖い。
今日のプリンのようにひしゃげてしまったら・・想像しただけで胸が痛かった。

「オレが横にいて教えながらならじゃダメなのか?」
「一人でしたかったんだけど・・教えてもらった方がいいかなぁ・・?」
「オマエはコツを掴めばもう少しマシになると思うぞ。」
「ふふっ・・なっちってさぁ・・どんどんほのかに甘くなってるよね。」
「そうか?!・・そんなつもりは・・」
「ウレシイ。なっちは優しいよ。」
「・・優しいわけじゃない。」
「大丈夫だよ!ホントに優しいから。」

夏が疑っているのかと思ったほのかは真剣に訴えた。しかし夏は喜ぶどころか眉を顰める。
何かいけないことでも言ったかとさっきの会話を反芻してみたが理由はわからない。

「明日一緒に作ってくれる?ほのか教えてもらうことにするよ。」
「・・了解。準備しておく。」

夏はどことなく不機嫌に見えたがほのかにはそれもわからなかった。
そして翌日、夏の補助のおかげでプリンは見事な出来栄えに仕上がった。
神々しい整った姿にほのかは溜息と賞賛を惜しまず、食べるのがもったいないと嘆いた。

「食わんでどうする。ほら、」
「あ・あーん。」
「・・どうだ?」
「お・・おいしいい〜!?かんぺき!」
「良かったな。」
「ハイ、なっちも食べて!あ〜ん・・」
「自分で食うからいい。」
「だから食べて!?」
「いいって・・;」
「なんで嫌がるのさ!?」

あまりに夏が嫌がるのでほのかは目を吊り上げた。むきになってしまっている。
ほのかの食い下がりに仕方無いと降参したのか、夏は差し出された腕を掴んだ。
腕を自分に引っ張り寄せると、その先のスプーンにある一匙を飲み込んだ。
よろけて夏に倒れこみそうだったのでほのかは体全体で踏ん張って耐えた。

「・・美味いな。」
「大成功だねっ!よかった、なっちに食べて欲しかったの。」

ほのかが嬉しそうに笑うのを見て夏も微笑む。その笑顔に当てられほのかは頬を染めた。
こういうときの夏の笑顔は反則だとほのかはいつも思う。胸も騒ぎ出してやかましい。
なんて優しくて素適なんだろう!この笑顔を独占していたい・・そんな気持ちが沸き起こる。
昨日の失敗作も全部食べてくれたとわかり、そういう気遣いにも心を動かされてしまった。
惚れるなというのが無理だ。ほのかは悔しくてそう毒づいてしまう。心中は常に忙しい。

・・こんな夏が、自分を同じように好きになるわけがない・・・

ほのかは想いを告げる勇気をぺしゃんこにする理由をふっと思い出して悲しくなった。
普段はなるべく考えないようにしているがこんな風に不意を突いて出てくるときがある。
涙を堪えてプリンを食べているほのかに気付いた夏は驚いて目を瞠った。

「なんで・・泣きながら食ってるんだ!?美味いって顔じゃないぞ!」
「ふ・・んん!おいしいよ!すんごくおいしい!最高だから涙がっ!」
「怒るぞ。無理して笑ったりするな。」
「・・ごめ・・んなさい〜!」

耐え切れずにとうとうほのかは泣いてしまった。どうしてこうバカなんだと責める。
何をしても困らせるだけだと思うとほのかは悲しくて堪らなかった。

「なっち・・なっちにどうやっ・・たら・・喜んでもらえる・・のかな!?」
「喜ばせたいってのなら・・いつもそうさせてもらってるぞ?」
「優しいこといわないで・・もっとほのかにしか・・できないこと言って!」

泣くのを堪えながら、夏に訴えるほのかの頭が大きな腕に抱き寄せられた。
たどり着いた広い胸に涙が着くのを躊躇し、ほのかが顔を仰け反らせると

「逃げるなよ!」と頭を再び胸へと押し付けられた。
「だって・・濡れるよ・・涙止まんないから。」
「いい。そんくらいでオレが怒るとでも思ってんのか?」
「ウウン・・なっちは優しいもん。」
「それはオマエ限定だってちゃんとわかってんのか!?」

ほのかは一瞬夏の言ったことがわからずにきょとんとした。
夏の言い方はどことなく拗ねているようにも聞えて混乱する。

”ほのかげんてい・・ほのかだけ・・ってこと!?”

のろのろと解答を思い浮かべた頃、更に夏が畳み掛けた。

「それになぁ、オレはオマエに弱いだけであって優しいのとは違うぞ?!」
「え・・?えっ!?」
「聞いてんのか!?」
「きっ聞いてる・・」
「こっちが泣きたいくらいだぜ。」
「ごめ・・なさ・・?」
「謝るな。泣くくらいなら昔みたいに我侭言って偉そうにしてろ。」
「ほのか・・なっちに喜んでもらいたいんだよ?」
「オマエが喜べばそれで満足だ。」

こういう状況の変化をなんと言うのだったか・・急転直下・?
ほのかは胸も頭も爆発しそうになり、どうでもいいことを考えた。
それは夏に抱かれている現実からの逃避行動だったかもしれない。
もしかするととんでもない勘違いをしていたのだろうかと思う。
夏の口ぶりからするとほのかは自分の想いを伝えるどころか・・
もうとっくに好かれていたように思えてならない。確信には至らないが。
さっきまでゆるかった腕がきつく締まった。頭が真っ白になったほのかは

「だめえっ!やめてーっ!!」

大声で叫んだ。その勢いに圧されて夏は腕をゆるめてほのかを見た。
真っ赤に染まった顔と肩を上下するほどの興奮状態に慌てて夏は言った。

「息を吐いて吸って体の力を抜くんだ。いいか?」

言われてほのかはまずはごくんと唾を飲み込むと深く息をした。
それが功を奏してほのかの顔色は少しマシになり、夏は胸を撫で下ろした。

「大丈夫か・・?」

こくんと首を縦にするほのかに対して今度は夏が深くて長い息を吐いた。

「驚かせたみたいだな・・すまん。」
「ウン・・びっくりした・・いきなりなんだもん・・」
「いきなりって・・・オマエ・・」
「ほのかだけって・・思っていいんだね。」
「・・そうだ。それでいい。」
「なんかまだ信じられない。」
「なんだと!?」
「なっち・・好き。」
「!?・・久しぶりに聞いた。」
「本気にしてくれてなかったでしょ?昔・・」
「なぁ・・ダメか?」
「え、なにを・・?」
「抱きしめるのも・・キスも・・したら怒るか?」
「しっ・・したい・・の?」
「ああ。」
「〜〜〜〜〜〜〜っ・・」

そんなことを真顔で、しかもこんな近くで言われるのは想定外だった。
返事どころか、いい悪いもわからない。ほのかはパニック寸前だ。
ぐるぐるする頭で考えるのはあきらめて、両手を万歳と高く掲げた。
子供が抱っこをせがむような格好だが、夏はそれを見て微笑むと、
ほのかを怖がらせないように優しくゆっくりと包んだ。

「合格。」
「プリンより難しいぜ。」
「ほのかの扱いも早く覚えてね。」
「何もわからんから教えろよ?」
「ウン。」
「それで・・キスは・・?」
「だっダメっ・・じゃあ・・ない・・かも?」
「わかんねぇよ、どっちだ?」
「ど・・っちかなぁ・・!?」
「教えてくれるんじゃなかったのかよ。」
「じゃあ・・やり方を教えて?」
「まずはだな、息を止めるな。・・」
「ちょっ・・待って!教えてってば!?」
「だから教える。した方が早い。」
「そっ・・そんなぁ!?」


ほのかはこの日、何度失敗してもそれはそれでいいと学んだ。
恋ならば、すぐに実ってしまうより遅くても長く続く方がいい。
自分は遅くてよかったと初めて思う。夏は長いこと待っていたと言った。
だからせめて優しい恋人に「そのかわりずっと好きだから。」と伝えた。
するとまた、ほのかにとってたまらない微笑みを夏が返してくれた。







晴れて両思いを確認☆