北の森と海にて (五)



しばしりんに圧倒されたように呆然としていた日名は突然我に返った。
「りんを置いて行かなかったのね。」
「え?!」
閉じ込められた球体から外を見ると懐かしいとさえ思う双眸があった。
「殺生丸さま!!」
そう叫んだりんであったが次の瞬間地獄を見ることとなった。
凄まじい勢いでりんを閉じ込めた球体は降下し、海の中へと投げ込まれたのだ。
急激な変化に人間のりんは目を眩ませ、気を失ってしまった。
一方、やっと見つけたりんを目の前にしての展開に殺生丸は眉を顰めた。
「りんに何の用がある?」
「あなたに教える義理はない。」
日名は慎重に殺生丸の出方を窺っているようだった。
「随分無作法な子供だ。」
悪戯を咎めたような口ぶりは日名の気に障った。
しかしそれが挑発であることもわかっていた。
「あきらめて他の娘を見つけたら?」
言ってはみたが、答えは返るとは思っていない。
攻撃をかわすタイミングを計って日名は空間を渡ろうとしていた。
しなやかな光る鞭が殺生丸から繰り出された。
瞬時に飛んで後退くとにやりと目を細めて掻き消えんとする。
「・・・」
殺生丸は予想していたかのごとく傍からは何も見えない空間に鞭を振り下ろした。
「?!」
日名の顔が驚愕と僅かな恐怖の色に染まる。
「空間など切れぬはず!!」
「切れずとも揺るがすことは可能。」
間髪入れずに眼前に詰め寄った殺生丸の双眸は冷たかった。
あっという間もなく首根っこを掴まれ、日名は睨む他は成す術も無い。
「仕置きが要るか。」
そう言って力を込めた途端に空が真っ二つに裂かれ、二人は目を覆った。
突然に雷鳴が轟き、対峙する二人を割くように宙空から海へと光迸ったからだ。
文字通り暗雲が立ち込め、海までもが烈しく波立ち始めた。
その上陸からは凄まじい風が吹き荒れ、日名と殺生丸は耐えるしかない。
海へと投げ落とされたりんの方へ一瞥を送り、殺生丸は隙を窺った。
”お止めなさい”
”引かれよ・・”
片方の声は聞き覚えのあるものだったが、もう片方の声は二人に馴染みのないものだった。
「母上?!」
「・・・・」

海の波頭から現れたのは殺生丸が訪ねた白い容貌の化生であった。
そして森の奥から吹く風が渦巻きながら容を結び、濃い緑色の男が現出した。
”子の不始末は我らの不始末”
”お怒りは我らが受けます故、子はそれに免じて許されよ”
双方は日名を庇うように両脇に立ち、殺生丸を真正面から捉えてそう言った。
”日名よ、りんをこれへ戻しなさい”
”あれはおまえのものではないのだ”
それぞれを見比べ、途惑う日名は声を失ったかのように沈黙していた。
”どうした、日名よ”
”父母の言葉が判らぬのか?”
父母と聞いて日名は明らかに目を見開き、溜息交じりに口を開いた。
「私は父母など知りませぬ。りんは戻せませぬな。」
当の日名以外のその場に居たものは皆驚いた風なのが可笑しかったらしく、
あははと甲高い笑い声を上げて日名は更に言った。
「命の珠とともに沈めてしまいました。どうすれば戻るやら解りませぬ。」
親だと名乗る二人はまたもや驚いたが、殺生丸だけは微動だにせず日名を見ていた。
「もう一人は飽きたのです。りんとともに海へと沈んでしまおうかと思いました。」
「誰にも邪魔されず、二人っきりで。」

しばらく黙っていた父母は徐に我が子を水の滴る蔓のようなもので縛り上げた。
「あらあら、どうなさるおつもり?」
くっくと笑い混じりの声を漏らしつつ、日名は何もかも諦め、やけになったように見えた。
「父母を気取りたいのならお好きになさるがいい、私にはどうでもよい。」
拗ねたかのような我が子に動揺している父母を無視して殺生丸が静かに問い掛けた。
「あの珠は斬れるか?」
今度は親子揃ってぎょっとして殺生丸を見返した。
「そう簡単には斬れない・・・仮に斬れたとしても・・」
「りんは海中で命を落とすことになる。」
日名は殺生丸の思惑を推し量ろうとするように慎重に言葉を紡いだ。
「おまえは水中は平気なの?」
「・・・」
”お止めなさい、主もそう長くは動けぬはず!”
「海中深ければ、珠が破れたとたんにあなたもりんもぺしゃんこになるのよ。」
考えの読めない親子が呆気にとられているうちに殺生丸は既に降下を始めていた。
「待ちなさいよ、りんを殺す気なの?」
日名は戒めを振りほどく勢いで叫び、殺生丸を思い止まらせようとした。
次の瞬間に蔓は解かれ、まず白い女の方が、殺生丸を追って声を掛けた。
”珠を海面近くまで我が引き戻してみましょう”
”斬るのはそれまで待たれよ、りんの命惜しければ”
男も畳み掛けるようにそう言い聞かせてみた。
「・・・」
殺生丸はちらと二人を睨みながら、海面でピタと静止した。
「長くは待たぬ。」
”ほんに気の短い・・・ほんの一時お待ちなされ”
女の身体は忽ち液体と化し、海に溶けるように吸い込まれていった。
後を追ってきた日名が殺生丸に再び詰め寄る。
「あなたはりんが大事ではないの?どうしてこんな無茶を?!」
「・・・」
知ったことではないと沈黙する殺生丸に日名は食い下がる。
「りんは私を救おうとしてくれた。りんは私を癒してくれた。」
「りんを生き長らえさせてあげると言ってもりんはそれを断った。」
「ただあなたのところへ戻りたいと言って。」
「あなたはりんの何?どうしようとしてるの?」
「りんはすぐに死んでしまうのよ、我らとは違うのだから。」
「それがどうした。」
いきなり返ってきた答えに日名は開きかけた口を噤んだ。
「りんは私の元に居るのが望みだ。」
「それだけだ。」
「・・・望みを叶えるのがあなたの役目ってこと・・?」
「一度落とした命を繋いだのはこの私だ。」
「りんの命はりんのものだ。他にどうこうさせはしない。」
「りんのしたいようにするのを護ってるというのね・・」
殺生丸は今度こそ面倒だというように口を閉ざし、海面へと視線を反らした。
「命は・・・自分のもの・・・」
日名が呟く言葉を最後に皆一様に黙ってしまった。
揺れる海面を見つめながら、それぞれの思いもまた波打っていた。