北の森と海にて (七)



耳が痛くなるような静寂が辺りを包んだ。波や風の音までもが絶えたようであった。
緊張のためりんの指は強く握り締められていたが、殺生丸の毛皮に護られ冷たくはない。
ふとこんな風に抱きかかえられたままで昼間に過ごすことがあったろうかとりんは気付いた。
”こんなときに何のんびりしたこと考えてるんだろう、りんって・・”
心の中を隠すように唇をきゅっと結び、平伏した日名たち親子の方を再び注視した。
”こんなに大きくて山のような『神様』は普段どこにいらっしゃるんだろう?”
りんは緊張を解すために無意識にしているのだが、他方へと気持ちが傾くのがどうにも気が咎めた。
後ろの方からなるだけ静かに気を配りつつも近付いてきている阿吽と邪見にも気付いた。
泡を吹いていたはずであるのに意外にも早く意識を取り戻した邪見はこの場の緊張感に青ざめていた。
普通ならば顔色のわかり難いところだが、りんは思わず”邪見さま、大丈夫?”と声を掛けた。
”それはこっちの科白じゃっ!おまえはもう・・心配ばっかりさせおって”
”うん、ごめんなさい、邪見様、阿吽もごめんね?”

殺生丸自身はというと、そんな邪見やりんたちと共に立ち去ってしまいたいところであったが、
成り行き如何とするかのように無言で彼らを見据えたまま動かない。
家宝であった『命の珠』にはもう興味もなかったが、血生臭い結果にりんが悲しむことになるのは
何故か赦し難いと感じられ、その場に踏みとどまったというのが彼なりの理由であった。


”・・・・願いがあると・・・申すか・・?”

こそこそと小声でやりとりしていたりんと邪見はその『声』に驚いて飛び上がった。
ズンと響くその声は頭の中に木霊するような聞こえ方であったため、りんなどは軽い眩暈を覚えた。
邪見も眼はぱちぱちとしばたいているので、同じように聞えているのだろう、阿吽も低く頭を下げた。


”・・・何卒、お赦しいただきたい・・・我らは・・共に生きたいと存じます・・・”

それは日名の父の声であった。母は頭を伏したままであったが、日名は一瞬眼を『神』に向けた。
当然それが気付かれない筈もなく、日名は思い切ったように頭を上げて声を振り絞った。

「神様!よくぞいらしてくださった。どうか・・どうかお願いです。・・・独りは辛すぎるのです。」

神は何故現れたのか、彼らをどうするつもりであるのか、りんも日名の切なる叫びの答えを待った。
必死の覚悟と想いが日名たち親子たちを包んでいる。赦されないのであれば、との想いはりんにも伝わった。
このことを余所者である殺生丸にどうこうすることはできないかもしれないが、一縷の望みも抱いていた。
そして自分にもできることがあるのならばと覚悟を決めた。

”・・・水の名のものよ・・・この地に訪れる人々をいつもからかって『憂』を晴らしておったな・・”
”・・・森の名のものよ・・・娘可愛さに・・その悪戯な所業にずっと眼を背けておったな・・・”
”汝らは・・・戒めに従ってさえおれば・・それで赦されると思っておった・・・勝手なものたちよ・・・”

日名の両脇の親たちは言葉も出ず、更に砂地の浜に頭を擦り付けるように平伏した。

”日名よ・・・あれらはおまえが生まれようとも覚悟もなしに放っておいた輩じゃぞ・・”
”それでも共に暮したいのか・・おまえよりも余程子供のような名ばかりのものたちなるぞ・・・”

「はい、独りよりずうっといい。日名は・・・この水と森のこどもだもの。この二人が良いのです。」

今度の日名の言葉は叫びではなく、ごく普通に淡々と述べられた。その言葉に打たれたのは親たちである。
切れ長の水の化生の眼からははらはらと美しく光る珠が浮かんでは零れ落ちた。おそらく涙であろう。
緑の男は感極まり、不思議なことに身から次々と木の芽のようなものが噴出して長く蔓を伸ばした。

「りんに教えてもらったのです・・・在るものを受け入れるということを。日名は拗ねているだけでした。」

自分の名が挙がるとは思いもよらず、りんは驚いて頭を左右に振って否定を示そうとした。
しかし、日名はまだ続けて言った。

「『命』など・・軽んじておりました。己のものも含めて・・・」
「だから父や母だけが悪いのではないのです、日名も同じ。どうか共に学ぶ場をお与えください。」

りんは彼らの『神様』に向き直るため、殺生丸の懐からひょいと飛び降りた。
寒さのことなどは頭になかった。こんなところからでは失礼だろうと思って毛皮の中から出たのだ。
殺生丸はあっさりと放したが、それは今この場が切り取られたように固まっていると気付いたからだった。
時間や温度といった生々しい感覚が狂わされでもしたように感じられなかった。
すたすたと日名の近くまで行くと、手を取って二人で神様の方へ顔を上げた。

「りんからもお願いします。神様、日名ちゃんはとっても優しい子だよ。」

”日名よ・・良い友人を持ったな・・・水や森も、役目を忘れるでないぞ・・・”

山のごとく巨大な龍の頭部にある瞳が優しく細められたかに見えた。すると突然『音』が戻った。

「あっ!?」
「りん!!」

冷たい風が吹いてりんの小さな身体を浚おうとした。手を握っていた日名が慌てた声をたてた。
派手に光り輝きつつ現れた神は、なんと一瞬で掻き消すように姿を隠したのである。
砂地であったはずの足元がいつの間にか海水に覆われてもいた。日名はとっさに透明な球体を出した。
そこへりんを入れようとしたのだが、あっと言う間もなく殺生丸が来ていることに気付き呆れた。

「まぁ!なんて素早い・・・殺生丸ってりんのことを本当に・・」
”日名、済まぬ。もう一人にはしないからな?”
”日名や、母に・・母だとて!”
「・・・お役目は?戻らなくていいの?!」
”まずは我らが三人で過ごせる時と場所を作ろう、お役目も忘れてはおらぬから案ずるな”

「日名ちゃんたち、大忙しだね。殺生丸さま!良かったね?!」
「もう行くぞ・・」
「はぁい!日名ちゃーん・・・元気でねーっ!」
「あっりん、元気でねーっ!そうだ、りんと遊びに来てね、殺生丸!そのうち子供でも生まれたら一緒にねー?」

「あれ?最後なんて言ったんだろう?殺生丸さま、聞えた?りん聞えなかったんだ・・」
「・・・・」

「行くぞ」と声かけてすぐに殺生丸はりんを抱いて中空へと舞い上がった。
当然殺生丸には耳に届いていたのだが、抱えられていたせいもあってりんは聞き逃したのである。
しかし殺生丸は眉間に皺を寄せたまま無言であった。阿吽に乗って傍で聞いていた邪見が狼狽している。

「なっなななんということを・・!?あやつとっとんでもないことを口走りよって〜!!」
「えーっ!?邪見さまぁ、聞えたんなら教えてよー!日名ちゃんなんて言ってたのーっ!?」

阿吽が答えるようにぐぐるーっと喉を鳴らしたが、りんには意味の分かろうはずも無い。

「じょっ冗談にもならんわっ!阿呆っ!!そっそんなこと言えるかっ!!?」
「ぐぐうーーー!!」
「邪見さまの意地悪!阿吽、阿吽の言葉わかんないんだよ、ごめんねーっ?」


北の空には雲もあったが、風の冷たさがりんには心地よく感じられた。
遠去かり、森や海の様子がよく見渡せる高さになるとりんは毛皮の中でもう一度お別れを呟いた。
「日名ちゃん・・・さよなら。もう逢えないかもしれないけど元気でね。」
すると、珍しく殺生丸がりんに向かって、いつもの窺い知れない表情のまま囁いた。
「・・・また来る・・」と。
「殺生丸さま!?また連れて来てくれるの!?嬉しいっ!りん楽しみにしてますっ!!」

無邪気なりんの笑顔に僅かだが眼を細め、すぐに殺生丸は前方へと視線を戻した。
このことを邪見は知らない。知っていたらまた泡を吹いて気を失ったかもしれない。
先ほどの日名の言葉に答えているのかどうかは、殺生丸自身であらねば判らない。

今は未だ人の踏み込めない北の台地であろうとも、いずれ少しずつ姿を変えていく。
これから百年もすれば、未開である土地に人間も踏み込んでくるやもしれないのだ。
ここを護る彼らは、そのときどうするのであろうか。りんのような者は珍しい。
それは東の妖怪たちにとっても、無関係な話ではなかった。
精霊であろうと妖怪であろうとも、手を取ろうとする人間が多く存在するはずもない。
長い時の狭間で生きる殺生丸の胸中にはそんな想いも隠れていた。
しかし思い出と未来への期待に胸膨らんだりんの眼前には鮮やかな緑と煌く海がただただ広がっていた。





〜数ヶ月後〜




東の地へと戻ってきた殺生丸一行たちは変らぬ旅を続けていた。
邪見はふと思い出してそのときの話を振り返り、りんに尋ねてみた。

「そういえばりん、おまえ『命の珠』とやらがあれば我らとともに生きられるかもしれんかったのに、」
「なんでまたあんなにあっさりと断ったりしたんじゃ?」
「え?なんでって・・あのときも言ったけど人の大切なものをもらえないよー!」
「じゃがしかし・・・」
「いいんだよ。りんは妖怪じゃないんだから、寿命が違うのは仕方ないことでしょ?」
「ありがとう、皆が優しくしてくれてりんすごく幸せだよ。」
「欲のないやつじゃの。人間なんぞもっと浅ましいもんじゃと思っとったが・・」
「りんはすごく恵まれてるんだもん!だからこれ以上望んだらバチがあたっちゃう!」
「・・おまえそんなに殺生丸さまに拾われて幸せか・・?!」
「ものすごーく!」

りんは満面の笑みを浮かべ、邪見は黙るしかなかった。
愚問であったなと感じたからである。そして”りんでよかった”とつくづく思った。
殺生丸さまがりんを見つけられてほんによかった。そう思えるのもまた・・・りんのおかげなのかの?
歳を重ねてりんは少しずつ女らしくなってゆく。これから先どうなさるおつもりか・・・
”・・・ふたりの子・・・”
彼ら北の大地の面々との別れ際の言葉も思い出して、邪見はふるっと身震いした。
”あのときはとんでもない、と思ったんじゃが・・・”
北の森と海を思い浮かべるとあのときの旅は、殺生丸一向にとって思い出深い訪問であった。
いつかあの地へと赴くときは・・・邪見はどうなっているかを密かに楽しみにすることにした。





完結いたしました。長らく間お待たせしたことを深くお詫びします。
そして物語のヒントをくださったミント様、ありがとうございました。
こんな拙い物語を楽しみに読んでくださった全ての皆様に感謝します。
どうもありがとうございました。
それともう一つ、このお話は随分以前に考えたものですので、りんを
人里へ預けるという原作の結末には沿いませんがご了承願います。