真幸(まさき)の夜 



月明かりも薄い夜更けに銀の髪を靡かせて、殺生丸は帰還した。
そっと月光のごとく静かに降り立ったためにそよと風が吹いたのみであった。
従者の一人は高鼾で何事もなかったように眠り続け、その傍らの少女もまた眠っていた。
殺生丸はあどけなく安らかな寝顔の少女に一瞥を送り、変わりないことを確かめた。
少女は時折狼に食い殺されたときの夢や不遇であった昔を夢に見るからだ。
悲壮に歪む少女の顔を幾度も人をその爪にかけてきた妖怪は見たくないのである。
少し離れた場所に腰を落着けて、いつものように静かに佇み目は反らして月を仰ぐ。
月や星を見る目的ではなく、少女に集中する意識を拡散させようとして。
目を閉じれば意識は全て少女に向かってしまうからだろうか。
しかし突然ぴくりとその端正な顔から眉が上がり、少女に視線が向けられた。
少女が予想外にも突然起き上がってこちらを見ていた。
ぼんやりとした表情で殺生丸の方をまっすぐ見つめている。
すっくと立ちあがると、殺生丸の目の前までやって来た。
いつものように元気に「お帰りなさい」とも言わずに無言のままである。
どうやら寝ぼけているらしいと殺生丸は察した。
じっと無遠慮に視線を投げてくるりんを殺生丸も見つめ返した。
「殺生丸さまだ・・・」声はいつもと違って張りが無くか細い。
だが嬉しそうに微笑むと殺生丸の頬を両手で挟むように包み込んだ。
「うわあ・やっぱり綺麗だ・・・好い夢だなあ・・!」
とろりと溶けそうな眼で殺生丸を見やる様は艶めいた感も漂う。
「夢ならこのまま覚めないといいのに・・・」
そう呟くと、殺生丸の首に手を廻して縋りついた。
「ねぇ殺生丸さま・・ずっとこうして傍に居て・・このまま・・・」
そう言ったとたん少女の身体から力がすうっと抜けていった。
深い眠りに落ちていく少女を殺生丸は片方しかない手で支えた。
そっと頬擦りし、髪に顔を埋めるようにして少女の匂いを嗅ぐ。
犬が本性であるせいか、時折殺生丸は少女の知らぬ間にそうするのだった。
匂いに満足すると少し顔を離したが、少女の身体を抱えて動こうとしない。
大柄な妖怪と小柄な少女であるから、子を抱いている母のようにも見える。
そしてそのままゆっくりと再び月と空を仰いだ。
その夜、少女の願うままに殺生丸は少女を抱いていてやった。
髪を梳いてみたり、反らした視線を少女の寝顔に戻したり離したりを繰り返した。
まるで何かの戒めに耐えるかのようであり、どこか楽しんでいるようにも見える。
殺生丸に抱かれた少女は幸せそうに微笑を浮かべたまま眠っていた。
起きたときどんな顔をするだろうか、煩い従者を黙らせねばとほんの少し苦笑する。
まだまだ子供、だが段々と好い匂いを増してきたと心密かに悦に入る。
殺生丸はその鋭い爪を潜め、少女の眠りを妨げぬように注意を配り、
その可愛い願いを叶えるために最大の努力を払っていた。
「りん・・・」
小さく小さく名を囁いてみると、少女はくすぐったそうに身を寄せる。
それが気に入ったものか、間を空けてまたそっと囁いてみる。
起こさぬように慎重に、じっとして動かさぬように。
端から見ているものがあれば、恥かしさに眼を反らすほどに
殺生丸という妖怪は少女を大切な宝のように扱っている。
心中では、安らかな眠りを侵して夜通し鳴かてみようかと企んでいるかもしれない。
だが今夜もそうはせず・・・
柔らかな寝顔ごと少女を護る。
愛という言葉を知らぬまま深く愛し、
幸という意味も知らぬまま身に深く感じている。
こんな夜があったことを忘れはしないだろう。
やがてその身を己のものとした後も、少女が去って独りになってしまっても、
ひたすら大切に腕に抱いた少女がいたことを。
この安らぎを閉じ込め、深く真の幸(さき)を味わう。
穏やかに流れる時に生れ出ずる喜びを胸に殺生丸は目を閉じた。


少女が夢うつつに呟いた。
「殺生丸さま・・どこ・・」
「ここに居る」

「ありがとう・・殺生丸さま・・」
少女の小さな手が縋るのをそっと握り締め、唇を乗せてみる。
再び深い眠りに引き込まれ、少女は寝息を吹きかけてくる。
その息ですらいとおしいとばかり身を更に近くへと引寄せる。

月明かりの夜、妖怪と少女はただ一心に寄り添っていた。
誰も知ることのない夜だった。

真に幸せであった夜。