紫陽花と空 


 その日はどんよりとした梅雨らしい空模様で夏はうんざり窓外を見た。
気の進まない仕事を抱えてたのだ。身支度を整えながら降るなら降れと
曖昧でどっちつかずな天候に毒づいた。中止又は延期を望んだのだった。
だが約束の場所は紫陽花が多種多様に咲き誇り、通常通り開園していた。

 ”なんでこんな場所で・・俺も迂闊だったぜ・・!”

 取引先の希望で特に問題ないと夏は頷いてしまったが、それは見合いだった。
時折狡猾に仕事と仕事の隙間や今回のようにそれを口実に仕組まれる罠である。
夏は立場上あらゆる方面から狙い済まされているのだ。うんざりするが当然だ。
そんな時、夏はいつも良く知った人物のようにふらりと旅に出たくなった。
柵を忘れてできるだけ辺鄙で、出来る事ならすぐにでもそうしたいくらいだ。
愛想良く無難な対応をしてしまう自分に何よりうんざりして園の紫陽花を眺めた。

 ”・・どうせならほのかに見せたら喜ぶだろうにな・・”

 女は何故か花が好きだなとぼんやり考えた。しかしその時思い浮かべたのは
普通は花束などを喜ぶのだろうが、群生する野草や野山の畑なんぞを好む少女。
手入れされたものなら植物園やこうした”生きた”花々を見て歓喜するはずだ。
ほのかの顔が見たいなと夏は思った。無意識も手伝って現実から逃避していた。


 
 同じく鉛色をして湿気を多く含んだ空よりもずっと不安な顔をしたほのかは
今朝方見た夢のことを考えていた。せっかくの日曜だというのに彼女は留守番だが
そのことで退屈しているのではない。心を捉えている夢は悪夢というのとは違う。

 ”会って顔見たらすっとするのに・・なんで今日いないんだよう!”

 ほのかは頼まれた布団干しは諦め、洗濯物だけ降っても濡れない場所に干した。
こんな天気では仕方がない。布団も干した方が良いのだがこの季節はままならない。
一通りの家事を済ませて一人でお茶を入れた。兄も母も父も皆ばらばらの用事で
本当ならほのかも出かけるはずだったのにと恨みがましいことをまた頭に浮かべた。

 ”仕事って言い訳は増えたよね、なっち・・はぁ・・会いたいな・・”

 ぼんやり休憩していると再びあの夢のことが迫ってくる。どうにも気になる。
夢に出てきたのは夏とほのかが一緒に過ごしているときのありふれた場面だった。
記憶に残っている印象と、会話の断片がどれも引っかかって不安な気持ちを呼ぶ。
こんなときは夏が悲しかったり寂しい想いをしている気がして落ち着かなくなる。
これまでなら飛んで行って確かめた。けれどこのところ夏は多忙で会えない日が増えた。 
モヤモヤしてほのかは宿題も手につかないまま窓の外の梅雨空を睨み上げていた。
そんな時、携帯が鳴った。珍しいので飛びついて送られた画像を開いてみた。

 「わあっ!?紫陽花だあ!・・いっぱい・・これどこ?」

 思わず声に出して叫んだ。転送されてきたのは写真のみで文章がなかった。

 「ちょっとなっち!写真だけって!・・お仕事中でこっそり撮ったってこと?」

 ほのかなりの推察はほとんど正解だった。夏が厭な仕事の隙間に遣したのだ。
そして紫陽花の写真をじっと見ていたほのかはふとその場所に思い当たった。
そうだ、今朝の新聞と一緒に広告が入っていたかもと慌てて置かれた場所を探す。
少し前にも同じ園の宣伝を目にして、夏に連れて行けとせがんだ記憶はまだ新しい。
都合が合わず「また今度な」と言われて渋々譲った。夏は忘れているのだろうか。
多分そのときの場所だとわかっていないのだ。紫陽花の花は季節を限定する植物だ。
今しか見れないのにとほのかはぼやいた。広告に記載された住所はそれほど遠くない。
ほのかは写真の表示された携帯を手に部屋着のまま数分後には家を飛び出していた。

 夢の中でほのかはあれが見たいと夏に強請っていた。鳥の話だった。
 翡翠の色とすばやい動き、小さな川のハンターで有名な鳥だ。翡翠、川蝉とも書く。  
中々目にできない鳥なのだ。意外に小さな固体であるし、とにかく俊敏な鳥だからだ。

 『なんかあいつみたいだな』

 夏が小さく呟いた。誰のことか尋ねると夏は誤魔化したのでそれ以上聞かなかった。
そのときの夏は亡くした妹さんを遠まわしに語るときの寂しそうな顔をしていた。

 『楓もそれが好きだった』『遠慮ってもんがないな!”お前は”』

 どれもうっかりしたと夏が後で打ち消す短い言葉だ。時折夢の中で出てくる。
背中越しに感じる視線がほのかではなく別の人を見ていると感じることもある。
優しい眼差しに振り向けないことも幾度かあった。夢の中でほのかは夏に言う。

 『寂しかったらほら、ほのかを代わりにすればいいよ!』

 言えないのだが叫びだしそうになって夢から覚めることもある。涙が零れた。
起きると胸騒ぎのような余韻が残り、不安で顔を見て安心したくなるのだった。
道中はほとんど何も考えずにほのかはその場所を目指した。怒られる覚悟は出来ていた。




 散策中も夏は上の空だったが、相手側もそうだったので沈黙が続いた。
二言くらいしか会話が続かない。夏は段々面倒になっていた。仕事はとうに終わっていて
残った時間は”その人”と紫陽花でも見て行かれてはという提案だったのだ。つまり見合いの
本番が最後に残されていたわけだ。大人しそうで十人並みよりは綺麗な方だと夏は思った。
無理矢理な設定を通したのはおそらく親の方なのだろう。押しの強いタイプには見えなかった。
相手は車などいくらでも呼べるだろうと判断した。後はうまく送るのを回避する口実だけだ。
さてどう言って逃げるかなと夏が算段しているとき、幻でも見たかのように突然立ち止まった。

 「なっち!見つけた。当りだ。ほのか探偵みたいだね!」

 ほのかは息を弾ませてそう言った。呆然としている夏に後ろから遠慮がちに声がかかる。
その声に反応したのはほのかの方が先だ。はっとしてぺこりと頭を下げた顔が真っ赤だ。

 「あ・・あのっ!ごめんなさいっ!」

 このときに限って察しの良いほのかは慌ててくるりと元来た方へ走って戻って行く。
あっという間の出来事だ。「あの・・谷本さん?お知り合いの方でしょう!?その・・」

 なんと説明したか夏は覚えていない。「申し訳ありません、お詫びは改めてします。」
そんなようなことを告げてその場を去ったのは確かだ。夏はほのかを追いかけて行った。
紫陽花園の入り口で捕まえた。ほのかは怒られると勘違いしたのか肩を竦め目を閉じた。

 「・・すれ違ってたらどうすんだ。来るなら来るって言えよ。」
 「・・あれ?怒らないの?さっきの人・・おいてきちゃって大丈夫?」
 「ああ、別にここに車呼んで帰るだろっ・・!?」

 当たり前だが入場口へさっきの見合い相手もやって来た。ぺこりと会釈する。
醜態を演じたことを思い出して夏が口を開く直前に、向こうからやんわりと遮ってきた。

 「父にはうまく言っておきますからどうぞお気になさらず。ありがとうございました。」

 言葉を選んでいる間ににっこりと笑顔を夏とほのかにも向けてその人はそこから退場した。
二人してぼうっと優雅な足取りの女性を見送った後、しばらくしてほのかが呟いた。

 「・・綺麗で優しそう。もったいないことしたんじゃない?」
 「阿呆・・仕組まれたんだよ、わかっただろさっきの台詞。」
 「お仕事だって言ってたもんね?ふむふむ・・わかったよ。」
 「・・・俺が迂闊だった。同じ手は食わない。」
 「しょうがないんじゃないの?ある程度はさ。」
 「随分知った風に言うじゃねえか。」
 「お母さんよく言ってるもん『男の人には色々とお付き合いがあるのよ』って。」
 「ほ〜・・そうですか。」
 「だって・・SOSって意味で紫陽花送ってきたんでしょ?」
 「それは・・・」

 ほのかに指摘されてはたと気付いた。そうかもしれない。良い格好を取り繕うのが
惨めでとっとと抜け出してしまいたかった。ほのかには写真だけでそれが分かったのだ。

 「よかった。場所知ってるとこで。へへ・・ほのか頭いい!」
 「そうだな。よくわかったもんだ。・・ひょっとして・・?」
 「お、今思い出したのかい?ここほのかが連れてってって言ったとこだよ。」
 「なるほど。それでお前を思い出したんだ。」
 「ふはは・・ほのかに感謝したまえ。」
 「今回は・・そういうことにしとく。」

 二人はそのときは少しも気付かなかったが、重たい雲の狭間から太陽が覗いていた。
気紛れな雨空はほのかが払い除けたんだと後に自慢するのを夏は苦笑しつつ認めた。







「紫陽花と雨」に続きます。