「愛する人とのキス」 


どうしてそれが特別な意味を持つのか考えたこともなかった。
ワタシにわかっていたことは、ほんのわずかなことだけだ。
きっと何かが違うんだろう、ただそればかりに過ぎなかった。

自分の身で感じるまでわからないことってたくさんあるんだ。
そんなことを思った。まだ意味さえも理解できていないまま。
ふわふわと覚束ない足取りで帰宅して、いつもどおりに行動した。
お父さんもお母さんさえ、いつもと変わりないのが不思議だった。


「あら、ほのか?具合良くないの?こんなに残して・・」
「あ、ウン。ごめんね、お母さん・・ほのかもう寝る。」
「どれどれ・・熱は無いようね。じゃあお風呂沸いてるから先に入りなさい。」
「はぁい・・」

どうやって帰ってきたんだっけ。送ってもらわなかったのは珍しい。
自分でもおかしいな、と感じたのは鏡が見れなかったこと。
お風呂に入るときも、出たときも鏡から目を反らしながら着替えた。
急いでお布団にもぐりこんでも眠れないとわかっていた。
目を閉じると余計に動悸がしてくるようで、逆に目が冴える。
起きていようかと思うけれど、音楽も聴く気にならない。
それよりも明日どうしよう?そればかりが頭を悩ませる。
いつもどおりでいいんだよね、できるかな?こんな調子で・・・

「・・・まだ起きてるよね・・何してるんだろ?」

誰もいない部屋に自分の声が響いて、驚いて口を塞いだ。
独り言がいけないわけもないけど、声に出すつもりなどなかったのに。
結局また布団を被り直して、小さく猫みたいに丸くなった。
何度も何度も繰り返し再生される場面に居所が無いように思える。
あんな・・時間にしてみればほんの一瞬と言える間に、何が変わったの?
なんにも変わってなんかいない、けれど大きく違ってしまっている。
押さえていないとまた口から飛び出しそうで、祈るように手を組んだ。

”たすけて、なっつん・・胸が・・いたいよ”

優しいひとの優しい手がこの場に欲しくて、願えば願うほど眠れなかった。




どうして今日でなければいけなかっただろう、そればかり考えた。
オレは何にもわかっていなかった。わかったつもりになっていた。
気が済んだかと問われれば、否と応える。あれほど願っていたのに。

この身で感じることの重要さなど知っているつもりだった。
幼い頃から修行を積んで、身体のことを人よりは把握していても
まだまだわからないことはあるのだ、当たり前のように多くが。
ひとつひとつ覚えていくしかない。これまでそうしてきたように。
そしてこれからは今までとは比べ物にならないほど困難だろう。
オレひとりで解決できないことだからだ。けれどいくらでも努める。
どんなときでも護れるように。欲に流されてしまわないように。

「・・アイツ・・寝たかな?」

休憩の合間につい気がかりが口を突いて出てしまい、焦った。
訓練で流れた汗と一所にシャワーで洗い流した溜息の数々。
どうせ眠れない。だからいいんだ、たまには。そう思いながら・・
問題は明日だ。アイツは来るだろうか、もし来なかったらどうする?
正解のわからない問題にいくら頭を使っても徒労のように思える。
それでもアイツの笑顔が見たくて、どんな愚かなこともしてしまいそうだ。

”頼む、逃げないでくれ。あいたい、今すぐにでも”

震えてた柔らかな温もりを今ここでもう一度確かめたくて、握る手は熱かった。






朝少し眠ったみたいだ。意外なくらい自然に目覚めてすっきりしていた。
ワタシってもしかして・・ものすごく・・・
なんとなくウキウキしながら顔を洗って、久しぶりに鏡を見た。
思っていたよりずっとワタシは明るい顔色をしていて、朝の挨拶も大声で。

「たいしたことなかったみたいね、よかったわ。」とお母さんも安心していた。
どんどん嬉しくなってきた。ワタシはどうしちゃったんだろう?ウソみたいだ。
あんなにどうしようってそればかり考えていたのに、こんなに変わってしまった。
どんな顔で、なんて無駄な心配だった。なぜなら、あいたくてたまらない。
ワタシは昨日と同じワタシだ。そのことがこんなにも嬉しいなんて。
大好きなあのひとが変わらずに好きだ。ううん、もっと好きになってる。
早くあいたい。飛んでいきたい。抱きしめてもらいたい、昨日みたいに。
そしてもういちど・・・キスしてくれる?・・・息が止まるみたいな。



朝は底抜けに明るい日差しを引き連れて訪れた。なんだこの晴天・・
眩しさにアイツの顔が思い浮かぶ。・・どうしようもねぇな・・・
顔を洗って支度が済んだら、意外に吹っ切れたような気分になっていた。
アイツにこっちからあいに行ってやろうか?なんてことまで考えた。
浮かれてんのかな、もしかして・・?ちょっと自分が莫迦だと思えた。

もし驚かせて、逃げたらどうするかと思わなくは無かったけれど
意外に楽天的な自分に気付いた。アイツの能天気がうつったのだろうか?
オレはどうしたってアイツを想う気持ちは止められない、止めるつもりもない。
逃げたら、追いかけてもいい。それはしゃれにならんかな、と思いつつも。
要するにあいたいのだ。どんな言い訳も浮かばない。顔が見たくて堪らない。
もういちどこの腕で抱きしめて・・・口付けたい・・・あんな眩暈がするほど。


「お母さん、行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい、なっつんによろしくね?」

お母さんにおっけーと了解の手を振って、家を出ると足はだんだん早くなる。
とうとう駆け出して家の近所の公園まで走ってくると、驚いて立ち止まった。
向こうに見えるのはワタシがあいたくってたまらないひとじゃない!?
ねぇ、どうしちゃったの!?あいにきてくれたの?ああ、もうどうしよう・・
日曜日でよかった。そんなこと今まで思い出しもしなかったけど。
そう思いながらダッシュした。あのひとを目掛けて、まっすぐに。


「なっつん!!」

飛び込んだ先はどんなところより安心な場所。ワタシひとりの特等席。

「オマエ・・朝からどこへ行くつもりだ!?」
「ここだよ、ここ。わかんないっていうの!?」
「逃げたら追っかけてやろうかと思ってたってのに。」
「ええ!?よく言うね、逃げそうなのはそっちじゃないか。」
「オマエはしつこいから逃げるなんて無駄だろ?」
「まぁね。そりゃ追いかけるよ?逃げたらね。でもきてくれた・・」
「悪いかよ?」
「誉めてあげる。エライ!」
「なんだちっとも変わらないな。」
「安心した?」
「ぴーぴー泣いてなくてよかったぜ。」
「泣くならなっつんに当り散らして泣くもん。」
「そうしろ、その方がオマエらしい。」
「ウン。なっつん、愛してる。」
「あ?!・・なんだよいきなり・・」
「ほのかね、今までこのコトバってウソっぽいって思ってたの。」
「・・そう・・だな。」
「でもなんだか信じたくなったの。そしたら使ってみたくなって。」
「へぇ・・待てよ、まさかそれオレにも言えっていうんじゃ・・」
「ウウン、いい。ほのかが言ってみたかったの。」
「そっか・・」
「なっつんが言うと気持ち悪いから遠慮しとく。」
「気持ち悪いとはなんだよ!?」
「だって。その変わりにね、えっと・・・そのぅ・・」
「何しろってんだ?」
「・・言わないとダメ?」
「ははぁ・・そうだな、オマエはオレと違って正直なんだろ?」
「ぐ・・意地悪だなぁ・・じゃあやめとこうかな・・?」
「そうか。」
「むー・・・なっつんしたくないの!?」
「オマエが泣いて当り散らしてもする。」
「!?・・・なんだぁ・・・もう・・!」
「待っていられねぇってわかったからな、昨日。」
「・・・ほのかも・・自分でも知らなかったんだ。」

心と心が会話した。こんなことがあるってことも身をもって知った。
愛なんて知る前ならば、わからなくて当然かもしれない。
知ってしまえばいくらでも幸せを感じられる大切なことだとわかる。
それはキスひとつであっても。愛するひとがいるならば。