北の森と海にて (六)



球の沈んだ海面が抉られるように引くと波間から再び球に包まれたりんが姿を現した。
引き上げられた際の衝撃がどれほどりんの身に影響したかは人に在らざる者には判断し難い。
しかし球体の中のりんの様子はくたりとして小さな身を伏せたままぴくりともしていない。
その様から果たしてりんの息はあるのかどうかと他の者がそう懸念を浮かべるや、
球体の上から下へ一閃の光が下りた。次いで美しい水の飛沫が撒き散らされる。
綺羅とした飛沫が瞬く間にかき消えた後、りんの身体が宙に浮いたようにそこにある。
それらはあまりにも一瞬の出来事であったが、殺生丸によって球体は斬られたということだ。
囲いを失い、重力に因ってりんの身体が落下する前に殺生丸は既に駆け寄っていた。
そして彼の懐へとりんがゆっくりと納まるまでの、おそらくは瞬きするほどの時を一同は見守った。
豊かな銀の毛皮に包まれるようにりんは殺生丸に抱かれ、名が呼ばれた。

「りん、起きろ。」

殺生丸の声はまるで何事もなかったかのように冷静で感情を窺い知れない。
りんの身体がふるっと一つ軽い身震いをすると、殺生丸は己の毛皮に包み直す動作をした。
それはりんへの妖怪らしからぬ配慮であった。見守る者たちはそこに二人の絆を垣間見た。
やがてゆっくりと目蓋が揺れて開かれ、目の前の妖怪にりんは穏やかに微笑んだ。

「殺生丸さま・・」

りんの笑顔が零れると、張り詰めていた冷気が嘘のように和らいだようであった。
それは妖怪と人の子の醸し出すものと、いつの間にか夜明けて降り注ぐ陽光の所為でもある。
日に晒されると荒れていた海は穏やかに鎮まり、森のざわめきも大人しくなっていった。
しかしそんな静寂の中に突然慌てふためいた声がして、彼らの注目を浴びた。

「殺生丸さま〜っ!り〜ん!ご無事でー!?」

阿吽と伴にやって来ていた邪見である。主人がりんを抱いているのを見て安堵している。
そんな従者たち見とめると、殺生丸は彼らの元へ向かおうとした。

「待って!行かないで!!」

りんを取り戻せば他用無しとばかりに去ろうとする殺生丸を日名は引き止めた。
ちらと一瞥した殺生丸の胸元ではりんが顔を覗かせ、「あ、日名ちゃん!」と呼んだ。
「殺生丸さま!日名ちゃんのところへ少しだけ行っていいですか?」
「お友達になったから、帰る前にお別れを言っておきたいの。」
「・・・・」
ほんの少し眉を顰めたが、殺生丸はりんを抱いたまま日名へと近付いて行った。
日名の親たちは娘の所業に対し”報復”が為されるのかも知れぬと身構えた。
しかし殺生丸は何も行動を起こす様子はなく、りんも人懐こい笑顔を娘に向けていた。

「日名ちゃん、りん一緒に遊べて楽しかったよ。元気でね。」
「りん、酷い目にあったのに怒っていないのね。」
「え?日名ちゃんが出してくれたんじゃないの?あのまあるい球から。」
「あれは私が斬った。」と殺生丸がぼそりと告げた。
「・・ええそう。でもあれはいくらでも作れるの。命の珠があれば・・」
「その『命の珠』はお前の内に在るのだな。」と殺生丸は尋ねた。
「そう、私のなかに沈められている。だから取り戻したいなら私ごと・・」

”お、お待ちを!日名は・・どうか日名の命だけはお赦しください!”

殺生丸が訪ねて来た理由である家宝の在処が知れたため、化生たちは娘の身の危険を案じた。
黙っている殺生丸にりんが毛皮から首を伸ばし、見上げるように呟いた。
「まさかそんなことしないよね?殺生丸さま。」
不安な様子の化生たちだったが、当の日名だけは顔色も変えず殺生丸の答えを待っていた。
「それは父がくれてやったものだと聞いた。もう用はない。」
殺生丸のあっさりとした答えに親たちは身構えた分肩透かしを食らったようだ。
しかし、そんな両親の安堵とは裏腹に日名は殺生丸に申し出るように言った。
「殺生丸、命の珠ならお返しする。どうぞ持って行ってちょうだい。」
「日名ちゃん!?」”日名!?”
日名の言葉にりんと親たちが驚きの声を上げ、身を乗り出した。
「貴方がここへやって来たのはこの『命の珠』の在処を確かめる為だったのでしょう?」
殺生丸は肯定はしなかったが、否定もせずに黙ったままその場を動かない。
「そしてこれを使ってりんの命を永らえようとしたのではないの?」
その問いに殺生丸が答える前にりんが口を挟んだ。
「まさか!違うよ、日名ちゃん。」
りんがあっさりと否定を口にしたため、日名たちは少なからず驚いたのであるが、
殺生丸は何も答えず、りんの言った言葉に顔色一つ変えることはなかった。
「殺生丸さまやお父上だって一度あげたものを取り返したりしないと思うよ。」
「それにりんは要らないよ。日名ちゃんの大切な命を護るためのものなんだし。」
にこやかに断るりんにどこか寂しそうな日名の声が低く呟くように漏らされた。

「もう・・寂しい思いはしたくない・・・命などいらないわ・・」
「そんな!ダメだよ、日名ちゃん。おっ父やおっ母が悲しむよ!?りんだって・・」
「ありがとう、りん。あなたのこととても好きになったわ、初めての友達・・」
「日名ちゃん、りんだって。だから元気出して?」
「なんだか何もかも面倒になってしまったの・・」
「日名ちゃんが大切だから、皆が宝物を持たせてくれたんだよ!?」
「じゃあ・・どうしてたった一人で放っておくの?私は何のために生きているの!?」

日名の訴える孤独の苦悩は想像を絶するものであろうと思いながらもりんは諦めなかった。
「生きてるから逢えたんだよ!『寂しかった』って言おう。神様にもお願いしてみよう、ね、日名ちゃん。」
「りん・・」
「死ぬ前にしたいことはぜんぶやってみなきゃ!」
「・・・・」
日名の諦めたような虚ろな顔に生気の兆しを見てとると、りんは続けて言った。
「まずおっ父やおっ母に一緒に居たいって伝えたら?今すぐ傍に居てくれてるじゃない!」
「・・・伝えて・・どうなるの?」
「どうなるかなんていいから!思うことだけ伝えてみよ?」

りんは一生懸命だった。その訳を理解し難い日名にも確かに強い想いを感じることはできた。
人間などに何がわかるだろうと腹の底では思っていたが、それは思い違いであったのだろうか。
りんの熱意ある説得にそんな思いを抱きながら日名は尋ねてみた。
「りんは・・生きていることが大切だと・・そう言うのね?」
「りんは生きてることが嬉しいんだよ。一度死んでるから余計そう思うのかな。」
「まさか、そんなことできるはずはないでしょう?!」
「殺生丸さまのおかげなの。だからいつか殺生丸さまに恩返ししたいんだ・・」
「・・・不思議な運命ね・・あなたと殺生丸には何か見えない繋がりを感じる・・・」
「え?そ、そうなのかな?!よくわかんないけど・・・」

日名の目に生気が宿っていくように感じると、りんはほっと胸を撫で下ろした。
殺生丸が「帰るぞ?」と声を掛けた。気の短い妖怪は、自分たちの話に気まずく思うのであろうか、
そう思った日名はくすりと笑ってしまった。素っ気ない態度はまるで照れてでもいるのかと感じる。
「気が短いのね、殺生丸って・・あなたのことが心配なんでしょうけど・・」
言いつつ軽やかな笑顔を浮かべた日名に、りんはもちろん、日名の両親たちをも驚いた。
「日名ちゃんとっても素適な笑顔!すごく可愛いよ!」
「可愛い?!そんなの言われたのも初めて。りん、私、思うこと・・やってみるわ。」
「良かった。応援してるからね、きっと一緒に暮らせるよ。」
「りん、もっと一緒に居たかったな・・でもありがとう、さようなら。」
「うん、ありがとう!さようなら。おっ父やおっ母と仲良くね!」
日名とりんは手を繋ぎ、別れの挨拶をした。同じ生き物でなくともそこには確かに友情が芽生えていた。


”・・・殺生丸さま、そしてりん様、私からも御礼申し上げます・・・”

それまで見守っていた日名の父親が徐に口を開き、殺生丸とりんに頭を深く下げたあと続けた。
”我々はなんと愚かで浅はかであったことでしょうか・・・”
”神に離れ離れにされた意味がようやく理解できました・・”
”日名や・・父や母たちが勝手なせいで長い間すまなかった・・”
”共に暮らすことを神にお赦し願いあがろうか、我ら皆揃ってな・・”

初めて耳にする父親の声はまるで聞くものたちを癒すように優しい声であった。
日名は呆然としながら、父の声に耳を傾けていた。父に寄り添いながら母も頷いた。
親子の再会と和解を目の当たりにして、りんは心の底から喜んだ。
殺生丸には変化は見られないが、りんの喜ぶ様子に視線は注がれていた。
感激して零れた嬉し涙を拭うと、りんは殺生丸に向き直った。
「殺生丸さま、お待たせしてごめんなさい。もういいよ。」
無言で頷く殺生丸はりんを抱きなおし、先ほどから待ちぼうけの邪見たちの元へ向かおうとした。
その二人の背中越しに突如音も無く何かが弾けたような光が降り注ぎ、一同の視界が奪われた。
少し離れていた邪見と阿吽たちも突然の光りの眩しさに悲鳴を上げてその場に蹲った。
庇うように包まれた殺生丸の胸にりんは縋りつき、目を瞑った。
やがて少しずつ輝きが治まると、先ほどまで何も無かった周辺に巨大な影が落ちている。
殺生丸はいち早く眩しい視界から脱して、きっと中空を見据えていた。
りんはおそるおそる目を開くと、見上げた殺生丸が見据える先をそうっと目で追ってみた。
そこに存在するものは俄には信じ難いほどに巨大な白い龍であった。
殺生丸の化け犬の本性よりも倍はありそうな大きさで、りんは思わず身震いした。
話には聞いたことはあり、阿吽に良く似た姿なのだが比較すれば阿吽が子猫ほどに感じられる。
圧倒的な迫力であった。りんはぼうっとしたまま殺生丸の毛皮を握り締めていたが、
邪見などは泡を吹いて気を失ったかのように痙攣していた。しかしそのことに誰も気付いてはいなかった。

一同は沈黙し、見惚れたようにその場に釘付けになっていたが、日名の親たちははっと我に返ると平伏した。
その様子から殺生丸とりんに思い浮かぶのはやはり、その存在しかなかった。

「殺生丸さま、もしかして・・・日名ちゃんたちの『神さま』かな・・・?」
「・・だろうな。この辺りの主といったところか・・・」

珍しく言葉で説明してくれたことにりんは嬉しいと思いながら、再び彼らに視線を戻した。
そして日名たちが『神』にどうかされてしまうのかと、ようやく事態を飲み込むと身を堅くした。