雨音


気付くな、いや気付くまいとフードを目深に被る。
振り出した雨に路行く者たちは足を早めていた。
それらに混じって気配を殺しながら歩を進める。
前方からやって来る「そいつ」は俯いて歩いていた。
雨に気付かないかのように酷くゆっくりとした歩調で。
何かに気をとられているなら好都合だと言えた。
このまま通り過ぎてしまえば、出逢わなかったことにできる。
「そいつ」とすれ違う確率は同じ街でどれほどだろう。
用ができて普段使わない路を選んだことをオレは後悔した。
「そいつ」の記憶からオレが薄らぎ消えるまでは
逢いたくないと思っていた、思う度「逢いたくない」と。
おかしなガキで、過ぎた日々を思い出させる。
「そいつ」とは関わりたくないと強く願った。
この街を離れればよかったのにオレは残ってしまった。
選択肢は他にいくらでもあったというのに。
二度と出逢わないようにする手段ならいくつでも。


消せない面影は「妹」の姿を借りて最近よく夢に見る。
妹はもうとうにいないが、夢ではすぐ傍にいつもいる。
誰かのことを護りたいなんて「そいつ」の兄はぬけぬけと言っていた。
なんて能天気で幸せな野郎だと思ったか知れない。
いつか痛い目に合うといい、そしてそれを傍で笑ってやるのだ。
だからこの街に残ったのだとオレは自分にそう言い聞かせた。
「そいつ」はあの能天気な兄によく似ていた。
オレを苛つかせ、落ち着かない気分にさせる。
だのに「そいつ」は「あいつ」の「妹」で。
「あいつら」は嫌というほどオレに見せ付けるのだ、過ぎた日々や痛みを。
出逢わないでいられれば、オレは変らなかっただろうか。


雨は降り続き次第に重く圧し掛かるように身体を濡らしてゆく。
もう路行く者はほとんどいない。何処かへ避難したんだろう。
さっさと通り過ぎたいのに、オレの足は鉛よりも重かった。
「そいつ」もまた、どうしたわけか、重い足取りで俯いたままだった。
何か腑に落ちないような気分がオレに纏わりつき離さない。
『どうして傘もささずに歩いてるんだ?・・・風邪でも引いたらどうする』
「そいつ」を案じる自分にふと気付くとまた嫌な気分に襲われる。
『いつもみたいに笑ってればいいものをどうしてそんな姿を見せるんだ。』
通り過ぎる瞬間にオレは息を詰めた。祈るような気持だった。
「こいつ」が風邪を引こうが、どうしようが知ったことじゃねぇだろ?
『早くいつものおまえに戻り、駆け出して家に戻ってくれ。』
長い一瞬が過ぎ去るのをもがくような気分で待った。
やり過ごせれば安堵がオレを待っているはずだった。
通り過ぎた瞬間、気付かない「そいつ」を引き戻したい衝動が襲う。
堪えるとまた再び嫌な気分が吐き気すら引き連れてきた。
この雨のせいだ、オレは少しフードから暗い雨空を垣間見た。
もうしばらく歩いた後、走り去れば終わりだ。
そして何もなかったように自宅に向かえばいい。
後、少し。オレは自身を奮い立たせてようやく足を前へと運んだ。
重い足はそれでも「そいつ」から距離を取るべく動いた。
だがふと別の気配に気が取られ、足は忽ち動くのを停止した。
一瞬雨音が遠ざかったのだ。不思議だが事実だ。


「なっつん・・?」

「そいつ」の声がしたのだ。誰もいない歩道で呼ばれた名に覚えはない。

「なっつんでしょ!? 待って、行かないで!!・・ほのかだよ!」

はっきりと届いた二度目の声は明らかに「オレ」に向けられていた。
とすると、『なっつん』ってのは・・・オレのことなのか?

雨音はまだ聞えてこない。凍りついたようにオレの身体は動かなかった。
何故動かないのかと焦りを覚えながら自分の足元を見た。
オレのすぐ後ろに気配を感じる、ただそれだけで動けなくなったのだろうか。
「そいつ」は間違いの可能性を無視していきなりフードを引っ張りやがった。
驚いて振り向くと、「やっぱり」と小さな呟く声が届いた。

「なっつん、元気だった?ちゃんとご飯食べてる?それから・・」

矢継ぎ早に出てくる言葉の雨にオレは行き場を失った。
急に雨音が烈しく耳を打ったことに少なからず動揺する。

「お兄ちゃんに聞いて、すぐ家に行ったのに、どこ行ってたんだよ、ちみは!」
「・・もう家に来るなって言ったはずだ、聞いてなかったのか?!」
「!?もう〜、ほのか怒ったじょ!」

挑むような瞳は黒く耀き、オレを真直ぐに射抜いている。

「絶対ぜったい、許さないんだから。どんだけ心配したと思ってるんだい?!」
「おまえが心配する必要がどこにある?放っておけっつってんだろ!?」
「できることとできないことがあるんだよっ!!わかんない奴だな!」
「煩い、さっさと帰れ。オレと関わるな!二度と言わせるんじゃねぇぞ。」
「帰るもんか!ほのかはあきらめ悪いんだからね!」
「おまえに関わりたくねぇって言ってるんだ。そこをどけ、チビ。」
「チビじゃないよ、ほのかだってば。なっつんも強情だね、まったく。」
「『なっつん』てなんだよ、人をおかしな呼び方するのも止めろ。」
「ずっと名前知らなかったから教えてもらったんだよ。そしたらいい名前じゃないか。」
「はぁっ!?」
「今度逢えるまでにいい呼び方を考えておこうと思って『なっつん』に決定したのだよ。」
「要らんことばかりするな、どうしてオレに関わろうとするんだよ。」
「あのねぇ、もう知り合っちゃったんだから気にしない方がどうかしてるよ。」
「怖い思いをしたんじゃなかったのか?!オレは今でも兄キをぶっ殺したいと思ってるんだぜ?」
「男同士のことはお兄ちゃんに任せたよ。ほのかはほのかの心配するんだよ、悪い!?」
「悪い。おまえは・・・とにかくもう顔を見せるな!・・・頼むから。」
「そんな・・・そんなこと言うから・・・気にするんじゃないか!バカもの。」

ほのかの顔が曇り、泣き顔になりそうになったが、ぶるぶると顔を振って向きなおした。

「なっつん。ダメだよ!一人じゃだめなんだよ。」
「何がダメだと言うんだ?おまえに何がわか・」
「わかりたくないよ、そんな寂しそうな眼して何言ってんのさ。」
「オレが?!バカか、おまえ何言ってるんだ!?」
「わかるさ!こんなに気になるんだからよっぽどだよ。」
「そんなにオレが気になるってのか?!おまえ何か勘違いしてないか、チビ。」
「してない。お兄ちゃんっていうより弟みたいな気分だよ。」
「オレが・・弟!?」
「そんなのどっちだっていいけどさ。」
「馬鹿にすんな。おまえなんざ『女』だって願い下げだ!」
オレの顔面をばしりと大きな音を立てて冷たい手が走った。
子供相手にむきになってオレは何言ったんだろう?少し顔が熱くなった。
だがそのことにむきになるコイツも幼いなりでも「女」なんだなと思った。
「この大バカモノ!・・ホントにもう・・・」
感情を抑えられずに涙を浮かべるそいつを見て、オレはようやく冷静さを取り戻せそうだった。
「・・悪い・・だけどわかったろ?関わるなよ、オレはおまえの言う「いい奴」なんかじゃない。」

涙を拭おうにも雨のせいで意味はなかったが、それでもそいつはぐいと拳で涙を拭いた。
「それもどっちでもいい・・・」
「なっつんとまた逢えたことの方がずっと嬉しいよ。だからもう避けないでね!」
「!?」
「逢いたかったんだからね!」
怒っていたのはオレがおまえを避けてたからなのか?・・・知ってたのかおまえ・・
「・・・何で・・」
「理由なんてどうでもいいよ。どうして理由ばっか探してるの?」
「・・・それは・・・」

オレがぼんやりとして言葉に詰まるとほのかはにふっと笑顔を見せた。
久しぶりに眺めたそれはやはりそいつに似合ってるとぼんやり思う。

「せっかく逢えたんだから、こんなことしてるの馬鹿みたい。もっとお祝いしようよ!」
ほのかはあははと明るく笑うと、「なっつん家の方が近いからタオル貸して?」といつもの調子で言った。
「・・・着替えと傘も要るだろ。それからもう遅いから送ってく。」
「全く、やっぱりいい奴じゃんか!謙遜しすぎだよ、ちみは。」
「・・うるせー・・・」

通り過ぎて二度と逢わないはずの路上にはオレとほのかが濡れ鼠で佇んでいた。
いつの間にか止んでいた雨の残りの水溜りだけがそこかしこにあった。
それをわざと音立てて踏みつけ、「どーせびしょびしょだから」と面白そうに歩くほのか。
「滑って転ぶなよ。」
「もう一緒だってば!あはは、楽しーv」

どうして当たり前のようにオレたちはこうして居るんだろう?
嬉しそうに笑ってる「そいつ」は見つけたときの俯いた姿とは別人のようだった。
オレはオレで、あの不愉快な気分がいつの間にか晴れていて、不思議なほど落ち着いていた。

「お互い逢えなくて寂しかったねー!」
「ばっ・・オレは別に寂しかったワケじゃねぇ!!」
「照れてる、照れてる!なっつんてば。」
「おまえ、いっぺん殴られとくか!」
「女子供に手を挙げるとは情けない奴め。いやだよーだ!」
「・・・もうなんだかあほらしくなっちまったぜ。」
「悩み過ぎかい? ほのかがいつでも相談にのってあげるよ?」
「絶対にそんなことはしねー!」
「まぁまぁ、これでいてほのかちゃんてなかなかの相談役なのだよ?」
「要らんっつったら、イラネー!!」
「可愛くないね、このコは・・さては、恋の悩みかい?お兄さん!」
「なわけあるか、ほざいてろ、マセガキ!」
「好きなコもいない奴に言われたくないよ。なっつんてまだ子供っしょ?!」
「なんだと、コラ。おまえこそガキのくせに生意気言うな。」
「ちっちっ、わかってないね。こういうことは女の方が早いのだよ?!」
「・・・おまえ、好きな男なんているのか・・?」
「むふふ・・気になる?教えてあげないよーだ!」
「ふん、どーせ父親とかあのバカ兄キとかだろ。」
「違うもんね。つーん」

くだらない会話をして、つまらない小突き合いをして二人で歩いている。
楓、兄ちゃん・・・どうしたっていうんだろう?・・まるで昔に戻ったみたいだ・・

「二度と逢いたくねぇって・・・思ってたのによ・・」
「そんな風に思うほど逢いたかったのかい?嬉しいね、お兄さん。」
「・・そ・そんなこと言ってねぇだろ?!」
「おんなじことじゃん。ほのかも逢いたかったからあいこだね。許してあげるじょ?」
「おまえ・・・」
「別に理由なんていいじゃん。ほのかもわかんないよ、なんで気になるんだか。」
「・・・そっか・・」
「そーそー、お互いなんか引っ張り合うものがあるんだよ、きっと。」
「気色わり・・」
「ロマンのない男だねぇ!」

ほのかはまた高らかに笑い、オレはなんとなく気分が良くて空を見上げた。
まだ雲の残る空には切れ間が増え、晴れた隙間からは星がのぞいていた。
雨音は遠くなりオレは灯っていく街灯りを眺めて思う。
何処か遠くから帰って来たような気がする。ほっとするような優しい気持だ。
空で楓が『おかえり、お兄ちゃん』と言ったような気がした。